石巻市立大川小学校 20180430 [東日本大震災]
こんにちは、ヨコミーです。
ここは気仙沼市本吉町風の丘。
今日7月2日は、ここ5日間続いた猛暑の内、最高気温は最も高い33.0℃を記録しました。
東京や大阪、京都等と比べれば大したことはありませんが、三陸沿岸部では異常な高温でした。
まあただ、梅雨が明けたときのように、あのムッとした空気では無いのがまだ救い(>_<)
あっ、風邪の丘でした(^_^;)
この記事は完成間近でしたが、風邪もあって、なんと2週間も寝せてしまいました。ちょっと多忙だった為で、非熟成(>_<)
6月18日からの偏頭痛は、葛根湯や市販の総合感冒薬を飲み、ヨコミーとしては夜は早めに寝たのですが、深夜になっても偏頭痛は治らず、たまりかねて古い薬袋をガサゴソ。
いつか使わずに残っていた鎮痛剤のロキソニンを見つけ、お菓子などと共にゴクン。
薬が効いたようで、暫くしたらぐっすりと眠ることが出来ました。
朝目覚めたら頭痛は無いものの身体がだるく、午後半ばまで寝ていました。
余り長引かずに治り、助かりました(^_^)v
7年前、ヨコミーが東日本大震災による避難所を手伝っていた頃、遠くから何度も支援に来られていた五段さんが、4月末から気仙沼へ来られることとなり、被災地などあちこち案内していましたが、その紹介が初回だけで中断していました。すみません(>_<)
「総会屋」(^_^;)のヨコミー、まだ総会が1つ残っていますが、開催通知が一部出せず、相手待ちで作業が止まりましたので、五段さんと回った被災地の現況紹介を再開します。
4月30日、女川(おながわ)町を15時過ぎに発ち、とりあえず旧・雄勝(おがつ)町へ向かいました。
女川を出て間もなく、一瞬どこかの別荘かと思わせる建物が....。
なんと東北大学の研究施設でした。
雄勝までは結構な曲がりとアップダウン連続の道。ヨコミー、初めてです。
雄勝も湾奥に発達した町で、大津波で殆ど流されました。病院まで。
義弟がやっていた店の跡でも見たかったのですが、すっかりと変わり果て、撮影する気にもなれず、石巻市立大川小学校へ向かいました。合併前は河北町立大川小学校。
正しくは「旧」大川小学校は、避難していた地域の方々も含め、100名以上の犠牲者を出した所。
15時50分、大川小学校へ到着。
ぽつんと学校だけしか無かったように見えますが、周囲には民家が沢山有った様子が、展示してあった写真で分かります。
大川小学校の名前だけが大きく取り上げられていますが、いつか読売の県版にも出ていたように、この辺りを含めた釜屋という地区の悲劇でもありました。
どこにでもあることですが、公共施設としての小学校は地域の避難所にもなっていて、近隣の方々も避難していたと。
中央から右の開口部は、ガラスを多用した玄関でしょうか。
それにしても、左の円筒状の部分は何だったのでしょうか。ホール?
天窓が有るようにも見えますが、窓が少ない設計ですね。
玄関と思われる開口部の内側右壁には、校歌と思われるものが....。
右へ進みます。
昇降口でしょうか。その前に写真が展示してありました。
左下の写真では、学校の直ぐ傍まで家々が在ったことが分かります。
すぐ前にはベンチが設けられ、子等が談笑していたのでしょうね。
やや離れていますが、室内の様子もちょっと分かります。
校庭ですが、なんか違和感が.....。
これは昨年4月22日の撮影です。この日も、避難所を手伝ってくれた増山さんを案内してのこと。
上の写真と比べたら、この慰霊碑が無くなっていることが分かります。なんで??
グルッと見渡しても、見つけることは出来ませんでした(>_<)
でも、ほんと、なぜ?? 所詮よそ者のヨコミー、知る由も有りません。
ただ、左に見える天使のような像と、右隣に在る校門の門柱らしきものは、今でも校地に有ったような.....。
また写真が展示してありました。航空写真です。中央から左上が学校。
東西の北側には、こんなに家々が在ったのですね。
現況からは想像がつきません。
大津波は右に見える川を遡上(下から上へ)してきました。しかし、旧町内に住む方に聞けば、右に見える橋の桁に流された松林の木々が集まり、せき止められた大津波は学校の方へ溢れていったと。
屋体が在った所。左、2階の渡り廊下はねじれて倒れ....。
屋体はコンクリートの所だけ残った感じ。
右手のカラフルなやつは、野外集会施設の外壁を飾る子ども達の絵。
その前に2人が居て、何かを見ています。行ってみましょう。
写真が展示してありました。
「アメニモマケズ....」が悲しいです。
野外集会施設。
右下は、元々右手ステージの後に、多分反響板の役目を負った、曲線状のコンクリート壁が倒れたもの。
余所の所で似た作りのものがあったら、要注意です。鉄筋が入っていたのでしょうけれど....(>_<)
正面奥の、獣道みたいな山道は、毎年3月、4年生?が椎茸栽培の授業で入っていたという「裏山」。杉山です。左には小さな墓石みたいな石がいくつも。
この裏山に直ぐ逃げていれば....という話も聞きます。でも、登り口は良いとしても道は狭く険しそう。雨も降っていて、沢状の所に在る山道は水が集まって滑りそう。
右手の杉が生えていない所は、裏山の「脇山」とか。
でも、コンクリートの落石防護柵が見えますが.....。
どこかの写真に、斜面がコンクリートの枠(段?)で保護された様子が写っていましたね。土留め。
脇の山です。ここに逃げ込んでいれば.....という話もありました。以前は写真撮影で登っていたとか。先生かな? 子ども達は授業の写生で登っていたのでしょうか?
でも、これって単なる山ではありませんよね。擁壁。
過去に土砂崩れが有ったり、その危険性が有って斜面をコンクリートで補強し、雨水が染み込まないように集めて排水する側溝(右の斜め)まで作ったようです。
あの大地震で大きく揺れ、ひび割れが出来ていないとか安全も確認せずに、100人以上もの人の重さを乗せるのは、ヨコミーには躊躇いがあります。
脇山を西側から。下には落石防護柵が設けられています。施工はここまで。
少し離れてみました。中央のコンクリートが脇山の落石防護柵。一帯は平です。
写真説明によれば、学校の教職員子どもたち、地域の人たちは学校を離れ、右手に進みました。進むまでに長い協議の時間が有ったと。これは残念です。
ただ、避難所からの『避難』というのは、それまでの考えでは本当に希かと。なので見落とされてしまう....(>_<)
岩手沿岸部で、あのとき、最寄りの避難所ではなく、より高い所を目指したことで、子ども達が全員助かった小学校がありましたね。確かこのとき、最寄りの避難所は被災したはず(>_<)
両者は条件が違うので、安易に比べることは出来ませんが、避難のあり方、学校のあり方、避難所のあり方を、今一度、早急に見直すことが必要と思うのです。
脇山西側に在る山の下を更に右へ進み....
一同は西へ進み、中央のやや小高い、交差点付近を目指していて、この辺で被災したようです。
3mも高いでしょうか。でも、堤防を走る道路や橋(写真右手外)と同じ高さ。
見れば右手の木陰に何か見えます。
いろんな石碑と観音様(かな)。
右手前の石像と左手前の石碑は対のものと思われ、大川地区で亡くなられた418名の精霊を供養する石碑でした。
他に湯殿山や庚申信仰の石碑、地域の生活を支えた魚介類や鳥獣の霊供養塔等々もあり、一帯は地区の聖なる場所みたいでした。
次はこの裏手に回ってみます。
橋の袂です。橋は凡そ北西方向に架かっています。川上は左奥。
カメラを左に振ってみます。
左隣です。交差点の中。
左手を向こうに延びる道は、北上川に沿って上流に伸びています。
更に左です。交差点の端。
更に左隣です。左下(手前)にちょっとだけ見える土地は、ほぼ学校と同じ高さかと。
擁壁に続く山。1枚上の写真で「左下(手前)にちょっとだけ見える土地」とした場所は、写真下の右、明るい緑で、とんがっているように写っている所。
この辺りは超広角レンズなら1枚でカバーできるのですが、古い安物の超広角レンズは、カメラを認識しなくなりました(>_<)
新品に買い換える予算は無く、使う頻度と修理費用を天秤に掛けても良いのですが、修理せずに我慢していました(T_T)
でも、こんな時に使いたいのですよね....(^_^;)
更に左隣です。やや高台から見下ろした大川小学校です。
更に左隣です。
中央奥に在る電柱に重なっている川は、北上川とは別な小さな川。
左に在る赤い車の上に2本の堤防が見えますが、その上に薄く左右に伸びているのが北上川。
拡大してみました。
右に広く見えるのが、手前を流れる小さな川。
赤い車の上、白い4つの構造物下に見えるのが北上川。構造物は対岸の水門らしいです。
因みに山の向こうは、大凡、南三陸町です。
時間も時間なので、そろそろ出発です(^_^)v
小さな川と北上川の間からの撮影です。左が北上川です。右手、柵の向こうに見える駐車場に赤い車が在りました。
河口は、中央やや右、黒っぽく丸い山の裏、ずーっと先。
海が、河口が学校からは見えない大川小学校。でも校歌には海の記述が有りました。
北上川に架かる橋を渡り終えてからパチリ。中央やや左にちょっとだけ頭を出しているのが大川小学校。
上の写真を撮影した所から3分車を飛ばした所でパチリ。
左奥にようやく河口らしきものが見えてきました。未だ遠いのです。
でも、大津波はやって来たのです(>_<)
次は海岸伝いに南三陸町へ向かいます。
つづく。
ここは気仙沼市本吉町風の丘。
今日7月2日は、ここ5日間続いた猛暑の内、最高気温は最も高い33.0℃を記録しました。
東京や大阪、京都等と比べれば大したことはありませんが、三陸沿岸部では異常な高温でした。
まあただ、梅雨が明けたときのように、あのムッとした空気では無いのがまだ救い(>_<)
あっ、風邪の丘でした(^_^;)
この記事は完成間近でしたが、風邪もあって、なんと2週間も寝せてしまいました。ちょっと多忙だった為で、非熟成(>_<)
6月18日からの偏頭痛は、葛根湯や市販の総合感冒薬を飲み、ヨコミーとしては夜は早めに寝たのですが、深夜になっても偏頭痛は治らず、たまりかねて古い薬袋をガサゴソ。
いつか使わずに残っていた鎮痛剤のロキソニンを見つけ、お菓子などと共にゴクン。
薬が効いたようで、暫くしたらぐっすりと眠ることが出来ました。
朝目覚めたら頭痛は無いものの身体がだるく、午後半ばまで寝ていました。
余り長引かずに治り、助かりました(^_^)v
7年前、ヨコミーが東日本大震災による避難所を手伝っていた頃、遠くから何度も支援に来られていた五段さんが、4月末から気仙沼へ来られることとなり、被災地などあちこち案内していましたが、その紹介が初回だけで中断していました。すみません(>_<)
「総会屋」(^_^;)のヨコミー、まだ総会が1つ残っていますが、開催通知が一部出せず、相手待ちで作業が止まりましたので、五段さんと回った被災地の現況紹介を再開します。
4月30日、女川(おながわ)町を15時過ぎに発ち、とりあえず旧・雄勝(おがつ)町へ向かいました。
女川を出て間もなく、一瞬どこかの別荘かと思わせる建物が....。
なんと東北大学の研究施設でした。
雄勝までは結構な曲がりとアップダウン連続の道。ヨコミー、初めてです。
雄勝も湾奥に発達した町で、大津波で殆ど流されました。病院まで。
義弟がやっていた店の跡でも見たかったのですが、すっかりと変わり果て、撮影する気にもなれず、石巻市立大川小学校へ向かいました。合併前は河北町立大川小学校。
正しくは「旧」大川小学校は、避難していた地域の方々も含め、100名以上の犠牲者を出した所。
15時50分、大川小学校へ到着。
ぽつんと学校だけしか無かったように見えますが、周囲には民家が沢山有った様子が、展示してあった写真で分かります。
大川小学校の名前だけが大きく取り上げられていますが、いつか読売の県版にも出ていたように、この辺りを含めた釜屋という地区の悲劇でもありました。
どこにでもあることですが、公共施設としての小学校は地域の避難所にもなっていて、近隣の方々も避難していたと。
中央から右の開口部は、ガラスを多用した玄関でしょうか。
それにしても、左の円筒状の部分は何だったのでしょうか。ホール?
天窓が有るようにも見えますが、窓が少ない設計ですね。
玄関と思われる開口部の内側右壁には、校歌と思われるものが....。
右へ進みます。
昇降口でしょうか。その前に写真が展示してありました。
左下の写真では、学校の直ぐ傍まで家々が在ったことが分かります。
すぐ前にはベンチが設けられ、子等が談笑していたのでしょうね。
やや離れていますが、室内の様子もちょっと分かります。
校庭ですが、なんか違和感が.....。
これは昨年4月22日の撮影です。この日も、避難所を手伝ってくれた増山さんを案内してのこと。
上の写真と比べたら、この慰霊碑が無くなっていることが分かります。なんで??
グルッと見渡しても、見つけることは出来ませんでした(>_<)
でも、ほんと、なぜ?? 所詮よそ者のヨコミー、知る由も有りません。
ただ、左に見える天使のような像と、右隣に在る校門の門柱らしきものは、今でも校地に有ったような.....。
また写真が展示してありました。航空写真です。中央から左上が学校。
東西の北側には、こんなに家々が在ったのですね。
現況からは想像がつきません。
大津波は右に見える川を遡上(下から上へ)してきました。しかし、旧町内に住む方に聞けば、右に見える橋の桁に流された松林の木々が集まり、せき止められた大津波は学校の方へ溢れていったと。
屋体が在った所。左、2階の渡り廊下はねじれて倒れ....。
屋体はコンクリートの所だけ残った感じ。
右手のカラフルなやつは、野外集会施設の外壁を飾る子ども達の絵。
その前に2人が居て、何かを見ています。行ってみましょう。
写真が展示してありました。
「アメニモマケズ....」が悲しいです。
野外集会施設。
右下は、元々右手ステージの後に、多分反響板の役目を負った、曲線状のコンクリート壁が倒れたもの。
余所の所で似た作りのものがあったら、要注意です。鉄筋が入っていたのでしょうけれど....(>_<)
正面奥の、獣道みたいな山道は、毎年3月、4年生?が椎茸栽培の授業で入っていたという「裏山」。杉山です。左には小さな墓石みたいな石がいくつも。
この裏山に直ぐ逃げていれば....という話も聞きます。でも、登り口は良いとしても道は狭く険しそう。雨も降っていて、沢状の所に在る山道は水が集まって滑りそう。
右手の杉が生えていない所は、裏山の「脇山」とか。
でも、コンクリートの落石防護柵が見えますが.....。
どこかの写真に、斜面がコンクリートの枠(段?)で保護された様子が写っていましたね。土留め。
脇の山です。ここに逃げ込んでいれば.....という話もありました。以前は写真撮影で登っていたとか。先生かな? 子ども達は授業の写生で登っていたのでしょうか?
でも、これって単なる山ではありませんよね。擁壁。
過去に土砂崩れが有ったり、その危険性が有って斜面をコンクリートで補強し、雨水が染み込まないように集めて排水する側溝(右の斜め)まで作ったようです。
あの大地震で大きく揺れ、ひび割れが出来ていないとか安全も確認せずに、100人以上もの人の重さを乗せるのは、ヨコミーには躊躇いがあります。
脇山を西側から。下には落石防護柵が設けられています。施工はここまで。
少し離れてみました。中央のコンクリートが脇山の落石防護柵。一帯は平です。
写真説明によれば、学校の教職員子どもたち、地域の人たちは学校を離れ、右手に進みました。進むまでに長い協議の時間が有ったと。これは残念です。
ただ、避難所からの『避難』というのは、それまでの考えでは本当に希かと。なので見落とされてしまう....(>_<)
岩手沿岸部で、あのとき、最寄りの避難所ではなく、より高い所を目指したことで、子ども達が全員助かった小学校がありましたね。確かこのとき、最寄りの避難所は被災したはず(>_<)
両者は条件が違うので、安易に比べることは出来ませんが、避難のあり方、学校のあり方、避難所のあり方を、今一度、早急に見直すことが必要と思うのです。
脇山西側に在る山の下を更に右へ進み....
一同は西へ進み、中央のやや小高い、交差点付近を目指していて、この辺で被災したようです。
3mも高いでしょうか。でも、堤防を走る道路や橋(写真右手外)と同じ高さ。
見れば右手の木陰に何か見えます。
いろんな石碑と観音様(かな)。
右手前の石像と左手前の石碑は対のものと思われ、大川地区で亡くなられた418名の精霊を供養する石碑でした。
他に湯殿山や庚申信仰の石碑、地域の生活を支えた魚介類や鳥獣の霊供養塔等々もあり、一帯は地区の聖なる場所みたいでした。
次はこの裏手に回ってみます。
橋の袂です。橋は凡そ北西方向に架かっています。川上は左奥。
カメラを左に振ってみます。
左隣です。交差点の中。
左手を向こうに延びる道は、北上川に沿って上流に伸びています。
更に左です。交差点の端。
更に左隣です。左下(手前)にちょっとだけ見える土地は、ほぼ学校と同じ高さかと。
擁壁に続く山。1枚上の写真で「左下(手前)にちょっとだけ見える土地」とした場所は、写真下の右、明るい緑で、とんがっているように写っている所。
この辺りは超広角レンズなら1枚でカバーできるのですが、古い安物の超広角レンズは、カメラを認識しなくなりました(>_<)
新品に買い換える予算は無く、使う頻度と修理費用を天秤に掛けても良いのですが、修理せずに我慢していました(T_T)
でも、こんな時に使いたいのですよね....(^_^;)
更に左隣です。やや高台から見下ろした大川小学校です。
更に左隣です。
中央奥に在る電柱に重なっている川は、北上川とは別な小さな川。
左に在る赤い車の上に2本の堤防が見えますが、その上に薄く左右に伸びているのが北上川。
拡大してみました。
右に広く見えるのが、手前を流れる小さな川。
赤い車の上、白い4つの構造物下に見えるのが北上川。構造物は対岸の水門らしいです。
因みに山の向こうは、大凡、南三陸町です。
時間も時間なので、そろそろ出発です(^_^)v
小さな川と北上川の間からの撮影です。左が北上川です。右手、柵の向こうに見える駐車場に赤い車が在りました。
河口は、中央やや右、黒っぽく丸い山の裏、ずーっと先。
海が、河口が学校からは見えない大川小学校。でも校歌には海の記述が有りました。
北上川に架かる橋を渡り終えてからパチリ。中央やや左にちょっとだけ頭を出しているのが大川小学校。
上の写真を撮影した所から3分車を飛ばした所でパチリ。
左奥にようやく河口らしきものが見えてきました。未だ遠いのです。
でも、大津波はやって来たのです(>_<)
次は海岸伝いに南三陸町へ向かいます。
つづく。