国道45号沖ノ田川付近 気仙沼の今 20210118 [東日本大震災]
こんにちは、ヨコミーです。
ここは気仙沼市本吉町風の丘。
昨日1月29日の夜は昼間からの風が力を増し、ボロい我が家が揺すられるほどに(>_<)
雪の舞う日は多いのですが、青空もそれなりに。ただ、寒さの峠は越えたかなぁ....という感じです。なにせ今冬は厳しい寒さが早く来ました。
小寒になり、とても震えていたので大寒には凍る思いかなぁ....と思ったら、例年に無い無気力な大寒でした(^_^;)
といって春めいた訳じゃ無く、それなりの寒さでしたが、寒さのピークは越え、節分を過ぎたかなぁ....と思わせる大寒でした。
最近チョコチョコと出掛けなければならないことがあって、なかなかブログの更新が....(>_<)
小ネタは有るのですが、中ネタと古ネタで構成してみました。
1月18日昼前、用事を足しての帰路、気仙沼市街地から国道45号を南下すると、車で30分も走らないうちに旧・本吉町との境に出ます。
この交差点が境です。奥が南。震災後多くの交通信号機が復旧によってLED化されました。ところがここの交差点は夜に通ることが多く、ヨコミーには新しい信号機が眩し過ぎました(>_<)
右端のコンビニ(写真は駐車場と看板のみ(^_^;)は震災後に出来ました。中央奥に小さくアーチが見えます。左端に太平洋が微かに見えるのですが、薄いです(>_<) 岩礁がちょっと(^_^;) その下で水平に伸びているのがお伊勢浜の防潮堤。
アーチが近づいてきました。
東日本大震災の大津波でJR気仙沼線は大きな被害を受け、JRは国に支援を要請しました。しかし要請は蹴られ、JRは次に地元である気仙沼市や南三陸町に何百億円もの負担を求めてきましたが市町はそれに応える財力が無く...(>_<) 結局鉄路はバス化されてしまいました(>_<)
JRは鉄路を引き剥がし、低い土地は盛土し、低い鉄橋は高くしています。その鉄橋がアーチです。
太平洋は左。薄いです(^_^;) 土色が河口付近で左側は防潮堤、右側が沖ノ田川の堤防です。
アーチから左手前に伸びる現場を見ると、用地の都合か路線の盛土は断面が台形じゃ無く、外側がコングリートのパネルの様な物で覆われた縦長です。
このJR路線と今走っている道路との間が昨年までの国道45号でした。手前のガードレールが邪魔ですが、盛り上げられた様子が分かります。
因みに今走っているこの路面には縦の溝が切られています。「何とか加工」とかのテスト?施工のようで橋の北側だけです。凍結時の横ずれ防止でしょうか?排水性を高めるものでしょうか、なにやら書いてはあるのですが、走行時に読める大きさではありません(^_^;)
西側です。が、助手席からの撮影もあって、分かるのは河川の堤防くらい。すみません(>_<)
あっという間にアーチの脇まで来ました。左下の川水は濁っていますが、オイルフェンスみたいなやつが浮いています。
アーチが過ぎたら河口が見えました。震災前は河口にも小さな橋が有り、それも高く作り替えられました。以前は河口付近でサーフィンを楽しむ人たちを見掛けましたが、今は工事で分かりません。
右に見えるトンネル状のものは、以前小さな踏切があったのでその代替かと。
左手の黄色い重機がある所が旧・国道。その左がJRの路線です。
右奥は通称・大谷の街ですが、この丘にも大津波が押し寄せました。多くは改修したり新築しましたが、解体したままのお宅も....(>_<) 左手の丘は海側ですがやや小高いので被災は免れました。
さあお昼時間が近くなりました....と店じまいしようと思ったら、丁度重ね合わせられるような写真ではありませんが、震災後の写真があったことを思い出しましたので、以下に載せます。
2011年12月14日の撮影の、唯一この辺りを北側から撮った写真です。南北の位置は、南から来た時の右折レーンが見えることから凡そコンビニの前。そして旧道なので東西でいえばそのやや東側の旧道から。右の真ん中辺りに沖ノ田川の橋が在ります。
水田だった左には瓦礫が集められ、更に左側に建てられたプラントで多くが処理されました。
2011年4月22日朝7時前の撮影です。以下3枚は同時刻です。北に走っている途中でのパチリです。震災後40日余り経って初めて自宅に泊まった翌朝、避難所の手伝いに行く途中でした。
右端の木は、2枚上の写真に見える重機の向こうに有る木かと。JRの鉄路が浮いて傾いています。
左奥に見える車の手前が沖ノ田橋。中央から右に見えるコンクリートの残骸はJR気仙沼線の鉄路が通っていた鉄橋の残骸。
トップの写真に見えた交差点が右奥です。あれはあちら側から撮りました。
コンビニは交差点左手のお宅と中央に見える残骸となったビニールハウスとの間に出来ました。ここの辺に写っているお宅は割と小高く、津波の被害は無かったかと。
でもすぐ海側となる右手写真外の家々は数多く被災し、職場のかっちゃん宅は屋台骨がやられて解体。ご近所の先輩宅は夫婦と親が流され、まだ戻っていません(>_<)
気仙沼だけじゃ無いとは思いますが、震災の傷跡はまだまだ癒えていません。増して人の心などは...。
おしまいm(_ _)m
ここは気仙沼市本吉町風の丘。
昨日1月29日の夜は昼間からの風が力を増し、ボロい我が家が揺すられるほどに(>_<)
雪の舞う日は多いのですが、青空もそれなりに。ただ、寒さの峠は越えたかなぁ....という感じです。なにせ今冬は厳しい寒さが早く来ました。
小寒になり、とても震えていたので大寒には凍る思いかなぁ....と思ったら、例年に無い無気力な大寒でした(^_^;)
といって春めいた訳じゃ無く、それなりの寒さでしたが、寒さのピークは越え、節分を過ぎたかなぁ....と思わせる大寒でした。
最近チョコチョコと出掛けなければならないことがあって、なかなかブログの更新が....(>_<)
小ネタは有るのですが、中ネタと古ネタで構成してみました。
1月18日昼前、用事を足しての帰路、気仙沼市街地から国道45号を南下すると、車で30分も走らないうちに旧・本吉町との境に出ます。
この交差点が境です。奥が南。震災後多くの交通信号機が復旧によってLED化されました。ところがここの交差点は夜に通ることが多く、ヨコミーには新しい信号機が眩し過ぎました(>_<)
右端のコンビニ(写真は駐車場と看板のみ(^_^;)は震災後に出来ました。中央奥に小さくアーチが見えます。左端に太平洋が微かに見えるのですが、薄いです(>_<) 岩礁がちょっと(^_^;) その下で水平に伸びているのがお伊勢浜の防潮堤。
アーチが近づいてきました。
東日本大震災の大津波でJR気仙沼線は大きな被害を受け、JRは国に支援を要請しました。しかし要請は蹴られ、JRは次に地元である気仙沼市や南三陸町に何百億円もの負担を求めてきましたが市町はそれに応える財力が無く...(>_<) 結局鉄路はバス化されてしまいました(>_<)
JRは鉄路を引き剥がし、低い土地は盛土し、低い鉄橋は高くしています。その鉄橋がアーチです。
太平洋は左。薄いです(^_^;) 土色が河口付近で左側は防潮堤、右側が沖ノ田川の堤防です。
アーチから左手前に伸びる現場を見ると、用地の都合か路線の盛土は断面が台形じゃ無く、外側がコングリートのパネルの様な物で覆われた縦長です。
このJR路線と今走っている道路との間が昨年までの国道45号でした。手前のガードレールが邪魔ですが、盛り上げられた様子が分かります。
因みに今走っているこの路面には縦の溝が切られています。「何とか加工」とかのテスト?施工のようで橋の北側だけです。凍結時の横ずれ防止でしょうか?排水性を高めるものでしょうか、なにやら書いてはあるのですが、走行時に読める大きさではありません(^_^;)
西側です。が、助手席からの撮影もあって、分かるのは河川の堤防くらい。すみません(>_<)
あっという間にアーチの脇まで来ました。左下の川水は濁っていますが、オイルフェンスみたいなやつが浮いています。
アーチが過ぎたら河口が見えました。震災前は河口にも小さな橋が有り、それも高く作り替えられました。以前は河口付近でサーフィンを楽しむ人たちを見掛けましたが、今は工事で分かりません。
右に見えるトンネル状のものは、以前小さな踏切があったのでその代替かと。
左手の黄色い重機がある所が旧・国道。その左がJRの路線です。
右奥は通称・大谷の街ですが、この丘にも大津波が押し寄せました。多くは改修したり新築しましたが、解体したままのお宅も....(>_<) 左手の丘は海側ですがやや小高いので被災は免れました。
さあお昼時間が近くなりました....と店じまいしようと思ったら、丁度重ね合わせられるような写真ではありませんが、震災後の写真があったことを思い出しましたので、以下に載せます。
2011年12月14日の撮影の、唯一この辺りを北側から撮った写真です。南北の位置は、南から来た時の右折レーンが見えることから凡そコンビニの前。そして旧道なので東西でいえばそのやや東側の旧道から。右の真ん中辺りに沖ノ田川の橋が在ります。
水田だった左には瓦礫が集められ、更に左側に建てられたプラントで多くが処理されました。
2011年4月22日朝7時前の撮影です。以下3枚は同時刻です。北に走っている途中でのパチリです。震災後40日余り経って初めて自宅に泊まった翌朝、避難所の手伝いに行く途中でした。
右端の木は、2枚上の写真に見える重機の向こうに有る木かと。JRの鉄路が浮いて傾いています。
左奥に見える車の手前が沖ノ田橋。中央から右に見えるコンクリートの残骸はJR気仙沼線の鉄路が通っていた鉄橋の残骸。
トップの写真に見えた交差点が右奥です。あれはあちら側から撮りました。
コンビニは交差点左手のお宅と中央に見える残骸となったビニールハウスとの間に出来ました。ここの辺に写っているお宅は割と小高く、津波の被害は無かったかと。
でもすぐ海側となる右手写真外の家々は数多く被災し、職場のかっちゃん宅は屋台骨がやられて解体。ご近所の先輩宅は夫婦と親が流され、まだ戻っていません(>_<)
気仙沼だけじゃ無いとは思いますが、震災の傷跡はまだまだ癒えていません。増して人の心などは...。
おしまいm(_ _)m
宮脇俊三の名著『時刻表2万キロ』(角川文庫,1984)では、
「第13章 足尾線──最後の一線」で国鉄全線完乗20800km
を達成も、その後、新線が開通するというので乗りに行った
話が「第14章 気仙沼線──開通の日」で詳述されてます(^^)
by middrinn (2021-01-31 09:04)
快速?特急?に乗って南気仙沼駅から仙台駅までの車窓からの風景が好きでした。
おにぎり1個持って居眠りすることもなく景色を楽しんでいました。
by SWEET (2021-01-31 13:00)
こんにちは、middrinnさん。ありがとうございますm(_ _)m
JR気仙沼線は国鉄時代からも赤字で、廃線対象に見られていたようです。最も開業当初は気仙沼・本吉間のみでしたから、利用はローカルな用事のみ。その後仙台まで開通し、遠距離の通勤通学、出張、通院等々で重宝に利用されていました。なのに...(>_<) 経営がJRに代わっても虎視眈々と狙っていたようで、震災後の復旧に地元自治体へは「金を出せ!」と脅し同様の要求をし、一方、震災直後から積極的にエアバス(^_^;)を走らせ、既成事実みたいなものを作り上げていました(>_<)
JR気仙沼線の鉄路廃止と、沖ノ田川堤防の作り方はとても残念です。
by yokomi (2021-02-02 19:53)
こんにちは、SWEETさん。ありがとうございますm(_ _)m
こちらでは珍しい「快速」でした。気仙沼・仙台間を、2時間を微妙に切る1時間58分とかで結ぶ、当地方にとっては大変画期的な列車でした。
幼き頃は亡き母と共に鹿折から南気仙沼駅まで歩き、駅からは当時終点だった本吉駅まで乗り、そこから小泉の母実家まで歩いて行ったものです。仕事に就いてからは出張で使っていました。
今JRが運行するバスでは、柳津から鉄路に乗り継いでも2時間台では行けません。バス会社が運行する、本吉や歌津、志津川の人々が乗れない直行の高速バスでさえ、2時間半がやっと。
その昔、小泉元首相が「民間に出来ることは民間に...」などと調子の良いことを言って喝采を浴びていましたが、民間に出来ないことは国が責任を持って実行する...とは言っていませんでした。なので鉄路での気仙沼線復旧は出来ず(>_<) 元総理の発言は、直ぐに国庫に入ってしまう国鉄のお金を民間の中で回したいが為のものだったのでしょう。ローカル線が切り捨てられることも分かっていながら...(>_<)
by yokomi (2021-02-02 20:17)
ヨコミーさん 3.11の大震災当時と現在のR45付近階上~大谷方面の写真の紹介ありがとうございます。私も当時の気仙沼の様子が蘇りました。大谷から階上にかけての国道のアスファルトが完全に剥がされ線路も飴細工のようにねじ曲がっていました。大谷の町は比較的高台の様に感じましたがかなりの所まで津波が襲いましたね。階上にある和菓子屋さんは私の友人の奥様の実家でしたが2人とも津波に流され奥様はまだ帰っていません。本当に悲しい思い出になりました。それにしても私が仕事で気仙沼に通っていた時に見てきた光景とはずいぶん様変わりしましね。また出かけてみたいと思います。
by かず (2021-02-08 20:33)
こんにちは、かずさん。ありがとうございますm(_ _)m
最近彗星の撮影処理が進まず、諸事遅れ気味です。古い写真を整理したいのですが、なかなか手が回りません。フイルム時代に撮影した市内も少しあり、比べたいのですが、押し入れからカメラを引き出した程度(^_^;) 大谷の通称・まちは高台なのに...です(>_<) 知人はコンビニ東側にJRの線路が丘を切った中に在り、より海側の丘の上で、たかだか50センチ程度の津波に押し倒された知人がそこに流され、もがいていたところを近所の方に助けられたとか。怖いです(>_<) お菓子屋さんは髙橋? 尾張屋? 吉田? 後でメールでも照会したいです。私もマスクをして御宅を訪問したいです(^_^)v
by yokomi (2021-02-09 18:00)