生徒・職員全員無事 気仙沼市震災遺構 旧・気仙沼向洋高校 20230523 [東日本大震災]
こんにちは、ヨコミーです。
ここは気仙沼市本吉町風の丘。
東日本大震災直後、私が手伝っていた避難所へ支援に来られた方々が今月2グループお出でになり、あのときの苦しい時代を振り返りながら御礼を申し上げ、当時出来なかった市内を始めとする震災遺構等をご案内する機会に恵まれました。
まず紹介したかったのは気仙沼市震災遺構となった旧・気仙沼向洋高校校舎。元々は気仙沼魚市場に近い低地に建つ気仙沼水産高校でしたが、移転新築後ややあって、「水産」からのカバーエリアを広げた事を機に、この名前に。
東日本大震災による大きな津波で建物は大きな被害を受けて使えなくなりましたが、的確な判断で生徒も職員も全員無事でした。地震後5分で避難行動を起こしたことが幸いでした。
(写真はクリックすると大きくなります)
あっ、最上階西端の外壁が.....(>_<)
南校舎の西端をパチリ。何で4階部分が??(>_<) 左下は玄関と昇降口。
時間はちょっと遡り、先ずは駐車場から。凡そ西を向いてのパチリです。左の4階建てが南校舎。右は震災後に建てられた、展示施設等がある伝承館。この裏手に北校舎や屋体等が有ります。
まず伝承館で展示や概略の投影を見ます。校舎への出入口は伝承館ですが、ここは撮影禁止なので写真は....
いきなり南校舎1階の廊下です。校舎の北側に有ります。4階まで大津波が押し寄せた、その1階廊下。天井板が有ったのでしょうけれど....。照明は見学用に付けられたものです。
CAD室です。コースによっては、こんな授業もあったのですね。
保健室。
3階の教室に車が....(>_<) 左下に見える図は、写真右奥側凡そ東側から見た図で、立ち入りが出来きるのは凡そ西側なので、車の傾きが逆です。脳内変換をお願いします。海側の窓から流されて入りました(>_<)
説明板の拡大です。図右上のレターケースも覚えていてください。
4階南校舎西端の教室です。浸水自体は30センチ程度なのでしょうけれど、地震や後述の理由で色んな物が散乱しています。特に中央右に見える大きなオレンジ色の物体は....。
同じ室内北側に置かれたレターケース。下から何段かが錆びています。海水がここまで(>_<)
最初の写真に写っていた外壁の破損箇所を教室からパチリ。さて、これは....。
なんと大津波で流されてきた冷凍工場との衝突痕でした(>_<) そして室内に有ったオレンジ色の物体は、窓から入り込んだ冷凍工場の断熱材とは....(>_<)
屋上に上がりました。校庭に西半分です。
校舎前に広がる校庭は、近年パークゴルフの場となり、平日でも賑わっています。左上、島のように見えるのは旭崎。詳細後述。その向こうは海ですが、旭崎の右に南三陸町歌津(うたつ)の岬が伸びています。
写真上から1/3の辺りを左右に走る道は、1km余り西(向かって右)を走る国道45号と左の先に在る景勝地・岩井崎を結びます。その右から1/4辺りで右下に伸びるのは学校の玄関や昇降口に至る通路。
ほぼ南に在る旭崎です。この辺りではやや高くなっていて、上には別荘や神社が有ります。ここの木に10人が登って助かりました。これらの木々は大津波で洗われたのに今でも健在です。
旭崎の説明板です。
校庭の東半分です。左上は再建された魚の冷凍工場。
屋上西側に避難経路の説明板が有りました。
中央上に見える携帯電話中継塔の左下は被災したお寺ですが、その左側の道路を通り右上中程に在る陸前階上(りくぜんはしかみ)駅に一時避難しました。しかし「大津波」との情報で更に奥の階上中学校へ生徒全員と引率した職員が避難。
説明板の拡大です。
まあ結果的には駅で大丈夫でしたが、更なる安全を求めた行動は学ぶべきです。良き判断と行動でした。
岩手県釜石市鵜住居(うのすまい)の小中学生は避難場所を当初設定されていた所から、より安全な所へと2度3度と変更し、途中から合流した保育所の児童を手助けしながら、避難した一行は全員無事でした。
南校舎西端近くから見た屋体跡。コンクリート製の1階部分のみ残りました(>_<) この屋体の右側に有る生徒会館と北校舎の間に、流された民家の2階部分が引っ掛かり、それに乗っていた2人が夜明けまで校舎側から励ましを受け、明るくなってから無事に助け出されました。
南校舎の後ろ側には北校舎が在ります。当時ここは耐震工事が終わり、南校舎も....という段取りでした。中庭西にはヒバの木が有ります。これは水没したのですが、今でも元気です。
大津波来襲時を撮影した写真が有りました。ヒバは完全に水没です。その後更に水位は上がりました(>_<)
渡り廊下の1階から撮影。水没したヒバは元気です(^_^)v
北校舎1階から南校舎の北側をパチリ。大津波が通り抜けた3階までは窓枠さえ有りません。
北校舎から伝承館に戻ると、被災した方々のお話が投影されています。それを見て、終わりとしました。
上の写真説明にも有りましたが、校舎には人が残っていました。以前、職員20人は残って書類が流されないよう高い所へ上げていたと聞きました。工事中であり関係者が25人、近隣から避難してきた人が4人。ここに人が残っていたことにより救助された2人の計51人。
救助された人は別として、重要書類も有ったのでしょうけれど、ヨコミーは、先ずは皆さんに避難して戴きたかったです。4階床上で済んだものの、水位がもっと上がる可能性も有りました。冷凍工場は幸いにかすった程度で済みましたが、正面から衝突したら屋上まで被害があったかも知れません。
近隣から避難されてきた人は多分生徒出発より後で校舎に来たのでしょう。もし出発時までにここへ避難されていれば、生徒の手を借りながらも中学校まで行けたかと。
普通、学校を含めた公共施設は一時避難場所に指定されていることが多いです。なので、ひょっとしたら事前に指定されていなくても、近隣の住民は先ずは学校へ避難しようと詰めかけるでしょう。
海や川に近い低地に建つ、特に小学校で、予め、より高い所に避難場所が決められていない場合、学校の先生方は何処へ避難させようかと迷うでしょう。そこに地域の住民が何十人も押し寄せたら、先生方はどう切り盛りすれば良いのでしょうか。
子供が学校に居る時間帯は多くの家庭で働きに出ており、避難して来る方々は結構高齢者が多いかと。ヨコミーみたく椎間板ヘルニアで走ることが難しかったり、ヨコミー奥様のおリュウさんみたいに足が弱って長くは歩けない人とか....(>_<)
学校や地域が避難計画を作る、或いは見直す際は、一時避難所の設定で終わりとせず、行政を巻き込み、より高い所を目指して欲しいです。もし適切な避難場所が無いなら高い丘に何かを確保してもらったり、近隣の高いビルに避難場所を設けてもらうなり、津波避難塔等を建設して戴きましょう。
また避難行動要支援者等も連れられて来るでしょう。その場合はどうするか等々、色んなケースを想定して立案し、避難訓練を数多くこなして身に付けて欲しいです。
「今まで来ないから大丈夫」なんて思うのは思い上がり(>_<) 人生僅か100年が精々。体験出来ることは少ないです。
あの東日本大震災に押し寄せた大津波は800年周期とか。それでも今の地形が整った年代から考えれば、まだまだ短時間(>_<) 生き延びる為に今出来ることを極めたいです。
ウクライナを始めとする戦争・紛争地域に早く平和が戻る事を祈り、本日はお終いm(_ _)m
ここは気仙沼市本吉町風の丘。
東日本大震災直後、私が手伝っていた避難所へ支援に来られた方々が今月2グループお出でになり、あのときの苦しい時代を振り返りながら御礼を申し上げ、当時出来なかった市内を始めとする震災遺構等をご案内する機会に恵まれました。
まず紹介したかったのは気仙沼市震災遺構となった旧・気仙沼向洋高校校舎。元々は気仙沼魚市場に近い低地に建つ気仙沼水産高校でしたが、移転新築後ややあって、「水産」からのカバーエリアを広げた事を機に、この名前に。
東日本大震災による大きな津波で建物は大きな被害を受けて使えなくなりましたが、的確な判断で生徒も職員も全員無事でした。地震後5分で避難行動を起こしたことが幸いでした。
(写真はクリックすると大きくなります)
あっ、最上階西端の外壁が.....(>_<)
南校舎の西端をパチリ。何で4階部分が??(>_<) 左下は玄関と昇降口。
時間はちょっと遡り、先ずは駐車場から。凡そ西を向いてのパチリです。左の4階建てが南校舎。右は震災後に建てられた、展示施設等がある伝承館。この裏手に北校舎や屋体等が有ります。
まず伝承館で展示や概略の投影を見ます。校舎への出入口は伝承館ですが、ここは撮影禁止なので写真は....
いきなり南校舎1階の廊下です。校舎の北側に有ります。4階まで大津波が押し寄せた、その1階廊下。天井板が有ったのでしょうけれど....。照明は見学用に付けられたものです。
CAD室です。コースによっては、こんな授業もあったのですね。
保健室。
3階の教室に車が....(>_<) 左下に見える図は、写真右奥側凡そ東側から見た図で、立ち入りが出来きるのは凡そ西側なので、車の傾きが逆です。脳内変換をお願いします。海側の窓から流されて入りました(>_<)
説明板の拡大です。図右上のレターケースも覚えていてください。
4階南校舎西端の教室です。浸水自体は30センチ程度なのでしょうけれど、地震や後述の理由で色んな物が散乱しています。特に中央右に見える大きなオレンジ色の物体は....。
同じ室内北側に置かれたレターケース。下から何段かが錆びています。海水がここまで(>_<)
最初の写真に写っていた外壁の破損箇所を教室からパチリ。さて、これは....。
なんと大津波で流されてきた冷凍工場との衝突痕でした(>_<) そして室内に有ったオレンジ色の物体は、窓から入り込んだ冷凍工場の断熱材とは....(>_<)
屋上に上がりました。校庭に西半分です。
校舎前に広がる校庭は、近年パークゴルフの場となり、平日でも賑わっています。左上、島のように見えるのは旭崎。詳細後述。その向こうは海ですが、旭崎の右に南三陸町歌津(うたつ)の岬が伸びています。
写真上から1/3の辺りを左右に走る道は、1km余り西(向かって右)を走る国道45号と左の先に在る景勝地・岩井崎を結びます。その右から1/4辺りで右下に伸びるのは学校の玄関や昇降口に至る通路。
ほぼ南に在る旭崎です。この辺りではやや高くなっていて、上には別荘や神社が有ります。ここの木に10人が登って助かりました。これらの木々は大津波で洗われたのに今でも健在です。
旭崎の説明板です。
校庭の東半分です。左上は再建された魚の冷凍工場。
屋上西側に避難経路の説明板が有りました。
中央上に見える携帯電話中継塔の左下は被災したお寺ですが、その左側の道路を通り右上中程に在る陸前階上(りくぜんはしかみ)駅に一時避難しました。しかし「大津波」との情報で更に奥の階上中学校へ生徒全員と引率した職員が避難。
説明板の拡大です。
まあ結果的には駅で大丈夫でしたが、更なる安全を求めた行動は学ぶべきです。良き判断と行動でした。
岩手県釜石市鵜住居(うのすまい)の小中学生は避難場所を当初設定されていた所から、より安全な所へと2度3度と変更し、途中から合流した保育所の児童を手助けしながら、避難した一行は全員無事でした。
南校舎西端近くから見た屋体跡。コンクリート製の1階部分のみ残りました(>_<) この屋体の右側に有る生徒会館と北校舎の間に、流された民家の2階部分が引っ掛かり、それに乗っていた2人が夜明けまで校舎側から励ましを受け、明るくなってから無事に助け出されました。
南校舎の後ろ側には北校舎が在ります。当時ここは耐震工事が終わり、南校舎も....という段取りでした。中庭西にはヒバの木が有ります。これは水没したのですが、今でも元気です。
大津波来襲時を撮影した写真が有りました。ヒバは完全に水没です。その後更に水位は上がりました(>_<)
渡り廊下の1階から撮影。水没したヒバは元気です(^_^)v
北校舎1階から南校舎の北側をパチリ。大津波が通り抜けた3階までは窓枠さえ有りません。
北校舎から伝承館に戻ると、被災した方々のお話が投影されています。それを見て、終わりとしました。
上の写真説明にも有りましたが、校舎には人が残っていました。以前、職員20人は残って書類が流されないよう高い所へ上げていたと聞きました。工事中であり関係者が25人、近隣から避難してきた人が4人。ここに人が残っていたことにより救助された2人の計51人。
救助された人は別として、重要書類も有ったのでしょうけれど、ヨコミーは、先ずは皆さんに避難して戴きたかったです。4階床上で済んだものの、水位がもっと上がる可能性も有りました。冷凍工場は幸いにかすった程度で済みましたが、正面から衝突したら屋上まで被害があったかも知れません。
近隣から避難されてきた人は多分生徒出発より後で校舎に来たのでしょう。もし出発時までにここへ避難されていれば、生徒の手を借りながらも中学校まで行けたかと。
普通、学校を含めた公共施設は一時避難場所に指定されていることが多いです。なので、ひょっとしたら事前に指定されていなくても、近隣の住民は先ずは学校へ避難しようと詰めかけるでしょう。
海や川に近い低地に建つ、特に小学校で、予め、より高い所に避難場所が決められていない場合、学校の先生方は何処へ避難させようかと迷うでしょう。そこに地域の住民が何十人も押し寄せたら、先生方はどう切り盛りすれば良いのでしょうか。
子供が学校に居る時間帯は多くの家庭で働きに出ており、避難して来る方々は結構高齢者が多いかと。ヨコミーみたく椎間板ヘルニアで走ることが難しかったり、ヨコミー奥様のおリュウさんみたいに足が弱って長くは歩けない人とか....(>_<)
学校や地域が避難計画を作る、或いは見直す際は、一時避難所の設定で終わりとせず、行政を巻き込み、より高い所を目指して欲しいです。もし適切な避難場所が無いなら高い丘に何かを確保してもらったり、近隣の高いビルに避難場所を設けてもらうなり、津波避難塔等を建設して戴きましょう。
また避難行動要支援者等も連れられて来るでしょう。その場合はどうするか等々、色んなケースを想定して立案し、避難訓練を数多くこなして身に付けて欲しいです。
「今まで来ないから大丈夫」なんて思うのは思い上がり(>_<) 人生僅か100年が精々。体験出来ることは少ないです。
あの東日本大震災に押し寄せた大津波は800年周期とか。それでも今の地形が整った年代から考えれば、まだまだ短時間(>_<) 生き延びる為に今出来ることを極めたいです。
ウクライナを始めとする戦争・紛争地域に早く平和が戻る事を祈り、本日はお終いm(_ _)m