大川小学校 三度(みたび) 20161202 その2(後編) [東日本大震災]
こんにちは、ヨコミーです。
12月2日に、旧・石巻市立大川小学校へ行った記事の続きです。
※写真はクリックすると大きくなります。
何かの外壁に、可愛い絵が描かれています。
真ん中には、世界中の、いろいろな国の人々が描かれています。
不勉強で気付きませんでしたが、宮沢賢治の世界でした。
『世界が全体に幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない.......』
平成13年度の卒業制作です。
こちらは平成12年度の卒業制作。
『雨ニモマケズ 風ニモマケズ』。そして『銀河鉄道の夜』でしょう。
これらを作った子供たちは、今は多分高校生。母校は、東日本大震災による大津波で廃校となり、卒業制作はどうなるのでしょう。
雨ニモマケズ、風ニモマケズ、大津波ニモマケズ、故郷の復旧復興に役立ってほしいと、ヨコミーは願うのです。
卒業制作は、この屋外集会施設の外壁に、でした。
ステージは右手前。倒れている湾曲した壁は、多分右端に立っていて、ステージに立つ人の歌や音楽を増幅する、反響板の役目をしていた感じ。
階段には多くの子供たちが座り、笑顔で聴き入っていたのかもしれません。
左端のやや上に、新北上川等に掛かる橋が見えます。
手前の砂利道は、なんか不自然。震災後に盛った??
多分校庭と思われる辺りに、大きな慰霊碑が有りました。ここにもお参りしました。
ちょっと引いての撮影なので、位置関係が分かり易いかと。
奥は、「裏山」。正面の杉が生えていない所は、いつか土砂崩れでもあったのでしょうか。
何年か前に、下まで入れて5段ぐらいの土留工事をしたようです。草の生え方に段があります。
下部には、落石を止めるコンクリートの擁壁と、丈夫な金網が張られていました。
よく、土砂崩れを防ぐために、斜面に竹林を作れという方がいますが、竹は非常に浅い所に根をしっかりと張っています。
でも、根が浅いので、ヨコミーは近い所で、竹林ごと崩れた崖地を見たことが有ります。そういえばアカマツも(>_<)
擁壁の右(西)側です。手軽には登れないようです。
擁壁の左(東)側です。真ん中に、何かが植えてあります。いつに植えたのでしょうか。
左の、やや谷状になっている所に、獣道みたいな小道が見えます。奥は昼なのに暗く、とても人が多く通った道とは見えません。
更に、その東続きです。他に登り口となる道は見当たりません。
少し戻って、裏山に入る道です。
山に逃げ込んで助かった先生と数人の児童は、ここから登ったのでしょうか。
多分、冷たい雨かミゾレが降っていたはず。大津波で足はすくまなかったのでしょうか....(>_<)
滑る山道。その先には広場も、何の施設も無かったはず....。でも、とっさに良い判断を下されました。
左側に小さな石が沢山建てられています。墓地??
手前は、ちょっと見には開けていますが、よく見ると杉の切り株が何か所か見えます。
多分、震災時はもっと杉の木が有り、暗かったでしょう。
これはヨコミー宅付近にも有りますが、大津波が押し寄せ、根が海水に浸かった杉は枯れてしまい、伐採した跡だと思います。
因みに、3枚上の、擁壁西側の写真には、立ち枯れしたままの杉の木が写っています。
車に戻る際、もう一度道路際の慰霊碑に寄りました。これは、御霊が引き寄せてくれたのでしょう。
拝んだ後、3回目の訪問でようやく気付いたのですが、慰霊碑脇にこんな写真が置いて有りました。
ヨコミーの写真の写りは悪いのですが、以前の、学校周辺の様子が分かります。
すぐ隣に、集落が有ったのですね。まさに、地域の中に学校があるという感じです。
そして避難所でもあったので、近くのお年寄りも学校に避難して来て....。
学校の向うに見えるのは新北上川。すぐ手前の所々から、小さな川も見えています。
川と学校、街並みの位置関係が分かります。
この写真をよーく見ると、墓石のようなのが在った辺りで、シイタケ栽培が行われていたようです。
そして、崩落した斜面に土留工事を施した所に、3年生が授業で登っていたんですね。これはまあ、ヨコミーにしてみれば驚きですが(>_<)
ここは上から見ると全て平らなようですが、実際に平らな所は少ないと思います。くすんだ草色の多くは法面に植えた草でしょう。
ひらがなの「く」の字状に見えるのは、各段の雨水を受ける側溝かな? そして、4本を繋ぐ細い白の線は、各段で集めた雨水を下へ流す側溝のようです。
ただ、白く太い線が気になります。普通、わざわざこんな所に、砕石は敷きませんよね!?? コンクリートの擁壁? ヨコミー、機会が有れば登ってみたいです。許可して! (^-^;
最悪、横(この写真では縦)に伸びる側溝のようなものに沿って、分散して避難出来た可能性もあります。ただ、最下段は除いて。
お気付きでしたか? 擁壁のすぐ上と、墓石らしき石が在った辺りに、板が水平に、何かの位置を示すがごとく、設置されていました。
ヨコミーは浸水の水位だと思いました。(違うなら設置して欲しい!!)
例え違ったとしても、橋の高い袂まで襲った津波なので、最下段では、避難しても大きな恐怖だったでしょう。
なので、上から3段目まで、ヨコミーが先生なら、上から30人、40人、50人と割り振ります。
でも、ごめんなさい。ヨコミーには難しかったでしょう。出来なかったでしょう(>_<)
先の裁判で、学校側は、津波が来る少なくても数分前に大津波が来ることを、広報車の放送で知りえたとしています。
とても数分間では、ヨコミーは何処まで出来たでしょうか(>_<)
見る限り、道は獣道のような山道一本で、ミゾレか冷たい雨が降る中、足元は滑り、垂直方向への移動は大変だったことでしょう。
ヨコミーがあの学校の先生だったらなら、やはり避難が遅れ、今頃はあの世で、ただ、ただ、頭を下げていることでしょう。
12月2日の丁度1週間前でした。
夜7時半からNHKテレビの東北版番組で、岩手県一関市千厩町の小学校がちょっと出ていました。人口減少を取り上げた番組です。
その中で、昔、地域の方々が協力して、小学校に隣接した土地に、「五訓之森」という憩いの山を開設したことが、ちょっとだけ紹介されていました。
この森に、子供たちは大いに慣れ親しみ、そして遊び、学び、楽しんだようで、大人になっても一番の思い出に残る場所だと、口々に語っていました。
このような森が、あの「裏山」にあったなら.....と、あの地に立って、ヨコミーは残念がるのでした。
「たら」「れば」を使うと、とかく批判され易いですが、「たら」「れば」こそ大切な反省であり、そこから教訓が得られます。
犠牲になった尊い命を、未来に向けて、必ず活かして行って欲しいと、ヨコミーは思うのです。
より多くの方がこの地を訪れ、思いを巡らせて頂ければ幸いです。
合掌。
12月2日に、旧・石巻市立大川小学校へ行った記事の続きです。
※写真はクリックすると大きくなります。
何かの外壁に、可愛い絵が描かれています。
真ん中には、世界中の、いろいろな国の人々が描かれています。
不勉強で気付きませんでしたが、宮沢賢治の世界でした。
『世界が全体に幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない.......』
平成13年度の卒業制作です。
こちらは平成12年度の卒業制作。
『雨ニモマケズ 風ニモマケズ』。そして『銀河鉄道の夜』でしょう。
これらを作った子供たちは、今は多分高校生。母校は、東日本大震災による大津波で廃校となり、卒業制作はどうなるのでしょう。
雨ニモマケズ、風ニモマケズ、大津波ニモマケズ、故郷の復旧復興に役立ってほしいと、ヨコミーは願うのです。
卒業制作は、この屋外集会施設の外壁に、でした。
ステージは右手前。倒れている湾曲した壁は、多分右端に立っていて、ステージに立つ人の歌や音楽を増幅する、反響板の役目をしていた感じ。
階段には多くの子供たちが座り、笑顔で聴き入っていたのかもしれません。
左端のやや上に、新北上川等に掛かる橋が見えます。
手前の砂利道は、なんか不自然。震災後に盛った??
多分校庭と思われる辺りに、大きな慰霊碑が有りました。ここにもお参りしました。
ちょっと引いての撮影なので、位置関係が分かり易いかと。
奥は、「裏山」。正面の杉が生えていない所は、いつか土砂崩れでもあったのでしょうか。
何年か前に、下まで入れて5段ぐらいの土留工事をしたようです。草の生え方に段があります。
下部には、落石を止めるコンクリートの擁壁と、丈夫な金網が張られていました。
よく、土砂崩れを防ぐために、斜面に竹林を作れという方がいますが、竹は非常に浅い所に根をしっかりと張っています。
でも、根が浅いので、ヨコミーは近い所で、竹林ごと崩れた崖地を見たことが有ります。そういえばアカマツも(>_<)
擁壁の右(西)側です。手軽には登れないようです。
擁壁の左(東)側です。真ん中に、何かが植えてあります。いつに植えたのでしょうか。
左の、やや谷状になっている所に、獣道みたいな小道が見えます。奥は昼なのに暗く、とても人が多く通った道とは見えません。
更に、その東続きです。他に登り口となる道は見当たりません。
少し戻って、裏山に入る道です。
山に逃げ込んで助かった先生と数人の児童は、ここから登ったのでしょうか。
多分、冷たい雨かミゾレが降っていたはず。大津波で足はすくまなかったのでしょうか....(>_<)
滑る山道。その先には広場も、何の施設も無かったはず....。でも、とっさに良い判断を下されました。
左側に小さな石が沢山建てられています。墓地??
手前は、ちょっと見には開けていますが、よく見ると杉の切り株が何か所か見えます。
多分、震災時はもっと杉の木が有り、暗かったでしょう。
これはヨコミー宅付近にも有りますが、大津波が押し寄せ、根が海水に浸かった杉は枯れてしまい、伐採した跡だと思います。
因みに、3枚上の、擁壁西側の写真には、立ち枯れしたままの杉の木が写っています。
車に戻る際、もう一度道路際の慰霊碑に寄りました。これは、御霊が引き寄せてくれたのでしょう。
拝んだ後、3回目の訪問でようやく気付いたのですが、慰霊碑脇にこんな写真が置いて有りました。
ヨコミーの写真の写りは悪いのですが、以前の、学校周辺の様子が分かります。
すぐ隣に、集落が有ったのですね。まさに、地域の中に学校があるという感じです。
そして避難所でもあったので、近くのお年寄りも学校に避難して来て....。
学校の向うに見えるのは新北上川。すぐ手前の所々から、小さな川も見えています。
川と学校、街並みの位置関係が分かります。
この写真をよーく見ると、墓石のようなのが在った辺りで、シイタケ栽培が行われていたようです。
そして、崩落した斜面に土留工事を施した所に、3年生が授業で登っていたんですね。これはまあ、ヨコミーにしてみれば驚きですが(>_<)
ここは上から見ると全て平らなようですが、実際に平らな所は少ないと思います。くすんだ草色の多くは法面に植えた草でしょう。
ひらがなの「く」の字状に見えるのは、各段の雨水を受ける側溝かな? そして、4本を繋ぐ細い白の線は、各段で集めた雨水を下へ流す側溝のようです。
ただ、白く太い線が気になります。普通、わざわざこんな所に、砕石は敷きませんよね!?? コンクリートの擁壁? ヨコミー、機会が有れば登ってみたいです。許可して! (^-^;
最悪、横(この写真では縦)に伸びる側溝のようなものに沿って、分散して避難出来た可能性もあります。ただ、最下段は除いて。
お気付きでしたか? 擁壁のすぐ上と、墓石らしき石が在った辺りに、板が水平に、何かの位置を示すがごとく、設置されていました。
ヨコミーは浸水の水位だと思いました。(違うなら設置して欲しい!!)
例え違ったとしても、橋の高い袂まで襲った津波なので、最下段では、避難しても大きな恐怖だったでしょう。
なので、上から3段目まで、ヨコミーが先生なら、上から30人、40人、50人と割り振ります。
でも、ごめんなさい。ヨコミーには難しかったでしょう。出来なかったでしょう(>_<)
先の裁判で、学校側は、津波が来る少なくても数分前に大津波が来ることを、広報車の放送で知りえたとしています。
とても数分間では、ヨコミーは何処まで出来たでしょうか(>_<)
見る限り、道は獣道のような山道一本で、ミゾレか冷たい雨が降る中、足元は滑り、垂直方向への移動は大変だったことでしょう。
ヨコミーがあの学校の先生だったらなら、やはり避難が遅れ、今頃はあの世で、ただ、ただ、頭を下げていることでしょう。
12月2日の丁度1週間前でした。
夜7時半からNHKテレビの東北版番組で、岩手県一関市千厩町の小学校がちょっと出ていました。人口減少を取り上げた番組です。
その中で、昔、地域の方々が協力して、小学校に隣接した土地に、「五訓之森」という憩いの山を開設したことが、ちょっとだけ紹介されていました。
この森に、子供たちは大いに慣れ親しみ、そして遊び、学び、楽しんだようで、大人になっても一番の思い出に残る場所だと、口々に語っていました。
このような森が、あの「裏山」にあったなら.....と、あの地に立って、ヨコミーは残念がるのでした。
「たら」「れば」を使うと、とかく批判され易いですが、「たら」「れば」こそ大切な反省であり、そこから教訓が得られます。
犠牲になった尊い命を、未来に向けて、必ず活かして行って欲しいと、ヨコミーは思うのです。
より多くの方がこの地を訪れ、思いを巡らせて頂ければ幸いです。
合掌。
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