あれから13年経ちました 東日本大震災 20240311 [東日本大震災]
こんにちは、ヨコミーです。
ここは気仙沼市本吉町風の丘。
風の丘の季節風=西風は、今日3月17日の夜は収まりましたが、昨夜もに引き続きゴォーッと調子良く吹いていましたす(>_<)
3月といえば13年前の東日本大震災。多くの方が亡くなり、更に多くの方が被災し、人生を強制的に変えられた悔しさは、まだ癒えることが無いでしょう。ヨコミー家で亡くなった人は居ませんが、義父が関連死(>_<) 家は僅かに傾いたり隙間が広がりましたが、そのまま。テレビ等が落下しましたが、大きく破損した物は無いです。ただヨコミー、大切なモノを失いました(T_T)
そんな中、市からの案内も有り、3月11日午後1時から始まる「気仙沼市東日本大震災追悼と防災のつどい」(会場:気仙沼中央公民館)へ行ってきました。
13年前の大津波で被災し、西へ400m程離れた川沿いに立て替えられた気仙沼中央公民館。左が、以前隣接していた勤労者体育センター分の体育館か。ホールや会議室は右奥です。ただ右奥の上に見えているの内の脇災害公営住宅です、中央公民館は大きくはありません。県合同庁舎や警察署は震災後に大きくなったのですが、市はお金が無いのですね。以前は400席有ったホールの席は減らされました。畳の間も結構狭くなったようだし(>_<)
市長さんのご挨拶。
右の垂れ幕を見てください。テレビ等で活躍の気象予報士・井田寛子さん基調講演が予定されています。気象ファンでもあるヨコミーは楽しみ(^_^)v....にしていたのですが、何故か挨拶する方々の話が長引き、講演のスタートが10分以上遅れました。身勝手(>_<)
一連のつどいの途中で、地震発生が発生した14時46分には参加者一同が黙祷し、その直後体育館では市長等の献花も予定されており、終わりの時間が後ろにずれ込めない事情もあるのに....(>_<)
でも井田さんはプロですね。ご自分の終了予定時刻までにはきちんと終わらせました。それに引き替え、挨拶された方々のなんと時間感覚の無いこと(>_<) 修行が足りません(^_^;)
15時からは「避難情報を正しく読み取る」をテーマにトークセッション。災害時等はSNS等でデマも流れ易く、公的機関の発信や複数の情報で確認することが大切だと。
16時に一切が終わり、混雑を避けて展示等を見てゆっくりと出て来たので、駐車場には車が殆ど居ません。
右にカメラを振り、パチリ。向こうの山の手前に気仙沼湾が広がります。
震災前は多くの民家や企業の建物が有りましたが、この地は家を新築することが出来ない災害危険区域(>_<) ラグビーのグラウンド2面が取られていますが、気仙沼は野球の方が盛んだと思うのですが...。
中央公民館は震災まで、真ん中方向に有りました。隣接する市の障害児施設等からここに避難してきていたのですが、何度も押し寄せる大津波や流れ出た重油に引火して火災も発生し、一時は死も覚悟したと。
そんな中、障害児施設の長がイギリスに行っていた息子にメールで悲惨な状況を知らせたことから始まる避難劇は、猪瀬直樹著「救出: 3・11気仙沼 公民館に取り残された446人」に載っています。
https://www.amazon.co.jp/%E6%95%91%E5%87%BA-3%E3%83%BB11%E6%B0%97%E4%BB%99%E6%B2%BC-%E5%85%AC%E6%B0%91%E9%A4%A8%E3%81%AB%E5%8F%96%E3%82%8A%E6%AE%8B%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F446%E4%BA%BA-%E7%8C%AA%E7%80%AC-%E7%9B%B4%E6%A8%B9/dp/4309023584
更に右方向です。中央公民館を背にしてパチリ。三陸道の気仙沼湾横断橋や大島大橋も見えます。
事業所や戸建ての民家、アパート等々が建っていたのに、災害危険区域では住宅新築も出来ず、工場がいくつか建つだけ(>_<)
更に右なんですが続かず、右後ろ方向(^_^;) 凡そ南東方向。
イオンの手前は岩手県から流れてくる大川が流れていて、13年前は大津波が遡上し、ここも被災。イオン西側を走る旧国道向かいにはかつて県立女子校がありましたが統合で廃校。その跡地に県の合同庁舎と県の警察署が移転。建て替えられた市立病院は、それまでバス便も無かった丘の上に...(>_<) 県民でもある市民の利便を考えれば、女子高跡地と入れ替えるべきでした。たとえスタートが多少違っていたとしても(>_<)
今日はヨコミー家としては早めの墓参でした。午後からちょっとだけ梅を剪定し、近くを見たら、なんど暖地桜桃(サクランボ)の花が咲いていました。近日紹介出来ればと思います。
明日は自治会の書類を整理し、来週の総会で自治会から足を、手を洗いたいと思います。出来ればちょっと仕事をしたくなりましたので(^_^;)
ウクライナに侵略戦争を仕掛けているロシアでは大統領選挙だと。現政権に協力的な候補者しか立てない選挙、過日のイランでもそうでしたが、茶番ですね(^_^)v
浮沈大統領は高い得票率を狙い、国民は投票後に特典を頂けると複数の報道機関が伝えています。可哀想な国民。自覚が必要です(^_^;) でも情報統制下では難しいかなぁ。
そんな国民にならぬよう、私たちも気を付けたいです。裏金作りに精を出す国会議員も要りません。
何処の片隅でも幸せをかみしめられるよう、平和で安心安全な社会を作りましょう。その為には何が出来るか、各々じっくりと考えて欲しいです。
世界の平和を祈り、本日もお終いm(_ _)m
ここは気仙沼市本吉町風の丘。
風の丘の季節風=西風は、今日3月17日の夜は
3月といえば13年前の東日本大震災。多くの方が亡くなり、更に多くの方が被災し、人生を強制的に変えられた悔しさは、まだ癒えることが無いでしょう。ヨコミー家で亡くなった人は居ませんが、義父が関連死(>_<) 家は僅かに傾いたり隙間が広がりましたが、そのまま。テレビ等が落下しましたが、大きく破損した物は無いです。ただヨコミー、大切なモノを失いました(T_T)
そんな中、市からの案内も有り、3月11日午後1時から始まる「気仙沼市東日本大震災追悼と防災のつどい」(会場:気仙沼中央公民館)へ行ってきました。
13年前の大津波で被災し、西へ400m程離れた川沿いに立て替えられた気仙沼中央公民館。左が、以前隣接していた勤労者体育センター分の体育館か。ホールや会議室は右奥です。ただ右奥の上に見えているの内の脇災害公営住宅です、中央公民館は大きくはありません。県合同庁舎や警察署は震災後に大きくなったのですが、市はお金が無いのですね。以前は400席有ったホールの席は減らされました。畳の間も結構狭くなったようだし(>_<)
市長さんのご挨拶。
右の垂れ幕を見てください。テレビ等で活躍の気象予報士・井田寛子さん基調講演が予定されています。気象ファンでもあるヨコミーは楽しみ(^_^)v....にしていたのですが、何故か挨拶する方々の話が長引き、講演のスタートが10分以上遅れました。身勝手(>_<)
一連のつどいの途中で、地震発生が発生した14時46分には参加者一同が黙祷し、その直後体育館では市長等の献花も予定されており、終わりの時間が後ろにずれ込めない事情もあるのに....(>_<)
でも井田さんはプロですね。ご自分の終了予定時刻までにはきちんと終わらせました。それに引き替え、挨拶された方々のなんと時間感覚の無いこと(>_<) 修行が足りません(^_^;)
15時からは「避難情報を正しく読み取る」をテーマにトークセッション。災害時等はSNS等でデマも流れ易く、公的機関の発信や複数の情報で確認することが大切だと。
16時に一切が終わり、混雑を避けて展示等を見てゆっくりと出て来たので、駐車場には車が殆ど居ません。
右にカメラを振り、パチリ。向こうの山の手前に気仙沼湾が広がります。
震災前は多くの民家や企業の建物が有りましたが、この地は家を新築することが出来ない災害危険区域(>_<) ラグビーのグラウンド2面が取られていますが、気仙沼は野球の方が盛んだと思うのですが...。
中央公民館は震災まで、真ん中方向に有りました。隣接する市の障害児施設等からここに避難してきていたのですが、何度も押し寄せる大津波や流れ出た重油に引火して火災も発生し、一時は死も覚悟したと。
そんな中、障害児施設の長がイギリスに行っていた息子にメールで悲惨な状況を知らせたことから始まる避難劇は、猪瀬直樹著「救出: 3・11気仙沼 公民館に取り残された446人」に載っています。
https://www.amazon.co.jp/%E6%95%91%E5%87%BA-3%E3%83%BB11%E6%B0%97%E4%BB%99%E6%B2%BC-%E5%85%AC%E6%B0%91%E9%A4%A8%E3%81%AB%E5%8F%96%E3%82%8A%E6%AE%8B%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F446%E4%BA%BA-%E7%8C%AA%E7%80%AC-%E7%9B%B4%E6%A8%B9/dp/4309023584
更に右方向です。中央公民館を背にしてパチリ。三陸道の気仙沼湾横断橋や大島大橋も見えます。
事業所や戸建ての民家、アパート等々が建っていたのに、災害危険区域では住宅新築も出来ず、工場がいくつか建つだけ(>_<)
更に右なんですが続かず、右後ろ方向(^_^;) 凡そ南東方向。
イオンの手前は岩手県から流れてくる大川が流れていて、13年前は大津波が遡上し、ここも被災。イオン西側を走る旧国道向かいにはかつて県立女子校がありましたが統合で廃校。その跡地に県の合同庁舎と県の警察署が移転。建て替えられた市立病院は、それまでバス便も無かった丘の上に...(>_<) 県民でもある市民の利便を考えれば、女子高跡地と入れ替えるべきでした。たとえスタートが多少違っていたとしても(>_<)
今日はヨコミー家としては早めの墓参でした。午後からちょっとだけ梅を剪定し、近くを見たら、なんど暖地桜桃(サクランボ)の花が咲いていました。近日紹介出来ればと思います。
明日は自治会の書類を整理し、来週の総会で自治会から足を、手を洗いたいと思います。出来ればちょっと仕事をしたくなりましたので(^_^;)
ウクライナに侵略戦争を仕掛けているロシアでは大統領選挙だと。現政権に協力的な候補者しか立てない選挙、過日のイランでもそうでしたが、茶番ですね(^_^)v
浮沈大統領は高い得票率を狙い、国民は投票後に特典を頂けると複数の報道機関が伝えています。可哀想な国民。自覚が必要です(^_^;) でも情報統制下では難しいかなぁ。
そんな国民にならぬよう、私たちも気を付けたいです。裏金作りに精を出す国会議員も要りません。
何処の片隅でも幸せをかみしめられるよう、平和で安心安全な社会を作りましょう。その為には何が出来るか、各々じっくりと考えて欲しいです。
世界の平和を祈り、本日もお終いm(_ _)m
見事に上がったよ 十三回忌の花火 20231103 [東日本大震災]
こんにちは、ヨコミーです。
ここは気仙沼市本吉町風の丘。今日11月6日は穏やかに薄曇り(^_^;) でも午後から曇り(>_<) まあ、暖かめなので良いかぁ...と。
風の丘は季節風と思われる強い西風が10月以降1つ2つ吹いたものの、やはり今夏の暑さが尾を引いているのか、数はとても少ないです。そして違和感があったのは、2週間ほど前の凄い雷雨。元々雷は少ない地域で、秋じゃなくても、あんなに凄いのは無かったです(>_<) 雨も短時間で我が家前の通路は湖に(^_^;)
とても多忙な3連休でした。11/3は市民文化祭で、大きな写真は写真屋さんに前日依頼して焼き(^_^;)、小さなやつは自宅の小さなプリンターで、印刷し終えたのは当日の午前3時(>_<) いつものことですが、計画的な準備ではありません(>_<) 最後の追い込みが頼り(^_^;) 準備周到にとやりたいところですが、死んでも出来ないでしょうか(>_<)
市民文化祭を16時で切り上げ、汗を吸ったTシャツのみを自宅で取り換えただけで、自治会の前会長から依頼された、大谷海岸花火まつり2023の手伝いへ、日門漁港の突堤に行きました。
お仕事は、花火打ち上げのため、突堤に入らないでね....という交通整理係。
メイン会場は道の駅大谷海岸。夕方からコンサートとキッチンカーの出店が有り、賑わっていました。花火を見るときは、国道を隔てた海水浴場側の、国道の法面を兼ねた防潮堤に設けられた長い階段状の所に腰掛けて(^_^)v そこに座れば斜め右手から打ち上げられる花火を見る事が出来ます。
露出オーバーでした(^_^;) まあ、雰囲気をm(_ _)m
チラシです。当初はカラーの立派なチラシでしたが、予定した時は雨で延期と成り、今回は費用の都合か簡易印刷(>_<)
あの、東日本大震災から12年、十三回忌を迎えました。この、鎮魂の祭は今回で終わりかも知れません。震災直後から被災地に入り、費用的にも多くのご支援を頂いた歌手の「しらいみちよ」さんに感謝です。
花火の撮影は難しいです。そして市民文化祭に続いてのお出掛けであり、準備の時間も無く、やや古めのカメラで、しかもレリーズ無しで(>_<) まあ、シャッターボタンを押しても若干遅れて切れる仕組みを利用しての撮影でした。勿論、三脚使用。
打ち上げ場所から見たメイン会場方向です。手前は日門漁港です。真ん中、緑色に点るのは、素人さんは灯台と言っていますが、突堤先端にあります。強い光は出していないので、正式には灯台じゃないのかも? 打上げは突堤の先端からやや手前です。付近は釣りの穴場ですが、打上げまでには帰ってもらいました。
そして奥。海を隔てて道の駅が有り、左手に白い小さな宿・ホテル海洋館が有ります。この日の泊まり客は十分満足したことでしょう(^_^;)
なにせ直ぐ近くで打ち上げられたので、凄い響きでした(^_^;) 標準ズームの広角側が24mmだったので、上端が切れることなく撮ることが出来ました。でも、撮影にはまだまだ修行が要ります(>_<)
依頼は花火打上げ場所の交通整理....でしたが、終わったら前自治会長に連れられて、メイン会場の片付けに(>_<) 力仕事が21時過ぎまで続き、帰宅して夕食に食らいついたのが22時でした(>_<)
翌日は午前4時半過ぎに起き、福島県沿岸部の南相馬市へ刈り払い機を持って向かい、帰宅は21時過ぎ(>_<)
昨日5日は午前中はホッとしていたものの、午後から帰省していた娘を送り仙台へ(>_<) 帰路眠くなり、たんぼ道の脇で1時間半ほど寝、帰宅したらまだ暗い3時でした(^_^;)
最悪なのは、発つとき、ヨコミー奥様のおリュウさんからゴミ出しを娘が仰せつかったようなのですが、忘れ、我が家のゴミは仙台を往復したこと(>_<) 午前3時過ぎの燃えるゴミ出しでした(^_^;)
我ながらタフネス(^_^)v お腹の脂肪を燃料に頑張りましょう(^_^;)
世界の、広い意味での平和を祈り、残念ながら今は祈ることしか出来ませんが、みんなが安心安全な生活が送れる日が一日でも早く来ることを願い、本日もお終いm(_ _)m
ここは気仙沼市本吉町風の丘。今日11月6日は穏やかに薄曇り(^_^;) でも午後から曇り(>_<) まあ、暖かめなので良いかぁ...と。
風の丘は季節風と思われる強い西風が10月以降1つ2つ吹いたものの、やはり今夏の暑さが尾を引いているのか、数はとても少ないです。そして違和感があったのは、2週間ほど前の凄い雷雨。元々雷は少ない地域で、秋じゃなくても、あんなに凄いのは無かったです(>_<) 雨も短時間で我が家前の通路は湖に(^_^;)
とても多忙な3連休でした。11/3は市民文化祭で、大きな写真は写真屋さんに前日依頼して焼き(^_^;)、小さなやつは自宅の小さなプリンターで、印刷し終えたのは当日の午前3時(>_<) いつものことですが、計画的な準備ではありません(>_<) 最後の追い込みが頼り(^_^;) 準備周到にとやりたいところですが、死んでも出来ないでしょうか(>_<)
市民文化祭を16時で切り上げ、汗を吸ったTシャツのみを自宅で取り換えただけで、自治会の前会長から依頼された、大谷海岸花火まつり2023の手伝いへ、日門漁港の突堤に行きました。
お仕事は、花火打ち上げのため、突堤に入らないでね....という交通整理係。
メイン会場は道の駅大谷海岸。夕方からコンサートとキッチンカーの出店が有り、賑わっていました。花火を見るときは、国道を隔てた海水浴場側の、国道の法面を兼ねた防潮堤に設けられた長い階段状の所に腰掛けて(^_^)v そこに座れば斜め右手から打ち上げられる花火を見る事が出来ます。
露出オーバーでした(^_^;) まあ、雰囲気をm(_ _)m
チラシです。当初はカラーの立派なチラシでしたが、予定した時は雨で延期と成り、今回は費用の都合か簡易印刷(>_<)
あの、東日本大震災から12年、十三回忌を迎えました。この、鎮魂の祭は今回で終わりかも知れません。震災直後から被災地に入り、費用的にも多くのご支援を頂いた歌手の「しらいみちよ」さんに感謝です。
花火の撮影は難しいです。そして市民文化祭に続いてのお出掛けであり、準備の時間も無く、やや古めのカメラで、しかもレリーズ無しで(>_<) まあ、シャッターボタンを押しても若干遅れて切れる仕組みを利用しての撮影でした。勿論、三脚使用。
打ち上げ場所から見たメイン会場方向です。手前は日門漁港です。真ん中、緑色に点るのは、素人さんは灯台と言っていますが、突堤先端にあります。強い光は出していないので、正式には灯台じゃないのかも? 打上げは突堤の先端からやや手前です。付近は釣りの穴場ですが、打上げまでには帰ってもらいました。
そして奥。海を隔てて道の駅が有り、左手に白い小さな宿・ホテル海洋館が有ります。この日の泊まり客は十分満足したことでしょう(^_^;)
なにせ直ぐ近くで打ち上げられたので、凄い響きでした(^_^;) 標準ズームの広角側が24mmだったので、上端が切れることなく撮ることが出来ました。でも、撮影にはまだまだ修行が要ります(>_<)
依頼は花火打上げ場所の交通整理....でしたが、終わったら前自治会長に連れられて、メイン会場の片付けに(>_<) 力仕事が21時過ぎまで続き、帰宅して夕食に食らいついたのが22時でした(>_<)
翌日は午前4時半過ぎに起き、福島県沿岸部の南相馬市へ刈り払い機を持って向かい、帰宅は21時過ぎ(>_<)
昨日5日は午前中はホッとしていたものの、午後から帰省していた娘を送り仙台へ(>_<) 帰路眠くなり、たんぼ道の脇で1時間半ほど寝、帰宅したらまだ暗い3時でした(^_^;)
最悪なのは、発つとき、ヨコミー奥様のおリュウさんからゴミ出しを娘が仰せつかったようなのですが、忘れ、我が家のゴミは仙台を往復したこと(>_<) 午前3時過ぎの燃えるゴミ出しでした(^_^;)
我ながらタフネス(^_^)v お腹の脂肪を燃料に頑張りましょう(^_^;)
世界の、広い意味での平和を祈り、残念ながら今は祈ることしか出来ませんが、みんなが安心安全な生活が送れる日が一日でも早く来ることを願い、本日もお終いm(_ _)m
銀行は戻ったが... 気仙沼の今 20230825 [東日本大震災]
こんにちは、ヨコミーです。
ここは気仙沼市本吉町風の丘。
今日9月11日は東日本大震災の月命日。午前10時頃だったか、あの震災後、気仙沼市は毎月11日を「防災を考える日」と定め、広報塔から「....防災を考えましょう」と流しています。
あの震災から12年と半年が過ぎました。人によっては、まだ12年...なのでしょう。多くの建物が流され、多くの人も流され、中にはまだ見つかっていない人も....(T_T) 身近では、娘が通っていたお習字の先生、アマチュア無線の先輩、母実家の小母ちゃん等々。
浸水地の多くは、その場に住居を再建出来なくなりました。以前ゴミゴミと建物が有った所には、大きな工場は再建されたものの、住居兼工場みたいな建物は再建されていません。なので12年も経った今でも、虫食い状態で空き地が目立ちます。
もう以前のような町並みは見ることが出来ないのでしょうね(>_<)
8月25日、終活の一環で、普通預金通帳を解約するため、市内南町三丁目に有る七十七銀行気仙沼支店(以下、「気仙沼支店」)へ行きました。以前は給与振り込みでしたが、今は振り込んでくれる人は居ません(^_^;) 三桁の残高はあったなぁ...と捨てずに、解約(^_^;)
ところで、すみませんが今日は諸般の事情で、写真は1枚だけですm(_ _)m
その日14時半頃には着いたのですが、手続きをして、帰りは15時をちょっと過ぎました。車は真裏に駐め、向かって右側から道に出て、直ぐ赤信号。信号が青に変わって、とろとろと走り出したときに、ノーファインダーでバチリ。斜めですみません(^_^;)
気仙沼支店も勿論被災しました。同行は東北地方では最大の銀行だと思います。気仙沼には気仙沼支店の他に内ノ脇支店が有り、こちらも被災。旧市立病院南側の新興商業地へ移転しました。
先程グーグルマップからストリートビューで南町を見たら、親切にも?被災した三階建ての旧・気仙沼支店がまだ有り、ビックリ。お時間がある方はお試し願います。
被災後、市役所の近い所に有った商工会議所の旧建物で再開し、三年前か、以前有ったこの地へ再建、移転しました。気仙沼もご多分に漏れず中心市街地の空洞化が進んでいましたが、元の場所に戻ってきてくれました。
交差点の左側は、震災前は事業所の建物が建ち並び、向こうの山は見えなかったかと。気仙沼支店の右奥には、新しい飲食店やお店が建ち並んでいますが、以前のようなごちゃごちゃ感は有りません。空き地もまだ有ります。
震災以前はこの裏手に汽船発着所が有って、(気仙沼)大島観光の玄関口となり、周辺はそれなりの人出は有りましたが、大津波が来て、そして何十年来の念願だった大島架橋が出来、大島には直接車で渡れるように成り、人の流れが変わりました。
この辺りは飲食店が多く、観光客や入港する船員が楽しまれていますが、先が心配です。
[ 気仙沼関連情報 ]
見逃し配信のご案内。
NHKのNHKプラスをご存じですか? 簡単な登録で、基本的には1週間以内の見逃し番組がパソコンやスマホ、タブレットで見ることが出来ます。勿論無料。スマホやタブレットならアプリをGoogle PlayやAppstoreから。
まだの方は
https://plus.nhk.jp/info/id/
から入って手続きをされてみては? とりあえずメールアドレスが必要です。またブラウザで見る場合、制限が有ります。推奨のブラウザはMicrosoft Edge・Google Chrome・Safari の最新版です。残念ながらInternet Explorerと私が使っているFirefoxでは見えません。NHKさんよ、なんで??
と、ちょっと前振りが長かったですが、
1. 東北ココから「みなとまちの小さな新聞」配信期限 : 9/15(金) 午後7:56 まで
https://plus.nhk.jp/watch/st/040_g1_2023090147378?cid=jp-WJ1LZ5K145
2.東北ココから「自分らしい世界は少しずつだけど広がっていく」配信期限 : 9/12(火) 午後2:36 まで
https://plus.nhk.jp/watch/st/g1_2023090520926?cid=jp-WJ1LZ5K145
3. 解体キングダム 「復興のシンボル 漁業取締船たつまい 涙の解体」配信期限 : 9/13(水) 午後8:43 まで
https://plus.nhk.jp/watch/st/g1_2023090621401
.....を紹介します。
1.はヨコミーが住む日門地域の防潮堤問題を地元紙・三陸新報社が取材するところも有り、ヨコミーも映っています(^_^;)
2.気仙沼にあるフリースクール「つなぎ」が取り上げられています。
3.で解体されている船は気仙沼で活躍した船でした。大島の龍舞崎に由来した船名でした。
特に2と3は期限間近となって大変すみませんm(_ _)m
ウクライナを始めとする戦争や紛争、圧政、イジメ等々が無くなり、世界中が平和を満喫出来る日が一日でも早く来ることを祈り、本日もお終いm(_ _)m
ここは気仙沼市本吉町風の丘。
今日9月11日は東日本大震災の月命日。午前10時頃だったか、あの震災後、気仙沼市は毎月11日を「防災を考える日」と定め、広報塔から「....防災を考えましょう」と流しています。
あの震災から12年と半年が過ぎました。人によっては、まだ12年...なのでしょう。多くの建物が流され、多くの人も流され、中にはまだ見つかっていない人も....(T_T) 身近では、娘が通っていたお習字の先生、アマチュア無線の先輩、母実家の小母ちゃん等々。
浸水地の多くは、その場に住居を再建出来なくなりました。以前ゴミゴミと建物が有った所には、大きな工場は再建されたものの、住居兼工場みたいな建物は再建されていません。なので12年も経った今でも、虫食い状態で空き地が目立ちます。
もう以前のような町並みは見ることが出来ないのでしょうね(>_<)
8月25日、終活の一環で、普通預金通帳を解約するため、市内南町三丁目に有る七十七銀行気仙沼支店(以下、「気仙沼支店」)へ行きました。以前は給与振り込みでしたが、今は振り込んでくれる人は居ません(^_^;) 三桁の残高はあったなぁ...と捨てずに、解約(^_^;)
ところで、すみませんが今日は諸般の事情で、写真は1枚だけですm(_ _)m
その日14時半頃には着いたのですが、手続きをして、帰りは15時をちょっと過ぎました。車は真裏に駐め、向かって右側から道に出て、直ぐ赤信号。信号が青に変わって、とろとろと走り出したときに、ノーファインダーでバチリ。斜めですみません(^_^;)
気仙沼支店も勿論被災しました。同行は東北地方では最大の銀行だと思います。気仙沼には気仙沼支店の他に内ノ脇支店が有り、こちらも被災。旧市立病院南側の新興商業地へ移転しました。
先程グーグルマップからストリートビューで南町を見たら、親切にも?被災した三階建ての旧・気仙沼支店がまだ有り、ビックリ。お時間がある方はお試し願います。
被災後、市役所の近い所に有った商工会議所の旧建物で再開し、三年前か、以前有ったこの地へ再建、移転しました。気仙沼もご多分に漏れず中心市街地の空洞化が進んでいましたが、元の場所に戻ってきてくれました。
交差点の左側は、震災前は事業所の建物が建ち並び、向こうの山は見えなかったかと。気仙沼支店の右奥には、新しい飲食店やお店が建ち並んでいますが、以前のようなごちゃごちゃ感は有りません。空き地もまだ有ります。
震災以前はこの裏手に汽船発着所が有って、(気仙沼)大島観光の玄関口となり、周辺はそれなりの人出は有りましたが、大津波が来て、そして何十年来の念願だった大島架橋が出来、大島には直接車で渡れるように成り、人の流れが変わりました。
この辺りは飲食店が多く、観光客や入港する船員が楽しまれていますが、先が心配です。
[ 気仙沼関連情報 ]
見逃し配信のご案内。
NHKのNHKプラスをご存じですか? 簡単な登録で、基本的には1週間以内の見逃し番組がパソコンやスマホ、タブレットで見ることが出来ます。勿論無料。スマホやタブレットならアプリをGoogle PlayやAppstoreから。
まだの方は
https://plus.nhk.jp/info/id/
から入って手続きをされてみては? とりあえずメールアドレスが必要です。またブラウザで見る場合、制限が有ります。推奨のブラウザはMicrosoft Edge・Google Chrome・Safari の最新版です。残念ながらInternet Explorerと私が使っているFirefoxでは見えません。NHKさんよ、なんで??
と、ちょっと前振りが長かったですが、
1. 東北ココから「みなとまちの小さな新聞」配信期限 : 9/15(金) 午後7:56 まで
https://plus.nhk.jp/watch/st/040_g1_2023090147378?cid=jp-WJ1LZ5K145
2.東北ココから「自分らしい世界は少しずつだけど広がっていく」配信期限 : 9/12(火) 午後2:36 まで
https://plus.nhk.jp/watch/st/g1_2023090520926?cid=jp-WJ1LZ5K145
3. 解体キングダム 「復興のシンボル 漁業取締船たつまい 涙の解体」配信期限 : 9/13(水) 午後8:43 まで
https://plus.nhk.jp/watch/st/g1_2023090621401
.....を紹介します。
1.はヨコミーが住む日門地域の防潮堤問題を地元紙・三陸新報社が取材するところも有り、ヨコミーも映っています(^_^;)
2.気仙沼にあるフリースクール「つなぎ」が取り上げられています。
3.で解体されている船は気仙沼で活躍した船でした。大島の龍舞崎に由来した船名でした。
特に2と3は期限間近となって大変すみませんm(_ _)m
ウクライナを始めとする戦争や紛争、圧政、イジメ等々が無くなり、世界中が平和を満喫出来る日が一日でも早く来ることを祈り、本日もお終いm(_ _)m
生徒・職員全員無事 気仙沼市震災遺構 旧・気仙沼向洋高校 20230523 [東日本大震災]
こんにちは、ヨコミーです。
ここは気仙沼市本吉町風の丘。
東日本大震災直後、私が手伝っていた避難所へ支援に来られた方々が今月2グループお出でになり、あのときの苦しい時代を振り返りながら御礼を申し上げ、当時出来なかった市内を始めとする震災遺構等をご案内する機会に恵まれました。
まず紹介したかったのは気仙沼市震災遺構となった旧・気仙沼向洋高校校舎。元々は気仙沼魚市場に近い低地に建つ気仙沼水産高校でしたが、移転新築後ややあって、「水産」からのカバーエリアを広げた事を機に、この名前に。
東日本大震災による大きな津波で建物は大きな被害を受けて使えなくなりましたが、的確な判断で生徒も職員も全員無事でした。地震後5分で避難行動を起こしたことが幸いでした。
(写真はクリックすると大きくなります)
あっ、最上階西端の外壁が.....(>_<)
南校舎の西端をパチリ。何で4階部分が??(>_<) 左下は玄関と昇降口。
時間はちょっと遡り、先ずは駐車場から。凡そ西を向いてのパチリです。左の4階建てが南校舎。右は震災後に建てられた、展示施設等がある伝承館。この裏手に北校舎や屋体等が有ります。
まず伝承館で展示や概略の投影を見ます。校舎への出入口は伝承館ですが、ここは撮影禁止なので写真は....
いきなり南校舎1階の廊下です。校舎の北側に有ります。4階まで大津波が押し寄せた、その1階廊下。天井板が有ったのでしょうけれど....。照明は見学用に付けられたものです。
CAD室です。コースによっては、こんな授業もあったのですね。
保健室。
3階の教室に車が....(>_<) 左下に見える図は、写真右奥側凡そ東側から見た図で、立ち入りが出来きるのは凡そ西側なので、車の傾きが逆です。脳内変換をお願いします。海側の窓から流されて入りました(>_<)
説明板の拡大です。図右上のレターケースも覚えていてください。
4階南校舎西端の教室です。浸水自体は30センチ程度なのでしょうけれど、地震や後述の理由で色んな物が散乱しています。特に中央右に見える大きなオレンジ色の物体は....。
同じ室内北側に置かれたレターケース。下から何段かが錆びています。海水がここまで(>_<)
最初の写真に写っていた外壁の破損箇所を教室からパチリ。さて、これは....。
なんと大津波で流されてきた冷凍工場との衝突痕でした(>_<) そして室内に有ったオレンジ色の物体は、窓から入り込んだ冷凍工場の断熱材とは....(>_<)
屋上に上がりました。校庭に西半分です。
校舎前に広がる校庭は、近年パークゴルフの場となり、平日でも賑わっています。左上、島のように見えるのは旭崎。詳細後述。その向こうは海ですが、旭崎の右に南三陸町歌津(うたつ)の岬が伸びています。
写真上から1/3の辺りを左右に走る道は、1km余り西(向かって右)を走る国道45号と左の先に在る景勝地・岩井崎を結びます。その右から1/4辺りで右下に伸びるのは学校の玄関や昇降口に至る通路。
ほぼ南に在る旭崎です。この辺りではやや高くなっていて、上には別荘や神社が有ります。ここの木に10人が登って助かりました。これらの木々は大津波で洗われたのに今でも健在です。
旭崎の説明板です。
校庭の東半分です。左上は再建された魚の冷凍工場。
屋上西側に避難経路の説明板が有りました。
中央上に見える携帯電話中継塔の左下は被災したお寺ですが、その左側の道路を通り右上中程に在る陸前階上(りくぜんはしかみ)駅に一時避難しました。しかし「大津波」との情報で更に奥の階上中学校へ生徒全員と引率した職員が避難。
説明板の拡大です。
まあ結果的には駅で大丈夫でしたが、更なる安全を求めた行動は学ぶべきです。良き判断と行動でした。
岩手県釜石市鵜住居(うのすまい)の小中学生は避難場所を当初設定されていた所から、より安全な所へと2度3度と変更し、途中から合流した保育所の児童を手助けしながら、避難した一行は全員無事でした。
南校舎西端近くから見た屋体跡。コンクリート製の1階部分のみ残りました(>_<) この屋体の右側に有る生徒会館と北校舎の間に、流された民家の2階部分が引っ掛かり、それに乗っていた2人が夜明けまで校舎側から励ましを受け、明るくなってから無事に助け出されました。
南校舎の後ろ側には北校舎が在ります。当時ここは耐震工事が終わり、南校舎も....という段取りでした。中庭西にはヒバの木が有ります。これは水没したのですが、今でも元気です。
大津波来襲時を撮影した写真が有りました。ヒバは完全に水没です。その後更に水位は上がりました(>_<)
渡り廊下の1階から撮影。水没したヒバは元気です(^_^)v
北校舎1階から南校舎の北側をパチリ。大津波が通り抜けた3階までは窓枠さえ有りません。
北校舎から伝承館に戻ると、被災した方々のお話が投影されています。それを見て、終わりとしました。
上の写真説明にも有りましたが、校舎には人が残っていました。以前、職員20人は残って書類が流されないよう高い所へ上げていたと聞きました。工事中であり関係者が25人、近隣から避難してきた人が4人。ここに人が残っていたことにより救助された2人の計51人。
救助された人は別として、重要書類も有ったのでしょうけれど、ヨコミーは、先ずは皆さんに避難して戴きたかったです。4階床上で済んだものの、水位がもっと上がる可能性も有りました。冷凍工場は幸いにかすった程度で済みましたが、正面から衝突したら屋上まで被害があったかも知れません。
近隣から避難されてきた人は多分生徒出発より後で校舎に来たのでしょう。もし出発時までにここへ避難されていれば、生徒の手を借りながらも中学校まで行けたかと。
普通、学校を含めた公共施設は一時避難場所に指定されていることが多いです。なので、ひょっとしたら事前に指定されていなくても、近隣の住民は先ずは学校へ避難しようと詰めかけるでしょう。
海や川に近い低地に建つ、特に小学校で、予め、より高い所に避難場所が決められていない場合、学校の先生方は何処へ避難させようかと迷うでしょう。そこに地域の住民が何十人も押し寄せたら、先生方はどう切り盛りすれば良いのでしょうか。
子供が学校に居る時間帯は多くの家庭で働きに出ており、避難して来る方々は結構高齢者が多いかと。ヨコミーみたく椎間板ヘルニアで走ることが難しかったり、ヨコミー奥様のおリュウさんみたいに足が弱って長くは歩けない人とか....(>_<)
学校や地域が避難計画を作る、或いは見直す際は、一時避難所の設定で終わりとせず、行政を巻き込み、より高い所を目指して欲しいです。もし適切な避難場所が無いなら高い丘に何かを確保してもらったり、近隣の高いビルに避難場所を設けてもらうなり、津波避難塔等を建設して戴きましょう。
また避難行動要支援者等も連れられて来るでしょう。その場合はどうするか等々、色んなケースを想定して立案し、避難訓練を数多くこなして身に付けて欲しいです。
「今まで来ないから大丈夫」なんて思うのは思い上がり(>_<) 人生僅か100年が精々。体験出来ることは少ないです。
あの東日本大震災に押し寄せた大津波は800年周期とか。それでも今の地形が整った年代から考えれば、まだまだ短時間(>_<) 生き延びる為に今出来ることを極めたいです。
ウクライナを始めとする戦争・紛争地域に早く平和が戻る事を祈り、本日はお終いm(_ _)m
ここは気仙沼市本吉町風の丘。
東日本大震災直後、私が手伝っていた避難所へ支援に来られた方々が今月2グループお出でになり、あのときの苦しい時代を振り返りながら御礼を申し上げ、当時出来なかった市内を始めとする震災遺構等をご案内する機会に恵まれました。
まず紹介したかったのは気仙沼市震災遺構となった旧・気仙沼向洋高校校舎。元々は気仙沼魚市場に近い低地に建つ気仙沼水産高校でしたが、移転新築後ややあって、「水産」からのカバーエリアを広げた事を機に、この名前に。
東日本大震災による大きな津波で建物は大きな被害を受けて使えなくなりましたが、的確な判断で生徒も職員も全員無事でした。地震後5分で避難行動を起こしたことが幸いでした。
(写真はクリックすると大きくなります)
あっ、最上階西端の外壁が.....(>_<)
南校舎の西端をパチリ。何で4階部分が??(>_<) 左下は玄関と昇降口。
時間はちょっと遡り、先ずは駐車場から。凡そ西を向いてのパチリです。左の4階建てが南校舎。右は震災後に建てられた、展示施設等がある伝承館。この裏手に北校舎や屋体等が有ります。
まず伝承館で展示や概略の投影を見ます。校舎への出入口は伝承館ですが、ここは撮影禁止なので写真は....
いきなり南校舎1階の廊下です。校舎の北側に有ります。4階まで大津波が押し寄せた、その1階廊下。天井板が有ったのでしょうけれど....。照明は見学用に付けられたものです。
CAD室です。コースによっては、こんな授業もあったのですね。
保健室。
3階の教室に車が....(>_<) 左下に見える図は、写真右奥側凡そ東側から見た図で、立ち入りが出来きるのは凡そ西側なので、車の傾きが逆です。脳内変換をお願いします。海側の窓から流されて入りました(>_<)
説明板の拡大です。図右上のレターケースも覚えていてください。
4階南校舎西端の教室です。浸水自体は30センチ程度なのでしょうけれど、地震や後述の理由で色んな物が散乱しています。特に中央右に見える大きなオレンジ色の物体は....。
同じ室内北側に置かれたレターケース。下から何段かが錆びています。海水がここまで(>_<)
最初の写真に写っていた外壁の破損箇所を教室からパチリ。さて、これは....。
なんと大津波で流されてきた冷凍工場との衝突痕でした(>_<) そして室内に有ったオレンジ色の物体は、窓から入り込んだ冷凍工場の断熱材とは....(>_<)
屋上に上がりました。校庭に西半分です。
校舎前に広がる校庭は、近年パークゴルフの場となり、平日でも賑わっています。左上、島のように見えるのは旭崎。詳細後述。その向こうは海ですが、旭崎の右に南三陸町歌津(うたつ)の岬が伸びています。
写真上から1/3の辺りを左右に走る道は、1km余り西(向かって右)を走る国道45号と左の先に在る景勝地・岩井崎を結びます。その右から1/4辺りで右下に伸びるのは学校の玄関や昇降口に至る通路。
ほぼ南に在る旭崎です。この辺りではやや高くなっていて、上には別荘や神社が有ります。ここの木に10人が登って助かりました。これらの木々は大津波で洗われたのに今でも健在です。
旭崎の説明板です。
校庭の東半分です。左上は再建された魚の冷凍工場。
屋上西側に避難経路の説明板が有りました。
中央上に見える携帯電話中継塔の左下は被災したお寺ですが、その左側の道路を通り右上中程に在る陸前階上(りくぜんはしかみ)駅に一時避難しました。しかし「大津波」との情報で更に奥の階上中学校へ生徒全員と引率した職員が避難。
説明板の拡大です。
まあ結果的には駅で大丈夫でしたが、更なる安全を求めた行動は学ぶべきです。良き判断と行動でした。
岩手県釜石市鵜住居(うのすまい)の小中学生は避難場所を当初設定されていた所から、より安全な所へと2度3度と変更し、途中から合流した保育所の児童を手助けしながら、避難した一行は全員無事でした。
南校舎西端近くから見た屋体跡。コンクリート製の1階部分のみ残りました(>_<) この屋体の右側に有る生徒会館と北校舎の間に、流された民家の2階部分が引っ掛かり、それに乗っていた2人が夜明けまで校舎側から励ましを受け、明るくなってから無事に助け出されました。
南校舎の後ろ側には北校舎が在ります。当時ここは耐震工事が終わり、南校舎も....という段取りでした。中庭西にはヒバの木が有ります。これは水没したのですが、今でも元気です。
大津波来襲時を撮影した写真が有りました。ヒバは完全に水没です。その後更に水位は上がりました(>_<)
渡り廊下の1階から撮影。水没したヒバは元気です(^_^)v
北校舎1階から南校舎の北側をパチリ。大津波が通り抜けた3階までは窓枠さえ有りません。
北校舎から伝承館に戻ると、被災した方々のお話が投影されています。それを見て、終わりとしました。
上の写真説明にも有りましたが、校舎には人が残っていました。以前、職員20人は残って書類が流されないよう高い所へ上げていたと聞きました。工事中であり関係者が25人、近隣から避難してきた人が4人。ここに人が残っていたことにより救助された2人の計51人。
救助された人は別として、重要書類も有ったのでしょうけれど、ヨコミーは、先ずは皆さんに避難して戴きたかったです。4階床上で済んだものの、水位がもっと上がる可能性も有りました。冷凍工場は幸いにかすった程度で済みましたが、正面から衝突したら屋上まで被害があったかも知れません。
近隣から避難されてきた人は多分生徒出発より後で校舎に来たのでしょう。もし出発時までにここへ避難されていれば、生徒の手を借りながらも中学校まで行けたかと。
普通、学校を含めた公共施設は一時避難場所に指定されていることが多いです。なので、ひょっとしたら事前に指定されていなくても、近隣の住民は先ずは学校へ避難しようと詰めかけるでしょう。
海や川に近い低地に建つ、特に小学校で、予め、より高い所に避難場所が決められていない場合、学校の先生方は何処へ避難させようかと迷うでしょう。そこに地域の住民が何十人も押し寄せたら、先生方はどう切り盛りすれば良いのでしょうか。
子供が学校に居る時間帯は多くの家庭で働きに出ており、避難して来る方々は結構高齢者が多いかと。ヨコミーみたく椎間板ヘルニアで走ることが難しかったり、ヨコミー奥様のおリュウさんみたいに足が弱って長くは歩けない人とか....(>_<)
学校や地域が避難計画を作る、或いは見直す際は、一時避難所の設定で終わりとせず、行政を巻き込み、より高い所を目指して欲しいです。もし適切な避難場所が無いなら高い丘に何かを確保してもらったり、近隣の高いビルに避難場所を設けてもらうなり、津波避難塔等を建設して戴きましょう。
また避難行動要支援者等も連れられて来るでしょう。その場合はどうするか等々、色んなケースを想定して立案し、避難訓練を数多くこなして身に付けて欲しいです。
「今まで来ないから大丈夫」なんて思うのは思い上がり(>_<) 人生僅か100年が精々。体験出来ることは少ないです。
あの東日本大震災に押し寄せた大津波は800年周期とか。それでも今の地形が整った年代から考えれば、まだまだ短時間(>_<) 生き延びる為に今出来ることを極めたいです。
ウクライナを始めとする戦争・紛争地域に早く平和が戻る事を祈り、本日はお終いm(_ _)m
献花に行ってきました(前編) 気仙沼の今 20230311 [東日本大震災]
こんにちは、ヨコミーです。
ここは気仙沼市本吉町風の丘。
今年も3.11がやってきました。改めて犠牲になられた多くの方々のご冥福と、被害に遭われた方々にお見舞いを申し上げます。
さて新しくなった中央公民館で行われた献花に初めて行きましたが、その途中等で見掛けた「気仙沼」の様子を以下に紹介します。
(写真はクリックすると大きくなります。ノーファインダーが多く、多少トリミングしたものの構図や色調についてはご容赦をm(_ _)m)
三陸道を北上し、気仙沼港インターです。ここで下ります。
ここは南向けのハーフインター(>_<) なので市内唐桑や岩手県沿岸から三陸道で南下した車はここから出ることは出来ません。なので1つ南の気仙沼中央インターでは南下してきた車が下の交差点を使ってUターンしています(>_<)
気仙沼港インターを下りる坂道です。直ぐ左下に広がる水産加工場団地や市街地が見えてきました。
左中程の遠くに白くて横に長い建物が小さく見えますが、震災直後から足掛け10ヶ月も避難所になった気仙沼市民会館です。
上は気仙沼湾を横断する三陸道。坂をもう少し下るとT字路が有ります。ここは右折です。端の下を通るって??? まあまあ(^_^;)
気仙沼市を流れる大川を跨ぐ三陸道の下に、もう1つの橋が出来ました。ここを進んで橋を渡ります。この橋、ちょっと見には無駄な感じです。
当初計画では川と気仙沼湾との間に有る陸地にインターが出来る予定でしたが、分流・合流部を作るには狭かったのでしょうね。市の工事となりましたが国からの補助が多かったとか。まあ三陸道は国の事業なので当然かも。
左端に見える2つの塔は三陸道の気仙沼湾横断橋を支える2つの主塔。
大川の河口です。左手前が川。右から伸びる気仙沼湾は重油タンクと向こう岸の間を左にずーつと行った湾奥まで続きます。河口も防潮堤で囲われています。
右奥の山は気仙沼・大島の亀山。その手前は近年宮城県が架けた大島大橋。両端の字名を取って、結果縁起が良い通称「鶴亀橋」(^_^)v
ご存じの無い方に申し上げますが、三陸道も大島大橋も東日本大震災のおかげで作られた物ではないことをお分かりください。ネットには事情も知らない方が身勝手な解釈で「東日本大震災の賜物」の様に書いているお方も居ますが、三陸道は震災前から事業化されていました。
特に大島大橋は数十年に及ぶ運動が実を結び、震災前から用地買収や本土側の道路改修等が進んでいました。架橋前はちょっとした嵐や霧だと船が出せず、通勤通学も出来ず、特に急患では多くの人が泣きました。たまたま見た橋に車や人の姿が見えなくても、文句は言わないでください。言うなら何処かの離島に住んで離島の不便を体験してから(^_^)v
大川に架かる市道の橋をそろそろ渡り終えるところ。左手2つの黒めに見えるのカラスでしょうか。道路右に有る工場の屋根に重なっているのは猛禽類です。ヨコミーは鷲、鷹、鳶の区別が分かりません(>_<)
この先、トラックの手前で左折。
ですが(^_^;)、もうちょっと右側を。みらい造船です。
市内鹿折地区東海岸に小さな数社の造船所が有り、震災後1社を除いて合併、そしてこの地へ移転しました。
何処かに書いた気がしますが、鹿折中学校の同級生には造船会社の社長令嬢が居て、同じ中学校の同級生で、市役所関係で写真が採用されている写友のKMさんは奥さんが別な造船会社のご令嬢(^_^;)
そんな元気な旧・鹿折町でしたが、造船所は1社を除き居なく成り、再建された水産加工場は働く人が少なくなり、気仙沼市から鹿折町の独立を夢としていたヨコミー、夢まで流されました。うーん惜しかった(^_^;)
左折すると間もなく右手に空き地が(>_<) まあ最近では見慣れた風景です。奥に見えるビルは国の合同庁舎です。被災しましたが法務局やハローワークを出し、改修の上再配置で利用しています。このビルの直ぐ向こうが気仙沼湾です。
ちなみに左側には県の合同庁舎が有りましたが、こちらはイオンに近い廃校となった県立高跡地に警察と共に引っ越しました。市民としてはタイミングが若干ズレてはいましたが、より遠くに立てられた市立病院と交換して欲しかったです。県の2施設より市立病院に通う人の方が断然多いにもかかわらず、です。警察も緊急出動するならバイパスや三陸道に近い方が効率的だと思うのですが....(>_<)
この辺りには自宅兼小さな工場とか大きな建物まで結構立っていたのですが、住む建物は立てられない制限が有り、昔のようなごちゃごちゃした姿には戻る事は無いでしょう。
この空き地は広いですが、被災した住宅地は市で買い上げられましたが点在し、まだ多くが未利用地となっています。日本にも居ないかな、トランプさん。買い占めて!(^_^;)
以前は河口に一番近かった曙橋東側付近です。左の橋は、震災後BRTというバスになってしまったJR気仙沼線の、大川に架かる橋。その橋桁の下、僅かに北側へ移設された曙橋が見えます。震災前は掘り下げたガードで曙橋からこの地に繋がっていましたが、北側に移設されたことでJRとは平面で交差することと成りました。以前はガード下に雨水が溜まり、ちょっと大変なときも(>_<) なので今は左手に見えるJRの下は車両通行禁止です。
真っ直ぐ道路の向こう、小高い所に在る白い建物は気仙沼市民会館。
真っ直ぐ道路の左、白い建物の奥に見える台形の山は岩手県一関市の室根山(895m)。近隣では一番高い山です。今年5月の下旬、震災時気仙沼に支援で入った方々が今度は遊びで来られますが、そのとき市内のツツジ山・徳仙丈山に行きたいというので案内するつもりです。ただ、どうやら今年も開花が早くなりそう(>_<) そんなとき、近隣で良ければ室根山のヤマツツジにご案内するつもりです。
枯れ草がボウボウの空き地。進行方向左前に茶色い建物が見えます。再建された旧宮城交通(バス)の営業所ですが、今はミヤコーバスと名乗っています。緑色が見えるバスは高速バスです。左のアーチは洗車用かも(^_^)v
アーチの奥は内ノ脇の災害公営住宅で、目指す中央公民館はその左隣。でも今の道を真っ直ぐ進み、大きくUターンするようにしか行けません。左折中央公民館の標識が無いのでまだ道が出来ていないようです。不便(>_<)
進行方向右側です。民家や小さな工場、倉庫等々ぎっしりでしたが...(>_<)
左側、明るい色の建物は観光ホテルの一景閣。泊まったことは有りませんが忘年会等で美味しい料理を頂きました(^_^;)
これらの建物の向こう陰、若干の距離は有りますが気仙沼湾。湾奥は左手。奥に見える山並みは向こう岸、多くの造船所が有った鹿折地区の東海岸です。この東海岸を南下(右)すると大島大橋を経由して大島へ行けます。
少し進んで左手。小さくて申し訳ないですが、また災害公営住宅と重なって見づらいですが、左手に見えるオレンジ色の直ぐ右に有る、焦げ茶色のカマボコ屋根が今のJR南気仙沼駅。震災前の姿は有りません(>_<)
それにしても空き地だらけ(>_<)
赤信号なので続けて右側(^_^;) 方角は奥の山(安波山?)が凡そ北北西。左に見える薬王堂看板右下、薄茶色の建物は、ちょっと南に場所を移した旅館磯村。ここも忘年会等で行きましたが美味しかったです(^_^;)
で、本論は(^_^;)磯村の右裏から写真右手中程まで幸町の災害公営住宅が広がっています。右端に有る災害公営住宅の右奥に見える茶色っぽい建物は以前市外の資本に買収されたホテル観洋。
災害公営住宅や磯村の前を通る市道は、右に行けば気仙沼魚市場、左に行けば新興商業地域やバイパスに続くので交通量は多くなっています。その為か食べ物屋さんが沢山進出してきました(^_^;) チェーンのうどん屋さんは食べない内に(^_^;)撤退しましたが、かつや、鹿折から移転した王将、すき家、コンビニ2店等々。地元のお菓子屋さんも再建されました。
青信号になったので少し進んで同じ右方向。先程見えた薬王堂と幹線道路間ですが、まだまだ空き地が(>_<) トランプ前大統領は嫌いだけど、この辺を買い占めてくれるなら....(^_^;)
幹線道路の交差点に出ました。右に行けば気仙沼魚市場、左に行けば新興商業地やバイパスです。この交差点を真っ直ぐ進み、ガス工場の手前から右に昇ると気仙沼市民会館や小学校、中学校、図書館に至ります。ミニストップ看板の左上、白い建物が市民会館。
看板が有りました。ここを左折です。
左折しました。今の角にはすき家(^_^;) ちょっと空きは有りますが、その右隣が左に見えているレンタカー屋さん。その先は歯科。新興? 向かいのオレンジは地元で幅広く手がけている工務店。その向こうは震災後市立病院から開業した内科。以前母がお世話になりました。
少し進みます。
進行方向は右から左ですが、ここはBRT専用道路との平面交差。奥へ進むと気仙沼駅へ、背面へ進むと南気仙沼駅を経て大川を渡ります。
24mmという超広角レンズで撮っている為、結構遠く、小さく写ってしまいました(>_<) ここで左折です。
幹線道路は真っ直ぐ。まもなく気仙沼大橋を渡り、新興商業地帯を経てバイパスに直進です。中央に見える茶色い建物は川向こう。被災して改修された結婚式場です。震災後、式場が無く、なんとか結婚式を挙げたくて、岩手県の山手に有る式場で行った当時の部下もいました。これと似た....というか逆パターンですが、石巻で亡くなった義理父の火葬を、義理弟の家内が山形県に火葬場の空きを見つけ、私も参列することが出来ました。直後は火葬場も被災し、多くは一時的に土葬(>_<) 義理弟家内の執念に感謝m(_ _)m
左折しました。左は先程見えていた内ノ脇の災害公営住宅。住宅の裏(右)は直ぐ大川です。住宅の左下、黒猫トラックとの間に見える薄いピンク色が会場の中央公民館。右端奥の高層住宅は、大川向かいに建つ南郷の災害公営住宅です。この住宅は震災の大津波で大きな被害を受けて廃校となった南気仙沼小学校の跡地に立てられています。
間もなく写真枠外右に中央公民館となりますが、左手をパチリ。色がどういうわけか茶色に傾きました。ご容赦をm(_ _)m あえてセピア処理をした訳では有りません。フロントガラス経由なのですが...(>_<)
空き地(>_<) 以前だって多少は空いて居ましたが....。奥の山が大島の亀山。手前下に見えるアーチが、先程も見えた大島大橋。なんか変な方向ですが、大島の北西端に北側から橋を架けた為です。出来れば西に向けて架ければ、病院を含めた市街地はより近いし、橋上で強い横風を受けることは無いのですが、宮城県には3倍近く長い橋を架ける予算は重かったのでしょうね(>_<)
で、10秒程で会場到着です。取り敢えずの前編はここまで。勿論会場の様子をお伝えする気は有りません。しめやかに(*^_^*) 時間を見て、こんな感じで周辺の様子をお伝えしたいです。
一見、ヨコミーはあの震災でなーんの被災もしていないようですが、ちょっとだけ。取り敢えずは多少の物損と家が歪んだこと(>_<)
その日、ヨコミー奥様のおリュウさんは所用で内湾に居たのですが、タッチの差で、しかも渋滞していたので帰路に農道を選んだことから、まあその農道も自宅近くでは瓦礫で通行出来なくなり、知らない山の木々をかき分け帰宅出来たとさ。
母は海に近い施設へデーサービスで行っていて、送迎時ではなかったことから無事。3日4日缶詰になったものの施設から無事に帰還。
長男は当時リストラに遭い、自宅。このリストラのおかげで(^_^;)長男が太陽光発電を自立型に切り替え、我が家は一帯が停電の中、晴れている日は電気を使うことが出来ました。停電は1ヶ月半でした。
次男は内湾のすぐ前の職場に居たのですが上司の判断が良かった為か無事でした。長女は仙台の街中でしたので無事。
母実家宅は市内本吉町の旧・小泉村で、大津波が家々の殆どを流し去りましたが、家族は無事でした。
ただおリュウさんの父は石巻市を流れる北上川沿いの施設に入居していて、なんとか上階に上げられ流されなかったものの、暖房が途切れ、その後肺炎を起こし、3月末に亡くなりました。
こんな状況で有り、アマチュア無線の先輩や娘が教えられた習字の先生は流されたものの、義理父を含め、その都度拝んでいたので、改まって式典に参列して献花することは有りませんでした。
でも、まあ、歳なんでしょうか(^_^;)
ただヨコミー、今更ですが大きなものを失っていました。「もの」といえば「物」なのかもしれませんが、やはり「もの」。物事の「もの」なのかも。その内容は今更誰にも話すことは....万にひとつぐらいは有るかな?無いでしょう(^_^;) ほんと、大きなものを失っていました(>_<)(T_T)
2月21日、前日スキー場で頭を冷やしてしまい、風邪となって預かったマーゴのUちゃんから陰性の風邪を頂いてしまい、おリュウさんとともに我が家は大変でした。咳と痰。まあ婆様譲りかも(^_^;) そんな風邪は長引き、多くの予定はキャンセル。とはいえ某団体の役員でも有り、大変な日々でした(>_<) 先日はそろそろ決算ですが、そのまとめ方では補助金の使途が明示されて居らず....(>_<) 職場と違って引継書は無く、古い帳簿は会計に渡って居らず、年度末まで困難を極めるかも(>_<)
回復基調に有るこの身、頭の慣らしを兼ねてのブログ更新でした。この調子なら明日、別な役員会に行けそうです。夜への復帰も近いかな(^_^;) 木登りもしたいです。剪定(^_^)v
ウクライナを始めとする世界の平和と、取り敢えず某3国のトップを除いた全ての人の健康を祈り、
本日はお終いですm(_ _)m
ここは気仙沼市本吉町風の丘。
今年も3.11がやってきました。改めて犠牲になられた多くの方々のご冥福と、被害に遭われた方々にお見舞いを申し上げます。
さて新しくなった中央公民館で行われた献花に初めて行きましたが、その途中等で見掛けた「気仙沼」の様子を以下に紹介します。
(写真はクリックすると大きくなります。ノーファインダーが多く、多少トリミングしたものの構図や色調についてはご容赦をm(_ _)m)
三陸道を北上し、気仙沼港インターです。ここで下ります。
ここは南向けのハーフインター(>_<) なので市内唐桑や岩手県沿岸から三陸道で南下した車はここから出ることは出来ません。なので1つ南の気仙沼中央インターでは南下してきた車が下の交差点を使ってUターンしています(>_<)
気仙沼港インターを下りる坂道です。直ぐ左下に広がる水産加工場団地や市街地が見えてきました。
左中程の遠くに白くて横に長い建物が小さく見えますが、震災直後から足掛け10ヶ月も避難所になった気仙沼市民会館です。
上は気仙沼湾を横断する三陸道。坂をもう少し下るとT字路が有ります。ここは右折です。端の下を通るって??? まあまあ(^_^;)
気仙沼市を流れる大川を跨ぐ三陸道の下に、もう1つの橋が出来ました。ここを進んで橋を渡ります。この橋、ちょっと見には無駄な感じです。
当初計画では川と気仙沼湾との間に有る陸地にインターが出来る予定でしたが、分流・合流部を作るには狭かったのでしょうね。市の工事となりましたが国からの補助が多かったとか。まあ三陸道は国の事業なので当然かも。
左端に見える2つの塔は三陸道の気仙沼湾横断橋を支える2つの主塔。
大川の河口です。左手前が川。右から伸びる気仙沼湾は重油タンクと向こう岸の間を左にずーつと行った湾奥まで続きます。河口も防潮堤で囲われています。
右奥の山は気仙沼・大島の亀山。その手前は近年宮城県が架けた大島大橋。両端の字名を取って、結果縁起が良い通称「鶴亀橋」(^_^)v
ご存じの無い方に申し上げますが、三陸道も大島大橋も東日本大震災のおかげで作られた物ではないことをお分かりください。ネットには事情も知らない方が身勝手な解釈で「東日本大震災の賜物」の様に書いているお方も居ますが、三陸道は震災前から事業化されていました。
特に大島大橋は数十年に及ぶ運動が実を結び、震災前から用地買収や本土側の道路改修等が進んでいました。架橋前はちょっとした嵐や霧だと船が出せず、通勤通学も出来ず、特に急患では多くの人が泣きました。たまたま見た橋に車や人の姿が見えなくても、文句は言わないでください。言うなら何処かの離島に住んで離島の不便を体験してから(^_^)v
大川に架かる市道の橋をそろそろ渡り終えるところ。左手2つの黒めに見えるのカラスでしょうか。道路右に有る工場の屋根に重なっているのは猛禽類です。ヨコミーは鷲、鷹、鳶の区別が分かりません(>_<)
この先、トラックの手前で左折。
ですが(^_^;)、もうちょっと右側を。みらい造船です。
市内鹿折地区東海岸に小さな数社の造船所が有り、震災後1社を除いて合併、そしてこの地へ移転しました。
何処かに書いた気がしますが、鹿折中学校の同級生には造船会社の社長令嬢が居て、同じ中学校の同級生で、市役所関係で写真が採用されている写友のKMさんは奥さんが別な造船会社のご令嬢(^_^;)
そんな元気な旧・鹿折町でしたが、造船所は1社を除き居なく成り、再建された水産加工場は働く人が少なくなり、気仙沼市から鹿折町の独立を夢としていたヨコミー、夢まで流されました。うーん惜しかった(^_^;)
左折すると間もなく右手に空き地が(>_<) まあ最近では見慣れた風景です。奥に見えるビルは国の合同庁舎です。被災しましたが法務局やハローワークを出し、改修の上再配置で利用しています。このビルの直ぐ向こうが気仙沼湾です。
ちなみに左側には県の合同庁舎が有りましたが、こちらはイオンに近い廃校となった県立高跡地に警察と共に引っ越しました。市民としてはタイミングが若干ズレてはいましたが、より遠くに立てられた市立病院と交換して欲しかったです。県の2施設より市立病院に通う人の方が断然多いにもかかわらず、です。警察も緊急出動するならバイパスや三陸道に近い方が効率的だと思うのですが....(>_<)
この辺りには自宅兼小さな工場とか大きな建物まで結構立っていたのですが、住む建物は立てられない制限が有り、昔のようなごちゃごちゃした姿には戻る事は無いでしょう。
この空き地は広いですが、被災した住宅地は市で買い上げられましたが点在し、まだ多くが未利用地となっています。日本にも居ないかな、トランプさん。買い占めて!(^_^;)
以前は河口に一番近かった曙橋東側付近です。左の橋は、震災後BRTというバスになってしまったJR気仙沼線の、大川に架かる橋。その橋桁の下、僅かに北側へ移設された曙橋が見えます。震災前は掘り下げたガードで曙橋からこの地に繋がっていましたが、北側に移設されたことでJRとは平面で交差することと成りました。以前はガード下に雨水が溜まり、ちょっと大変なときも(>_<) なので今は左手に見えるJRの下は車両通行禁止です。
真っ直ぐ道路の向こう、小高い所に在る白い建物は気仙沼市民会館。
真っ直ぐ道路の左、白い建物の奥に見える台形の山は岩手県一関市の室根山(895m)。近隣では一番高い山です。今年5月の下旬、震災時気仙沼に支援で入った方々が今度は遊びで来られますが、そのとき市内のツツジ山・徳仙丈山に行きたいというので案内するつもりです。ただ、どうやら今年も開花が早くなりそう(>_<) そんなとき、近隣で良ければ室根山のヤマツツジにご案内するつもりです。
枯れ草がボウボウの空き地。進行方向左前に茶色い建物が見えます。再建された旧宮城交通(バス)の営業所ですが、今はミヤコーバスと名乗っています。緑色が見えるバスは高速バスです。左のアーチは洗車用かも(^_^)v
アーチの奥は内ノ脇の災害公営住宅で、目指す中央公民館はその左隣。でも今の道を真っ直ぐ進み、大きくUターンするようにしか行けません。左折中央公民館の標識が無いのでまだ道が出来ていないようです。不便(>_<)
進行方向右側です。民家や小さな工場、倉庫等々ぎっしりでしたが...(>_<)
左側、明るい色の建物は観光ホテルの一景閣。泊まったことは有りませんが忘年会等で美味しい料理を頂きました(^_^;)
これらの建物の向こう陰、若干の距離は有りますが気仙沼湾。湾奥は左手。奥に見える山並みは向こう岸、多くの造船所が有った鹿折地区の東海岸です。この東海岸を南下(右)すると大島大橋を経由して大島へ行けます。
少し進んで左手。小さくて申し訳ないですが、また災害公営住宅と重なって見づらいですが、左手に見えるオレンジ色の直ぐ右に有る、焦げ茶色のカマボコ屋根が今のJR南気仙沼駅。震災前の姿は有りません(>_<)
それにしても空き地だらけ(>_<)
赤信号なので続けて右側(^_^;) 方角は奥の山(安波山?)が凡そ北北西。左に見える薬王堂看板右下、薄茶色の建物は、ちょっと南に場所を移した旅館磯村。ここも忘年会等で行きましたが美味しかったです(^_^;)
で、本論は(^_^;)磯村の右裏から写真右手中程まで幸町の災害公営住宅が広がっています。右端に有る災害公営住宅の右奥に見える茶色っぽい建物は以前市外の資本に買収されたホテル観洋。
災害公営住宅や磯村の前を通る市道は、右に行けば気仙沼魚市場、左に行けば新興商業地域やバイパスに続くので交通量は多くなっています。その為か食べ物屋さんが沢山進出してきました(^_^;) チェーンのうどん屋さんは食べない内に(^_^;)撤退しましたが、かつや、鹿折から移転した王将、すき家、コンビニ2店等々。地元のお菓子屋さんも再建されました。
青信号になったので少し進んで同じ右方向。先程見えた薬王堂と幹線道路間ですが、まだまだ空き地が(>_<) トランプ前大統領は嫌いだけど、この辺を買い占めてくれるなら....(^_^;)
幹線道路の交差点に出ました。右に行けば気仙沼魚市場、左に行けば新興商業地やバイパスです。この交差点を真っ直ぐ進み、ガス工場の手前から右に昇ると気仙沼市民会館や小学校、中学校、図書館に至ります。ミニストップ看板の左上、白い建物が市民会館。
看板が有りました。ここを左折です。
左折しました。今の角にはすき家(^_^;) ちょっと空きは有りますが、その右隣が左に見えているレンタカー屋さん。その先は歯科。新興? 向かいのオレンジは地元で幅広く手がけている工務店。その向こうは震災後市立病院から開業した内科。以前母がお世話になりました。
少し進みます。
進行方向は右から左ですが、ここはBRT専用道路との平面交差。奥へ進むと気仙沼駅へ、背面へ進むと南気仙沼駅を経て大川を渡ります。
24mmという超広角レンズで撮っている為、結構遠く、小さく写ってしまいました(>_<) ここで左折です。
幹線道路は真っ直ぐ。まもなく気仙沼大橋を渡り、新興商業地帯を経てバイパスに直進です。中央に見える茶色い建物は川向こう。被災して改修された結婚式場です。震災後、式場が無く、なんとか結婚式を挙げたくて、岩手県の山手に有る式場で行った当時の部下もいました。これと似た....というか逆パターンですが、石巻で亡くなった義理父の火葬を、義理弟の家内が山形県に火葬場の空きを見つけ、私も参列することが出来ました。直後は火葬場も被災し、多くは一時的に土葬(>_<) 義理弟家内の執念に感謝m(_ _)m
左折しました。左は先程見えていた内ノ脇の災害公営住宅。住宅の裏(右)は直ぐ大川です。住宅の左下、黒猫トラックとの間に見える薄いピンク色が会場の中央公民館。右端奥の高層住宅は、大川向かいに建つ南郷の災害公営住宅です。この住宅は震災の大津波で大きな被害を受けて廃校となった南気仙沼小学校の跡地に立てられています。
間もなく写真枠外右に中央公民館となりますが、左手をパチリ。色がどういうわけか茶色に傾きました。ご容赦をm(_ _)m あえてセピア処理をした訳では有りません。フロントガラス経由なのですが...(>_<)
空き地(>_<) 以前だって多少は空いて居ましたが....。奥の山が大島の亀山。手前下に見えるアーチが、先程も見えた大島大橋。なんか変な方向ですが、大島の北西端に北側から橋を架けた為です。出来れば西に向けて架ければ、病院を含めた市街地はより近いし、橋上で強い横風を受けることは無いのですが、宮城県には3倍近く長い橋を架ける予算は重かったのでしょうね(>_<)
で、10秒程で会場到着です。取り敢えずの前編はここまで。勿論会場の様子をお伝えする気は有りません。しめやかに(*^_^*) 時間を見て、こんな感じで周辺の様子をお伝えしたいです。
一見、ヨコミーはあの震災でなーんの被災もしていないようですが、ちょっとだけ。取り敢えずは多少の物損と家が歪んだこと(>_<)
その日、ヨコミー奥様のおリュウさんは所用で内湾に居たのですが、タッチの差で、しかも渋滞していたので帰路に農道を選んだことから、まあその農道も自宅近くでは瓦礫で通行出来なくなり、知らない山の木々をかき分け帰宅出来たとさ。
母は海に近い施設へデーサービスで行っていて、送迎時ではなかったことから無事。3日4日缶詰になったものの施設から無事に帰還。
長男は当時リストラに遭い、自宅。このリストラのおかげで(^_^;)長男が太陽光発電を自立型に切り替え、我が家は一帯が停電の中、晴れている日は電気を使うことが出来ました。停電は1ヶ月半でした。
次男は内湾のすぐ前の職場に居たのですが上司の判断が良かった為か無事でした。長女は仙台の街中でしたので無事。
母実家宅は市内本吉町の旧・小泉村で、大津波が家々の殆どを流し去りましたが、家族は無事でした。
ただおリュウさんの父は石巻市を流れる北上川沿いの施設に入居していて、なんとか上階に上げられ流されなかったものの、暖房が途切れ、その後肺炎を起こし、3月末に亡くなりました。
こんな状況で有り、アマチュア無線の先輩や娘が教えられた習字の先生は流されたものの、義理父を含め、その都度拝んでいたので、改まって式典に参列して献花することは有りませんでした。
でも、まあ、歳なんでしょうか(^_^;)
ただヨコミー、今更ですが大きなものを失っていました。「もの」といえば「物」なのかもしれませんが、やはり「もの」。物事の「もの」なのかも。その内容は今更誰にも話すことは....万にひとつぐらいは有るかな?無いでしょう(^_^;) ほんと、大きなものを失っていました(>_<)(T_T)
2月21日、前日スキー場で頭を冷やしてしまい、風邪となって預かったマーゴのUちゃんから陰性の風邪を頂いてしまい、おリュウさんとともに我が家は大変でした。咳と痰。まあ婆様譲りかも(^_^;) そんな風邪は長引き、多くの予定はキャンセル。とはいえ某団体の役員でも有り、大変な日々でした(>_<) 先日はそろそろ決算ですが、そのまとめ方では補助金の使途が明示されて居らず....(>_<) 職場と違って引継書は無く、古い帳簿は会計に渡って居らず、年度末まで困難を極めるかも(>_<)
回復基調に有るこの身、頭の慣らしを兼ねてのブログ更新でした。この調子なら明日、別な役員会に行けそうです。夜への復帰も近いかな(^_^;) 木登りもしたいです。剪定(^_^)v
ウクライナを始めとする世界の平和と、取り敢えず某3国のトップを除いた全ての人の健康を祈り、
本日はお終いですm(_ _)m
松崎尾崎防災公園 気仙沼の今 20211115 [東日本大震災]
こんにちは、ヨコミーです。
ここは気仙沼市本吉町風の丘。
吹いてきました、吹いてきましたよ(>_<) 14日の夜は大変な季節風で、家は揺れるし、茶の間に風が吹きました(>_<)(^_^;)
ヨコミー家は荒ら家な上に、台所や茶の間、廊下、階段、トイレ、2階ヨコミー奥様・おリュウさんの部屋などは真冬の夜でも戸は開けていて、ヒートショックは無いのです(^_^;)
が、風が吹いた一件は、強風でバタバタしていた台所換気扇から風が入り、茶の間の床暖吹き出し口から風が抜け、その風はダクトを通って天井裏から2階外壁の排気口か屋根の先に有る空気取り入れ口から出ていったのでは...と考えます。まあ、逆流の類い(^_^;)
換気扇の外側って見たことが有りますか? 「ロスナイ」は別として、重厚な蓋は見たことが有りません(^_^;) 薄いブリキかアルミのような金属の板が、ファンの回転で開いたり閉じたりしている物が多いかと。うーん、安い物件しか見たことが無い為かなぁ(^_^;)
16日未明に南太平洋トンガ沖の海底火山からやってきた津波は、四国などでは小舟が転覆や沈没したようですが、気仙沼は大丈夫だったようです。船を持っている遊び人爺の船も(^_^;) 地元紙に寄れば養殖施設の被害も限定的だったようです。機会があれば後日のネタとします。
昨年11月の、限りなく皆既に近い月食を撮影しようと、直前に東側が特に開けた場所を探していました。その折、市内面瀬地区の松崎尾崎防災公園を始めて訪れましたので、紹介します。
元々面瀬地区は松岩地区南部と更に南に在る階上地区の北部とが近年新興住宅地として人口が増えた為、ひとつの地区として独立したものです。凡そ、地域西側の山から東の気仙沼湾へ流れる面瀬川の流域です。
その面瀬川河口の南側には、字名が松崎尾崎という土地に100戸程の集落が発達していました。一帯は尾崎神社が建っている土地を除き全て低地で、民家等は東日本大震災よる大津波で全滅でした。
その地域には新規に建物を建てて住むことは出来ず、全住民が移転し、自治会は解散せざるを得ませんでした。
浸水地となった住めない民地は買い上げられ、大津波から10年過ぎた昨年、防災公園として生まれ変わりました。
(各写真はクリックすると大きくなります。大きくなるだけ。綺麗には成りません(^_^;)
青空が綺麗な11月15日の撮影。四阿が建っているのは公園内にある防災築山です。白いのは防潮堤。その向こうに小さな尾崎漁港が在り、関係者や釣り人、公園で遊んでいる人などが津波が来た時に避難してもらおうという施設。右奥の山は気仙沼湾に浮かぶ大島の亀山です。
防災築山から1枚上の写真を撮影した場所辺りをパチリ。平日のお昼直前、住宅地からは外れた所なので、ヨコミー以外には3人だけか(^_^;) 最寄りの民家からは徒歩で来られなくもないですが、ウォーキングを楽しむのでなければ車利用でしょうか、そんな距離。
グーグルマップからお借りしました。真ん中辺りが公園です。ところで不思議。セブンイレブンが何軒か表示されていますが、ファミリーマートが気仙沼中央インターと松岩漁港マークとの中間、県道沿いで営業しているのですが、示されません。こんなこともあるのですね。株主とか広告を出しているとか!??
400年も続いた集落が無くなってしまい、自治会も消えたことを伝える表示板も公園にありました。近年では明治三陸大津波、昭和三陸大津波、そして昭和35年のチリ地震津波をも乗り越えた集落でしたのに....。
防災築山にある四阿です。椅子は有り難いですが、何故か北風や西風が当たりやすい向き。晩秋から冬、そして春先までは冷たい風が当たりそう。透明なアクリル板でも欲しいです。または椅子は日当たりが良い向きにして欲しかった。
ところで左側。太陽光発電の防犯灯でしょうか。それはまあ良しとして、東日本大震災による大津波はここまで高くなったよ....と伝える表示です。
ただ、文字を拡大して見て頂きたいのです。「津波浸水深」となっています。水位の上端を表すのに「深さ」でしょうか。ヨコミーは自治会が作った表示板にもある、高さを示す「浸水高」が正しいと思うのですが....。
もう一つ、防潮堤の真ん中辺りから左へ、防潮堤のほんのわずか上に極細い白線が見えることを気付かれましたか? 対岸鹿折地区南海岸の防潮堤です。で、何故こんな高さにカメラを構えたかといえば、前後(視線方向)の水平を出したかったから(^_^;) つまり、こちらとあちらの防潮堤は水平。なのに左で示された津波の高さは、防潮堤より更に「上」です。
そう、あの東日本大震災後に工事が進められて各地で完成しましたが、巨大だと騒がれもした防潮堤は、なんとあの大津波を防ぎきれないのです。これは、より低い大津波、一般的には近々にやってくると言われる宮城県沖地震による津波を防ぐ程度の防潮堤です。あの2011年に来た大津波規模のものには避難対応だと行政は示して、防潮堤建設と共に避難路の整備も進めていました。
と、更に(^_^;) 書き忘れるところでしたが、ここの防災築山は防潮堤よりも低いですね。大津波が来たら高くなる仕掛けでもあるのでしょうか? 大波程度が一度や二度ザブーンと越えて来る分には問題無いのでしょうけれど、防潮堤を越える大津波が来たら、築山のてっぺんは水中となる可能性が大きいです。逃げ遅れた方を救うのは、やはり防潮堤より高い尾崎神社と大きな木でしょうか。
いくら低めの大津波に対応する防潮堤だとしても、内側の低地にはそれに勝る津波避難タワーや築山を設けたいものですね(^_^)v
防災築山の南には、小山の上に立つ尾崎神社が在ります。中央やや下から右に来る道は下から四阿まで登る為のもので、築山の途中。地盤は見掛け上赤いそりの奥に見える道。そんな高さ。
カメラの目線は上のコマと同じで、そうしてみれば尾崎神社の境内が辛うじて大津波の上になっていたようです。1mも無いことが分かります。
小さな尾崎神社の社です。少し拡大しました。
上のコマで、赤いそりの向こうに見えたのが下側の道です。この道も多少の盛土が有ったのかも知れません。向こう側には古い防潮堤が有り、押し寄せた海水が滞留していたと思われますが、10年経ってこんなに緑です。因みに、風の丘近くに在る杉林の下は浸水地でしたが、下側の杉は間もなく立ち枯れました。
では、周囲を紹介したくて、先ずは説明看板から。これは北向きに立てられているので北が下となります。図の作りが悪く、避難経路図にある漁港が公園の図には無く、河口近くの防潮堤に市道が走っているのですが、それも描いてありません。以下の写真は防災築山の北で、川の堤防または漁港の防潮堤を市道が乗り越える辺りからの撮影です。
最初はこんな所。公園北側を東に流れる面瀬川の河口。川幅が急に広くなっているので、海? でも右奥の片浜(かたはま)漁港(行政のくくりでは尾崎漁港も片浜漁港も松岩漁港となっています)の海岸線をこちらに延ばせばまだ「川」かな? 勉強不足(^_^;) おっ、勉強不足と言えば学んでいる放送大学の期末試験は近々(>_<) ブログを早く終え、勉強しなくっちゃ(>_<)(T_T)
凡そ北北西向き。中央やや右上、一段高くなった所は煙雲館(えんうんかん)。
左奥の山は岩手県、今は一関市となった旧・室根村の室根山895m。
右端、工事中の防潮堤も後で拡大します。
その室根山の拡大です。近隣では最高峰で、以前は東麓に小さなスキー場もありました。台形ですが、山頂は右側。左端にテレビ塔の中継所が林立していますが、2つ白く見える点の内、左はレストハウスも兼ねる室根山天文台です。
中央を左右に走るのは三陸道。左端、丘の上に見える大きな窓を持つ建物は松岩公民館。
中央が伊達家に使えた鮎貝家で、建物は近年の物ですが、西側のお庭が素敵だと市内では有名で、コロナが収まったらまた行きたいです。また、歌人で国文学者・落合直文の生家でもあります。ウィキペディアによれば、直文は備後広島藩三原城主浅野家の家臣・落合尚志の養子となりました。
工事中の防潮堤を拡大しました。断面が分かります。手前は片浜漁港ですが、30?年程前までは、ここから大島南部と結ぶ航路が有り、朝夕を中心に利便が図られていました。しかし利用が減り、連絡船は無くなりました。
広い範囲での右隣です。中央から左は片浜漁港。左端は1コマ上の防潮堤工事拡大箇所。その右上に見える白いトゲは後で拡大します。
海の奥に見える山々は、あの300tもの船が打ち上げられた鹿折地区の、南南東に連なる山々で、その裏は旧・唐桑町です。右端の山が唐桑町の早馬山です。丁度大島大橋と重なっています。これも拡大予定。中央上、横になっている防波堤の向こう、小高い所に見えるのは鹿折地区に在った浦島小学校付近に出来た、以前もちょっと紹介しました防災集団移転の団地。これも。
「白いトゲ」の拡大です。ワイヤーが見えており、三陸道の気仙沼湾横断橋を支える主塔の1つです。手前は、片浜の北東部沿岸に広がる母体田(もたいだ)の集落です。
中腹に目立つのは無線中継のパラボラアンテナ。その右下に見えるかまぼこ屋根は震災後の児童数減少で廃校となった旧・浦島小学校の屋体。右に校舎が広がります。大津波前までは校舎の下に3軒程の民家でしたが、大津波で家を失った方々の防災集団移転団地が形成されました。ただ、児童数の確保が出来ず、ヨコミーも何度か行った浦島小学校は廃校となりました。
従来の県道は中央から左に掛けての沿岸に在りましたが、今では団地付近を大島に行く県道が走っています。
大島大橋北側の付け根が右側。左は梶が浦集落と鹿折地区最南端となる鶴が浦集落の間に在る高台に出来た防災集団移転の団地。今思えば、本当に岸に近い低い所に多くの方が住んでいました。
広い範囲での、更に右隣です。左手前は尾崎漁港。左下は古い、川の堤防というか土留めでしょうか。
正面は大島。左端近くに旧・唐桑町の早馬山と大島大橋が重なって見えています。島の山は亀山。その右(南)側の裾野が海に接するように見える入り江は浦の浜。これらも後で拡大します。
大島大橋と早馬山219mです。余り詳しくはありませんが、手前の筏は牡蛎や帆立、小さな浮きが並ぶのは若布だと思います。
大島の亀山234mです。山頂近くに見える白く横長の建物は亀山レストハウス。
以前はその下から右下の浦の浜とを結ぶリフトがありましたが、利用は段々と低迷し、大津波の被害もあって廃止となりました。
亀山からの眺望はとても素晴らしいですが、交通が難。レストハウス付近はとても狭く、中腹に市は駐車場を作ってそこから歩いてもらっていました。が不評で、レストハウスまでシャトルバスが出ていました。でも常時ではなく、市は解決策として駐車場からのゴンドラを計画しています。
ただ、ゴールデンウィーク等には駐車場までの大渋滞が予想されます。以前も大変でした。ハイシーズンに来られる方はネットで調べるか、観光協会で情報を仕入れた方が良いです。
連絡船が着いていた浦の浜です。今では遊覧船が発着するだけ。正面から右側にはお店や民家が建ち並んでいましたが、全て大津波にやられ...。正面は盛土され観光施設ウエルカムターミナルがオープンしました。右側はまだ工事中です。
大島は簡単に言えば北部は亀山とその麓で成り立っていて、ここ浦の浜から南(右)側は緩やかな丘陵地帯です。その両者が接する浦の浜は、向こう側、つまり前の朝ドラ「おかえりモネ」にもたまに出ていた砂浜に鉄の廃船が打ち上げられていた田中浜と共に大島の「くびれ」を形作っていて、東日本大震災による大津波が、外洋(奥)からその「くびれ」を乗り越えてきた...と地元の方から聞きました。
ところで手前ですが、尾崎漁港の防波堤に繋がれた遊漁船です。マイカーならぬマイ釣り船の駐車場(係留)です。勿論有料。知り合いは釣った魚を活魚店に売ったり、魚市場へ水揚げしたり...と。好きな方は当地にセカンドハウスを入手しては。手の良い空き家がありますよ(^_^)v
広い範囲での右隣です。凡そ南向き。真ん中が尾崎神社。右手が先程の防災築山ですが、微妙に防潮堤より低いですね。このままでは公園の単なる見晴台かと。その四阿の向こうに、岩井崎が見えます。
防潮堤左に見える白いテントや小さな建物は、倉庫や作業場か。どこでも牡蛎は浜の小屋で剥いて出荷していますしね。どこかじゃ若布を煮るのは浜の露天でやっていましたが、いつか接近したいです(^_^;)
その向こうの陸地は大島の南部。沿岸の一部には岩壁もありますが、総じて緩い丘陵地帯です。
防潮堤を乗り越える市道端からの撮影です。
ちょっと位置をずらしての岩井崎方向です。逆光で写りは悪いですが、右側の陸から東に向かって伸びる岬です。手前左は公園の防災築山。
写りが悪いので、確認の為コントラストを上げて見ました。岩井崎の先端ですが、手前真ん中に有る照明灯のほぼ真上に灯台が見えます。周囲に有る黒松とは違って直線状に立っているやつです。その右側に見える白い建物は、被災してこの地へ移った県の水産試験場です。更に拡大で右へ(^_^;)
岩井崎の付け根、階上地区波路上地内に建つ建物群が見えます。左は冷凍倉庫かと。中央右、窓が見える建物は旧・県立向洋高校で今は震災遺構として公開されています。上の窓は4階。ここまで大津波がやってきました。
広い範囲での右隣です。あの震災前、民家が密集していましたのに、今は....。
左の防潮堤は岩月、最知等を経て岩井崎へ。グラウンドの向こうに見える丘は岩月。その辺りから右へ緩く昇っているのは今は亡き鉄路・JR気仙沼線が変わり果てたBRTというバス専用線。面瀬川を渡るので右側が高くなっています。手前に市道も併走。
奥に見える山々の向こうは市内本吉町です。
更に広い範囲での右隣です。面瀬川の上流方向です。右端に室根山がまた見えました。やっと一周。お疲れ様です。でも、もう少し(^_^;) 室根山左下には県道の上を走る三陸道の跨道橋も見えます。
中央、黄色いイチョウと思われる木が有る丘には古谷舘八幡神社が有ります。これは上のコマで紹介すべきだったかも知れませんが、左端の建物群は主に烏賊の塩辛等を作っている工場。
では、拡大です。左が塩辛等の工場群。奥の中央から左に走っているのは三陸道。右は面瀬川に掛かる、アーチが有るBRTの橋と、手前のガードレール(柵?)だけの橋は市道のもの。アーチに重なる建物は冷凍倉庫。
奥の山は左の三角山が愛宕山621m。ほぼ中央の三角山が徳仙丈山710m。初夏は山頂がヤマツツジで真っ赤になります。光の具合で午前中の早い頃が見頃。覚えていてください(^_^;) 右端は市民の森で約600m。
古谷館八幡神社付近の拡大です。黄色い木はやはりイチョウのようですね。いい色です。震災時、この神社は大丈夫でしたが、向かって左下、ファミマの向かいに有った県道沿いに有った知り合いの家はすっかりと...(>_<)
室根山と八幡神社の間に有る三陸道の跨道橋です。下にセブンイレブンが見えるので、市民が一般的に言う「旧道」はセブンの左側。旧(^_^;)バイパスはセブンの直ぐ右手なのですが、手前に隠れて見えません。セブンの手前に見える黒っぽい構築物はBRT松岩駅の待合です。
左上の長い建物は松岩小学校。新築する家の南進化で一時はマンモス小学校でしたが、面瀬地区に小学校が出来た時点でマンモスは解消されました。
多くの方には関係の無いことですが、こうやって見てみたらアマチュア無線局の大きなアンテナを2つ見つけました。1つは細く長く続いている無線仲間ですが、もう1つは?? 大津波で流され、この付近に引っ越したと聞くアマチュア無線の先輩宅でしょうか。調査方々旧交を温めに行きたいですが、コロナがまたまた増えてきて....(>_<)
さて最後に、具体的にどの部分を戴いたのかは書いてありませんでしたが、敬意を表して掲げます。
感謝m(_ _)m
長い旅に(^_^;)お付き合い頂きまして誠にありがとうございます<(_ _)>
説明のし過ぎで、つい行った気になり、この地を素通り....となっては本末転倒(>_<) 以後は気を付けて、謎めく短い解説にしたいと思います。ん、まだ勉強足んねけんとね(^_^;)
あっ、あと1日程度の勉強で2つの試験に取り組むようです(>_<) 大変(T_T)
推敲不足のままでもありますが、先ずは寝っぺ(^_^;)
本編はお終い<(_ _)>
ここは気仙沼市本吉町風の丘。
吹いてきました、吹いてきましたよ(>_<) 14日の夜は大変な季節風で、家は揺れるし、茶の間に風が吹きました(>_<)(^_^;)
ヨコミー家は荒ら家な上に、台所や茶の間、廊下、階段、トイレ、2階ヨコミー奥様・おリュウさんの部屋などは真冬の夜でも戸は開けていて、ヒートショックは無いのです(^_^;)
が、風が吹いた一件は、強風でバタバタしていた台所換気扇から風が入り、茶の間の床暖吹き出し口から風が抜け、その風はダクトを通って天井裏から2階外壁の排気口か屋根の先に有る空気取り入れ口から出ていったのでは...と考えます。まあ、逆流の類い(^_^;)
換気扇の外側って見たことが有りますか? 「ロスナイ」は別として、重厚な蓋は見たことが有りません(^_^;) 薄いブリキかアルミのような金属の板が、ファンの回転で開いたり閉じたりしている物が多いかと。うーん、安い物件しか見たことが無い為かなぁ(^_^;)
16日未明に南太平洋トンガ沖の海底火山からやってきた津波は、四国などでは小舟が転覆や沈没したようですが、気仙沼は大丈夫だったようです。船を持っている遊び人爺の船も(^_^;) 地元紙に寄れば養殖施設の被害も限定的だったようです。機会があれば後日のネタとします。
昨年11月の、限りなく皆既に近い月食を撮影しようと、直前に東側が特に開けた場所を探していました。その折、市内面瀬地区の松崎尾崎防災公園を始めて訪れましたので、紹介します。
元々面瀬地区は松岩地区南部と更に南に在る階上地区の北部とが近年新興住宅地として人口が増えた為、ひとつの地区として独立したものです。凡そ、地域西側の山から東の気仙沼湾へ流れる面瀬川の流域です。
その面瀬川河口の南側には、字名が松崎尾崎という土地に100戸程の集落が発達していました。一帯は尾崎神社が建っている土地を除き全て低地で、民家等は東日本大震災よる大津波で全滅でした。
その地域には新規に建物を建てて住むことは出来ず、全住民が移転し、自治会は解散せざるを得ませんでした。
浸水地となった住めない民地は買い上げられ、大津波から10年過ぎた昨年、防災公園として生まれ変わりました。
(各写真はクリックすると大きくなります。大きくなるだけ。綺麗には成りません(^_^;)
青空が綺麗な11月15日の撮影。四阿が建っているのは公園内にある防災築山です。白いのは防潮堤。その向こうに小さな尾崎漁港が在り、関係者や釣り人、公園で遊んでいる人などが津波が来た時に避難してもらおうという施設。右奥の山は気仙沼湾に浮かぶ大島の亀山です。
防災築山から1枚上の写真を撮影した場所辺りをパチリ。平日のお昼直前、住宅地からは外れた所なので、ヨコミー以外には3人だけか(^_^;) 最寄りの民家からは徒歩で来られなくもないですが、ウォーキングを楽しむのでなければ車利用でしょうか、そんな距離。
グーグルマップからお借りしました。真ん中辺りが公園です。ところで不思議。セブンイレブンが何軒か表示されていますが、ファミリーマートが気仙沼中央インターと松岩漁港マークとの中間、県道沿いで営業しているのですが、示されません。こんなこともあるのですね。株主とか広告を出しているとか!??
400年も続いた集落が無くなってしまい、自治会も消えたことを伝える表示板も公園にありました。近年では明治三陸大津波、昭和三陸大津波、そして昭和35年のチリ地震津波をも乗り越えた集落でしたのに....。
防災築山にある四阿です。椅子は有り難いですが、何故か北風や西風が当たりやすい向き。晩秋から冬、そして春先までは冷たい風が当たりそう。透明なアクリル板でも欲しいです。または椅子は日当たりが良い向きにして欲しかった。
ところで左側。太陽光発電の防犯灯でしょうか。それはまあ良しとして、東日本大震災による大津波はここまで高くなったよ....と伝える表示です。
ただ、文字を拡大して見て頂きたいのです。「津波浸水深」となっています。水位の上端を表すのに「深さ」でしょうか。ヨコミーは自治会が作った表示板にもある、高さを示す「浸水高」が正しいと思うのですが....。
もう一つ、防潮堤の真ん中辺りから左へ、防潮堤のほんのわずか上に極細い白線が見えることを気付かれましたか? 対岸鹿折地区南海岸の防潮堤です。で、何故こんな高さにカメラを構えたかといえば、前後(視線方向)の水平を出したかったから(^_^;) つまり、こちらとあちらの防潮堤は水平。なのに左で示された津波の高さは、防潮堤より更に「上」です。
そう、あの東日本大震災後に工事が進められて各地で完成しましたが、巨大だと騒がれもした防潮堤は、なんとあの大津波を防ぎきれないのです。これは、より低い大津波、一般的には近々にやってくると言われる宮城県沖地震による津波を防ぐ程度の防潮堤です。あの2011年に来た大津波規模のものには避難対応だと行政は示して、防潮堤建設と共に避難路の整備も進めていました。
と、更に(^_^;) 書き忘れるところでしたが、ここの防災築山は防潮堤よりも低いですね。大津波が来たら高くなる仕掛けでもあるのでしょうか? 大波程度が一度や二度ザブーンと越えて来る分には問題無いのでしょうけれど、防潮堤を越える大津波が来たら、築山のてっぺんは水中となる可能性が大きいです。逃げ遅れた方を救うのは、やはり防潮堤より高い尾崎神社と大きな木でしょうか。
いくら低めの大津波に対応する防潮堤だとしても、内側の低地にはそれに勝る津波避難タワーや築山を設けたいものですね(^_^)v
防災築山の南には、小山の上に立つ尾崎神社が在ります。中央やや下から右に来る道は下から四阿まで登る為のもので、築山の途中。地盤は見掛け上赤いそりの奥に見える道。そんな高さ。
カメラの目線は上のコマと同じで、そうしてみれば尾崎神社の境内が辛うじて大津波の上になっていたようです。1mも無いことが分かります。
小さな尾崎神社の社です。少し拡大しました。
上のコマで、赤いそりの向こうに見えたのが下側の道です。この道も多少の盛土が有ったのかも知れません。向こう側には古い防潮堤が有り、押し寄せた海水が滞留していたと思われますが、10年経ってこんなに緑です。因みに、風の丘近くに在る杉林の下は浸水地でしたが、下側の杉は間もなく立ち枯れました。
では、周囲を紹介したくて、先ずは説明看板から。これは北向きに立てられているので北が下となります。図の作りが悪く、避難経路図にある漁港が公園の図には無く、河口近くの防潮堤に市道が走っているのですが、それも描いてありません。以下の写真は防災築山の北で、川の堤防または漁港の防潮堤を市道が乗り越える辺りからの撮影です。
最初はこんな所。公園北側を東に流れる面瀬川の河口。川幅が急に広くなっているので、海? でも右奥の片浜(かたはま)漁港(行政のくくりでは尾崎漁港も片浜漁港も松岩漁港となっています)の海岸線をこちらに延ばせばまだ「川」かな? 勉強不足(^_^;) おっ、勉強不足と言えば学んでいる放送大学の期末試験は近々(>_<) ブログを早く終え、勉強しなくっちゃ(>_<)(T_T)
凡そ北北西向き。中央やや右上、一段高くなった所は煙雲館(えんうんかん)。
左奥の山は岩手県、今は一関市となった旧・室根村の室根山895m。
右端、工事中の防潮堤も後で拡大します。
その室根山の拡大です。近隣では最高峰で、以前は東麓に小さなスキー場もありました。台形ですが、山頂は右側。左端にテレビ塔の中継所が林立していますが、2つ白く見える点の内、左はレストハウスも兼ねる室根山天文台です。
中央を左右に走るのは三陸道。左端、丘の上に見える大きな窓を持つ建物は松岩公民館。
中央が伊達家に使えた鮎貝家で、建物は近年の物ですが、西側のお庭が素敵だと市内では有名で、コロナが収まったらまた行きたいです。また、歌人で国文学者・落合直文の生家でもあります。ウィキペディアによれば、直文は備後広島藩三原城主浅野家の家臣・落合尚志の養子となりました。
工事中の防潮堤を拡大しました。断面が分かります。手前は片浜漁港ですが、30?年程前までは、ここから大島南部と結ぶ航路が有り、朝夕を中心に利便が図られていました。しかし利用が減り、連絡船は無くなりました。
広い範囲での右隣です。中央から左は片浜漁港。左端は1コマ上の防潮堤工事拡大箇所。その右上に見える白いトゲは後で拡大します。
海の奥に見える山々は、あの300tもの船が打ち上げられた鹿折地区の、南南東に連なる山々で、その裏は旧・唐桑町です。右端の山が唐桑町の早馬山です。丁度大島大橋と重なっています。これも拡大予定。中央上、横になっている防波堤の向こう、小高い所に見えるのは鹿折地区に在った浦島小学校付近に出来た、以前もちょっと紹介しました防災集団移転の団地。これも。
「白いトゲ」の拡大です。ワイヤーが見えており、三陸道の気仙沼湾横断橋を支える主塔の1つです。手前は、片浜の北東部沿岸に広がる母体田(もたいだ)の集落です。
中腹に目立つのは無線中継のパラボラアンテナ。その右下に見えるかまぼこ屋根は震災後の児童数減少で廃校となった旧・浦島小学校の屋体。右に校舎が広がります。大津波前までは校舎の下に3軒程の民家でしたが、大津波で家を失った方々の防災集団移転団地が形成されました。ただ、児童数の確保が出来ず、ヨコミーも何度か行った浦島小学校は廃校となりました。
従来の県道は中央から左に掛けての沿岸に在りましたが、今では団地付近を大島に行く県道が走っています。
大島大橋北側の付け根が右側。左は梶が浦集落と鹿折地区最南端となる鶴が浦集落の間に在る高台に出来た防災集団移転の団地。今思えば、本当に岸に近い低い所に多くの方が住んでいました。
広い範囲での、更に右隣です。左手前は尾崎漁港。左下は古い、川の堤防というか土留めでしょうか。
正面は大島。左端近くに旧・唐桑町の早馬山と大島大橋が重なって見えています。島の山は亀山。その右(南)側の裾野が海に接するように見える入り江は浦の浜。これらも後で拡大します。
大島大橋と早馬山219mです。余り詳しくはありませんが、手前の筏は牡蛎や帆立、小さな浮きが並ぶのは若布だと思います。
大島の亀山234mです。山頂近くに見える白く横長の建物は亀山レストハウス。
以前はその下から右下の浦の浜とを結ぶリフトがありましたが、利用は段々と低迷し、大津波の被害もあって廃止となりました。
亀山からの眺望はとても素晴らしいですが、交通が難。レストハウス付近はとても狭く、中腹に市は駐車場を作ってそこから歩いてもらっていました。が不評で、レストハウスまでシャトルバスが出ていました。でも常時ではなく、市は解決策として駐車場からのゴンドラを計画しています。
ただ、ゴールデンウィーク等には駐車場までの大渋滞が予想されます。以前も大変でした。ハイシーズンに来られる方はネットで調べるか、観光協会で情報を仕入れた方が良いです。
連絡船が着いていた浦の浜です。今では遊覧船が発着するだけ。正面から右側にはお店や民家が建ち並んでいましたが、全て大津波にやられ...。正面は盛土され観光施設ウエルカムターミナルがオープンしました。右側はまだ工事中です。
大島は簡単に言えば北部は亀山とその麓で成り立っていて、ここ浦の浜から南(右)側は緩やかな丘陵地帯です。その両者が接する浦の浜は、向こう側、つまり前の朝ドラ「おかえりモネ」にもたまに出ていた砂浜に鉄の廃船が打ち上げられていた田中浜と共に大島の「くびれ」を形作っていて、東日本大震災による大津波が、外洋(奥)からその「くびれ」を乗り越えてきた...と地元の方から聞きました。
ところで手前ですが、尾崎漁港の防波堤に繋がれた遊漁船です。マイカーならぬマイ釣り船の駐車場(係留)です。勿論有料。知り合いは釣った魚を活魚店に売ったり、魚市場へ水揚げしたり...と。好きな方は当地にセカンドハウスを入手しては。手の良い空き家がありますよ(^_^)v
広い範囲での右隣です。凡そ南向き。真ん中が尾崎神社。右手が先程の防災築山ですが、微妙に防潮堤より低いですね。このままでは公園の単なる見晴台かと。その四阿の向こうに、岩井崎が見えます。
防潮堤左に見える白いテントや小さな建物は、倉庫や作業場か。どこでも牡蛎は浜の小屋で剥いて出荷していますしね。どこかじゃ若布を煮るのは浜の露天でやっていましたが、いつか接近したいです(^_^;)
その向こうの陸地は大島の南部。沿岸の一部には岩壁もありますが、総じて緩い丘陵地帯です。
防潮堤を乗り越える市道端からの撮影です。
ちょっと位置をずらしての岩井崎方向です。逆光で写りは悪いですが、右側の陸から東に向かって伸びる岬です。手前左は公園の防災築山。
写りが悪いので、確認の為コントラストを上げて見ました。岩井崎の先端ですが、手前真ん中に有る照明灯のほぼ真上に灯台が見えます。周囲に有る黒松とは違って直線状に立っているやつです。その右側に見える白い建物は、被災してこの地へ移った県の水産試験場です。更に拡大で右へ(^_^;)
岩井崎の付け根、階上地区波路上地内に建つ建物群が見えます。左は冷凍倉庫かと。中央右、窓が見える建物は旧・県立向洋高校で今は震災遺構として公開されています。上の窓は4階。ここまで大津波がやってきました。
広い範囲での右隣です。あの震災前、民家が密集していましたのに、今は....。
左の防潮堤は岩月、最知等を経て岩井崎へ。グラウンドの向こうに見える丘は岩月。その辺りから右へ緩く昇っているのは今は亡き鉄路・JR気仙沼線が変わり果てたBRTというバス専用線。面瀬川を渡るので右側が高くなっています。手前に市道も併走。
奥に見える山々の向こうは市内本吉町です。
更に広い範囲での右隣です。面瀬川の上流方向です。右端に室根山がまた見えました。やっと一周。お疲れ様です。でも、もう少し(^_^;) 室根山左下には県道の上を走る三陸道の跨道橋も見えます。
中央、黄色いイチョウと思われる木が有る丘には古谷舘八幡神社が有ります。これは上のコマで紹介すべきだったかも知れませんが、左端の建物群は主に烏賊の塩辛等を作っている工場。
では、拡大です。左が塩辛等の工場群。奥の中央から左に走っているのは三陸道。右は面瀬川に掛かる、アーチが有るBRTの橋と、手前のガードレール(柵?)だけの橋は市道のもの。アーチに重なる建物は冷凍倉庫。
奥の山は左の三角山が愛宕山621m。ほぼ中央の三角山が徳仙丈山710m。初夏は山頂がヤマツツジで真っ赤になります。光の具合で午前中の早い頃が見頃。覚えていてください(^_^;) 右端は市民の森で約600m。
古谷館八幡神社付近の拡大です。黄色い木はやはりイチョウのようですね。いい色です。震災時、この神社は大丈夫でしたが、向かって左下、ファミマの向かいに有った県道沿いに有った知り合いの家はすっかりと...(>_<)
室根山と八幡神社の間に有る三陸道の跨道橋です。下にセブンイレブンが見えるので、市民が一般的に言う「旧道」はセブンの左側。旧(^_^;)バイパスはセブンの直ぐ右手なのですが、手前に隠れて見えません。セブンの手前に見える黒っぽい構築物はBRT松岩駅の待合です。
左上の長い建物は松岩小学校。新築する家の南進化で一時はマンモス小学校でしたが、面瀬地区に小学校が出来た時点でマンモスは解消されました。
多くの方には関係の無いことですが、こうやって見てみたらアマチュア無線局の大きなアンテナを2つ見つけました。1つは細く長く続いている無線仲間ですが、もう1つは?? 大津波で流され、この付近に引っ越したと聞くアマチュア無線の先輩宅でしょうか。調査方々旧交を温めに行きたいですが、コロナがまたまた増えてきて....(>_<)
さて最後に、具体的にどの部分を戴いたのかは書いてありませんでしたが、敬意を表して掲げます。
感謝m(_ _)m
長い旅に(^_^;)お付き合い頂きまして誠にありがとうございます<(_ _)>
説明のし過ぎで、つい行った気になり、この地を素通り....となっては本末転倒(>_<) 以後は気を付けて、謎めく短い解説にしたいと思います。ん、まだ勉強足んねけんとね(^_^;)
あっ、あと1日程度の勉強で2つの試験に取り組むようです(>_<) 大変(T_T)
推敲不足のままでもありますが、先ずは寝っぺ(^_^;)
本編はお終い<(_ _)>
気仙沼湾横断橋展望スポット 気仙沼の今 20211007 [東日本大震災]
こんにちは、ヨコミーです。
ここは気仙沼市本吉町風の丘。
最近ようやく天候が落ち着き、割と晴れるようになりました。ただ先日、ヨコミー奥様のおリュウさんに逃げられ、台所に立って昼食を作っていたとき、ザァーッと雨の音。至急洗濯物を取り入れたかったのですが鍋の都合も有り、外に出るのがちょっと遅れたら、道路はすっかりと雨水が溜まっていました(>_<)
天気予報では寒くなる寒くなると繰り返して言っていましたが、それほどまだ寒くは無いです。今朝はアメダスに拠れば気温は3℃台でしたが昼間は気温が上がり14℃を超えました。昨日は最高気温が13℃ギリギリでしたが朝が寒くなかった為か、それほど外の寒さは感じませんでした。ただ昨日栗駒山の須川温泉に行った方は雪が積もっていたと話していました。そろそろ山道は冬タイヤが必要です。
さて、今回は写真が多いです。若干重複している所もありますが、サラッとお進み願いますm(_ _)m
いつもの事ながら、写真をクリックすると大きくなります。
こんな感じの橋を見てきました。手前の大きな橋は今年3月に開通した高速の三陸道気仙沼湾横断橋。
左奥が2019年春開通の、離島・大島を本土と結ぶ県道の大島大橋。橋の右側が大島側。
車を駐めたのはここ。正面は防潮堤。その防潮堤に階段があります。気仙沼市鹿折(ししおり)地区(旧・鹿折町)の字名は大浦という所です。
ところで、ヨコミー奥様・おリュウさんの車が変わりました。赤系ですが、ちょっと暗めに。ガソリン代高騰、太陽光発電売渡し単価の超低価格、災害時への備えという理由で、本当はプラグインハイブリッドにしたかったのですが、手が届きやすいプリウスは屋根が低くて乗り降り時に頭が当たって大変(>_<) 座高の高いヨコミーは禿げになりそう(^_^;) で、仕方なくプラモのような電池自動車(>_<) 太陽光や夜間電力で充電し、貯めた電気を家庭に吐き出す充電機械も頼んだのですが、なんと国の補助金申請が決定まで5ヶ月も要するということで決定待ち(>_<) この時代に5ヶ月なんて、行政相談モノですよね(^_^;) 車の記事は後日に出来れば...。
ということで階段へ進みます。横断橋の展望スポット入り口と書いてあります。夜間照明も有るみたい。
防潮堤に登って右側をぱちり。右の砕石敷が駐車場。真ん中辺りを左右に通っているのが県道大島線が出来る前の旧道。旧道は大島に通じていなかったので何線と言っていたか不詳(>_<) 新しい県道はこの山手に出来ました。中央に見える黄土色の倉庫。その少し左、そしてちょっとだけ上に少しの区間が見えています。
カメラは更に左へ。右から1/3の辺りが北です。ずーっと奥に見える建物群が、東日本大震災の大津波で300tもの船が打ち上げられた鹿折地区です。鹿折地区も壊滅的な被害を受け、多くの方が亡くなりました。
以降、ほぼこんな範囲の写真を「広い範囲」とか「広い写真」と称します。広い写真を左回りに撮ってブログ上は縦に並べ、そして各写真の一部拡大をその間に置きます。そんなパターンです。
写真中央上に何やら鵜かんでいます(^_^;)
海鵜のようです。でも、このホースって海水を吸うやつかなぁ...。調査不足(>_<)
鹿折地区のちょっと拡大です。あっ、左1/4位は気仙沼地区(旧・気仙沼町)。でも左端に見える廃業したホテルの経営者は鹿折の方で、私的にはここまで(^_^;) そのホテルの右上に見える白い針が復興祈念公園。目印です。
で、もう一つ。右奥の山です。すっとした独立峰が素敵な高判形山(たかはんぎょうさん。432m)。鹿折地区の上手に在り、岩手県盛岡市の北東にそびえる姫神山にその姿が似ていて美しいです。
鹿折地区の街並みをもっと拡大。真ん中から右に伸びている護岸は鹿折川の堤防。河口です。
手前の建物群は再建された水産加工場。その背後に、頭が揃った何棟かの災害公営住宅が建ち並んでいます。
こんな姿を見ると、「復興しましたねぇ...」と言う方が居ますが、水平方向から見ているので、空き地の多さは見えません。あの、新規に家を建てられない程に建て込んでいた以前の姿はどこにもありません。住宅が集約されたとしても、地区の人口をみれば人の戻りはまだまだ足りないです。
真ん中は広い写真の左端に見えていた、今は廃業したホテル望洋です。ちょっと休んでいた時期もありましたが、震災後までやっていたのですが...。以前に掲載した内湾からの記事では右後ろ側がちょっとだけ写っていましたが、今回は前から。右側のちょっと低い所がバンケットで、忘年会で飲み、二次会へ行く前に下の大浴場へ飛び込む強者もいました(^_^;)
ホテル右上がトゲというか針状(^_^;) 震災復興祈念公園です。こういう施設は丘の狭い所に作るんじゃなく、市が買い上げた浸水地の中で、まだ沢山残っている未利用地を使って欲しかった。広い駐車場も出来るでしょうに...(>_<)
左端に近いとんがり屋根は結婚式場。内湾を見下ろす良い所にあります。その下、海に浮かぶような森には、五十鈴神社が有ります。過日の内湾からの記事にも載っている「お神明さん」。左下角に浮御堂が有り(小さい(>_<)、赤い橋を歩いてホテル望洋の下側へ行けます。ちょっとした公園になっていて、四阿やトイレが有ります。海の上を歩いてみませんか(^_^)v
カメラは広い範囲で左隣へ。右端に先程の結婚式場、右上の山は安波山(あんばやま、あんばさん)、山頂左下の白い色の建物は気仙沼プラザホテル、真ん中付近の海沿いから左へ続くのが気仙沼魚市場。真ん中の薄茶色の建物はホテル観洋。
写真の映りが悪くてすみませんm(_ _)m ヨコミーの技量以上にお天気が悪くて...(>_<)(^_^;)
拡大したプラザホテルと安波山方面です。ホテルの右端に見える白いとんがりは、以前はホテルの結婚式場でしたが、最近はお呼ばれや忘年会が無いので不詳(^_^;)
山頂直下の沢は昔歓楽街で栄えた太田(おおた)。ここに気仙沼の酒蔵の一つである両国ブランドの酒蔵が有ります。ただ、先程紹介した高判形山麓の廃校となった白山小学校を利用して酒蔵が整備され、稼働したと地元紙に載っていましたので、すっかり移転したのか並行して作るのかは不詳(>_<)
そして拡大のまま左へ。
左端がホテル観洋です。その下が魚市場で右側が北東端。ここから裏側に60°程折れ、北桟橋となっています。屋上の三角屋根は四阿。左側の屋上は駐車場になっています。中央の白い建物は魚市場の塔屋?で、下に震災前は魚市場を運営する漁協の出先事務所などが入って居ました。震災で内湾に有った漁協の建物は被災し、後に魚市場の中にすっかりと入ったので、白い建物の中がどうなっているかは不詳。震災前はオンバの義理息子さんや父が世話になった方の息子さん、ヨコミー同級生の旦那さんも居たのですが、もう10年以上も経ち、顔見知りは居ないかも...(>_<)
拡大分で更に左。市の図書館やNTT方面です。気仙沼小学校は木立の中からちょっとだけ。中学校の建物も右肩部分がちょっとだけ見えます(^_^;)
改修中に被災し、完成まで更に時間が掛かった魚市場の真ん中辺り。クッキングスタジオも整備されましたが最近またPRしているので、利用が少ないのかも知れません。いろんな仕掛けが要りますね。
魚市場岸壁の長さでは同じ県内の石巻魚市場に負けているようですが、それでも結構長く、構図を斜めにしてやっと1コマに収まりました(^_^;) 横幅はフルハイビジョンの倍にしています。すみませんが横にスクロールしてお楽しみ願いますm(_ _)m
広い範囲で更に左をパチリ。魚市場の南側です。凡そ潮見町方面かと。では、拡大に(^_^)v
上の写真で右から1/4辺りの所を拡大しました。老朽化で立て替えられた市立病院などが見えます。そして左上の山のてっぺん(平ですが)には牧沢の災害公営住宅が見えます。閉校した気仙沼西高の天文台より高い所。
今日、小話の様なことを聞いてきました。ここに住む人が冬、雪が降ってきたので十分な身支度をして麓に下りてきたら、なんと晴れていた....という笑えない話(>_<) 西高が建つずーっと前のことですが、その東側斜面にはその昔牧沢市営住宅というのが出来、当時は結構山手だなぁ...と思って居ましたが、それが引き金になったか人口増で開発が進み、今では結構な団地となりました。支援学校、特養、高校までも出来ました。でも、やはり山手の気候。この災害公営住宅は更に高い山の上に出来ました。
気仙沼は確かに平地は少ないです。平地は既に建物が建ち並んでいたり農耕地。といってもあの山より低い所にも森はあったはず。有ります。山の上の災害公営住宅は航空写真で見て頂ければ分かりますが、3つに分かれています。余所の災害公営住宅や防災集団移転の団地を見れば、もっと小規模の団地がありますので「コストが高いから...」とは言わせません。地権者と金額が折り合わなかったのか、それとも公有地?を求めていた為なのかは知りませんが、残念な結果です。知る限りでは山に近い、一番標高が高い団地だと思います。気軽に街へ自転車で出掛けても、電動自転車じゃなければ帰れないかも(>_<) 折り畳んでバスで帰宅? ヨコミーのような変人なら高い所を好みますが、一般の方、特に高齢者には辛かろうと(>_<)
東南海地震等で津波の恐れがある地域にお住まいの方々は、行政がどのように対応する計画を持っているのか至急確認し、不都合があれば修正して頂きましょう。もし計画等が無い場合は行政のお尻を叩き、万が一のときでも後悔しないようなまちづくりが出来るよう、意見を反映して頂きましょう(^_^)v
あっ、長くなりました(>_<)
海上保安庁の船です。この辺だけなので大きな船ではありません。
広い範囲で左隣をパチリ。三陸道の気仙沼湾横断橋が見えてきました。朝日町付近です。海面の上にちょっと汚れたコンクリートの防潮堤が見えます。
左に見える橋脚の左下奥にクレーンが有ります。これは鹿折東海岸に有った造船各社が合併して移転した会社のものです。おかげで市内造船業のほとんどを占めていた会社の多くが鹿折から居なくなりました(>_<)
ここの土地の多くはこの海を浚渫したときの土砂を埋め立てたと聞きます。ヨコミーが若い頃、皆さんはここを「ナンベー」と呼んでいました。南米?南辺?からの言葉でしょうか、詳細は不詳です。
写真真ん中、オレンジ色のクレーンが重なっている建物は国の合同庁舎です。大津波で被災したのですが、右隣に有った県の合同庁舎と違って、改修して使っています。その改修でフロアが減ったのか、震災前は1階に有ったハローワークが気仙沼駅南西側の新興地域に、2階に有った法務局は市民会館下に有るNTTビル1階に移転しました。あの大津波がまたやってきたら、法務局は床上浸水するかも知れませんが(>_<)
ところでご存じでしたか? 震災後に出来た大きな防潮堤は、あの大津波対応じゃないことを(>_<) 地元の日門海岸防潮堤説明会で県の方が話していましたが、整備する(した)防潮堤はより低い宮城県沖地震で発生すると想定されている程度の津波に対応しているようです。お時間がある方はL1(エルワン)防潮堤、L2(エルツー)防潮堤を調べてみてください。出来ることなら、本当は嫌いですが、田中角栄を呼んで来たいです(>_<)
広い範囲で更に左隣です。横断橋に近いので1枚の写真に橋が収まりません(^_^;) 右奥てっぺんに雲が掛かっているのは大島の亀山。小さな橋が大島大橋です。何度も言いますが、大島大橋は震災で作って頂いた橋ではなく、もう何十年も前から地元が要望していた橋です。
大島大橋の拡大です。朝ドラにもこんな姿が映し出されていました。亀山は画面の左外。雲?霧?の中。左上の平らな部分は小亀山といって、その昔は桜の名所でしたが後に病気で....(>_<)
今の朝ドラ「おかえりモネ」を見ている方はご存じでしょうけれど、ちょっとした嵐や濃霧で連絡船が欠航し、特に救急が大変でした。また通勤通学にも影響し、夕方欠航した場合は本土の宿に泊まった方も居たようです(>_<)
そんな不便に思いも馳せずに、勝手な解釈で「橋は震災復興で作ってもらったのに利用が少なくて勿体ない。けしからん」的に思っているお人も居るようで、全く残念でたまりません(>_<) 利用が少ないなら何曜日の何時の撮影か、季節はいつか等々、上っ面の1場面だけじゃなく、その裏側というか真実はどこに有るのか、気にして欲しいです(^_^)v
奥に見えるのが小々汐(こごしお)の入り江。その上にちょっとだけ新しい県道が見えます。大島へ行く道です。昨年春、その道から完成間近の横断橋を撮った写真が過去記事に有ります。
この地域は尾形一族の地といっても過言ではなく、旧網元の大家(おおいえ)と呼ばれるお宅が取り仕切っていました。このお宅はとても凄い古民家で、大津波でだいぶ傷んだものの、千葉?かの古民家を集めた施設に移築されたようです。
広い範囲で更に左へ。この地は蜂ヶ崎と言います。あの大津波が乗り越えたとも聞きます。右1/3辺りに道が見えるのは旧・県道。先程車を置いた駐車場の奥に見えた道がこの鉄塔が立っている丘の直ぐ向こうを通り、右手に続いています。
ところでこの鉄塔は対岸の朝日町から鹿折へ湾を横断する高圧線の鉄塔です。この辺りは対岸がより近いのです。
説明板が有りました。地図も載っているのでブログの先に載せようかとも思いましたが、皆様方の想像力に期待し、展望スポットの奥にも有るので最後としました。悪しからずm(_ _)m
今後は見える風景の写真付き説明板も欲しいですね(^_^)v
日本は災害が多い国のようです。自分の住む地域にどのような危険性が有り、過去にはどのような災害が有ったか....を学ぶことは大切です。それらをこれからのまちづくりに活かし、減災に役立てて頂ければと思います。各地の災害を学び、こんな災害が起こりやすいから万が一の場合の対策は....等々自治会等で話し合い、それを行政にぶつけ、一緒に対策等を考えて欲しいです。
おしまいm(_ _)m
ここは気仙沼市本吉町風の丘。
最近ようやく天候が落ち着き、割と晴れるようになりました。ただ先日、ヨコミー奥様のおリュウさんに逃げられ、台所に立って昼食を作っていたとき、ザァーッと雨の音。至急洗濯物を取り入れたかったのですが鍋の都合も有り、外に出るのがちょっと遅れたら、道路はすっかりと雨水が溜まっていました(>_<)
天気予報では寒くなる寒くなると繰り返して言っていましたが、それほどまだ寒くは無いです。今朝はアメダスに拠れば気温は3℃台でしたが昼間は気温が上がり14℃を超えました。昨日は最高気温が13℃ギリギリでしたが朝が寒くなかった為か、それほど外の寒さは感じませんでした。ただ昨日栗駒山の須川温泉に行った方は雪が積もっていたと話していました。そろそろ山道は冬タイヤが必要です。
さて、今回は写真が多いです。若干重複している所もありますが、サラッとお進み願いますm(_ _)m
いつもの事ながら、写真をクリックすると大きくなります。
こんな感じの橋を見てきました。手前の大きな橋は今年3月に開通した高速の三陸道気仙沼湾横断橋。
左奥が2019年春開通の、離島・大島を本土と結ぶ県道の大島大橋。橋の右側が大島側。
車を駐めたのはここ。正面は防潮堤。その防潮堤に階段があります。気仙沼市鹿折(ししおり)地区(旧・鹿折町)の字名は大浦という所です。
ところで、ヨコミー奥様・おリュウさんの車が変わりました。赤系ですが、ちょっと暗めに。ガソリン代高騰、太陽光発電売渡し単価の超低価格、災害時への備えという理由で、本当はプラグインハイブリッドにしたかったのですが、手が届きやすいプリウスは屋根が低くて乗り降り時に頭が当たって大変(>_<) 座高の高いヨコミーは禿げになりそう(^_^;) で、仕方なくプラモのような電池自動車(>_<) 太陽光や夜間電力で充電し、貯めた電気を家庭に吐き出す充電機械も頼んだのですが、なんと国の補助金申請が決定まで5ヶ月も要するということで決定待ち(>_<) この時代に5ヶ月なんて、行政相談モノですよね(^_^;) 車の記事は後日に出来れば...。
ということで階段へ進みます。横断橋の展望スポット入り口と書いてあります。夜間照明も有るみたい。
防潮堤に登って右側をぱちり。右の砕石敷が駐車場。真ん中辺りを左右に通っているのが県道大島線が出来る前の旧道。旧道は大島に通じていなかったので何線と言っていたか不詳(>_<) 新しい県道はこの山手に出来ました。中央に見える黄土色の倉庫。その少し左、そしてちょっとだけ上に少しの区間が見えています。
カメラは更に左へ。右から1/3の辺りが北です。ずーっと奥に見える建物群が、東日本大震災の大津波で300tもの船が打ち上げられた鹿折地区です。鹿折地区も壊滅的な被害を受け、多くの方が亡くなりました。
以降、ほぼこんな範囲の写真を「広い範囲」とか「広い写真」と称します。広い写真を左回りに撮ってブログ上は縦に並べ、そして各写真の一部拡大をその間に置きます。そんなパターンです。
写真中央上に何やら鵜かんでいます(^_^;)
海鵜のようです。でも、このホースって海水を吸うやつかなぁ...。調査不足(>_<)
鹿折地区のちょっと拡大です。あっ、左1/4位は気仙沼地区(旧・気仙沼町)。でも左端に見える廃業したホテルの経営者は鹿折の方で、私的にはここまで(^_^;) そのホテルの右上に見える白い針が復興祈念公園。目印です。
で、もう一つ。右奥の山です。すっとした独立峰が素敵な高判形山(たかはんぎょうさん。432m)。鹿折地区の上手に在り、岩手県盛岡市の北東にそびえる姫神山にその姿が似ていて美しいです。
鹿折地区の街並みをもっと拡大。真ん中から右に伸びている護岸は鹿折川の堤防。河口です。
手前の建物群は再建された水産加工場。その背後に、頭が揃った何棟かの災害公営住宅が建ち並んでいます。
こんな姿を見ると、「復興しましたねぇ...」と言う方が居ますが、水平方向から見ているので、空き地の多さは見えません。あの、新規に家を建てられない程に建て込んでいた以前の姿はどこにもありません。住宅が集約されたとしても、地区の人口をみれば人の戻りはまだまだ足りないです。
真ん中は広い写真の左端に見えていた、今は廃業したホテル望洋です。ちょっと休んでいた時期もありましたが、震災後までやっていたのですが...。以前に掲載した内湾からの記事では右後ろ側がちょっとだけ写っていましたが、今回は前から。右側のちょっと低い所がバンケットで、忘年会で飲み、二次会へ行く前に下の大浴場へ飛び込む強者もいました(^_^;)
ホテル右上がトゲというか針状(^_^;) 震災復興祈念公園です。こういう施設は丘の狭い所に作るんじゃなく、市が買い上げた浸水地の中で、まだ沢山残っている未利用地を使って欲しかった。広い駐車場も出来るでしょうに...(>_<)
左端に近いとんがり屋根は結婚式場。内湾を見下ろす良い所にあります。その下、海に浮かぶような森には、五十鈴神社が有ります。過日の内湾からの記事にも載っている「お神明さん」。左下角に浮御堂が有り(小さい(>_<)、赤い橋を歩いてホテル望洋の下側へ行けます。ちょっとした公園になっていて、四阿やトイレが有ります。海の上を歩いてみませんか(^_^)v
カメラは広い範囲で左隣へ。右端に先程の結婚式場、右上の山は安波山(あんばやま、あんばさん)、山頂左下の白い色の建物は気仙沼プラザホテル、真ん中付近の海沿いから左へ続くのが気仙沼魚市場。真ん中の薄茶色の建物はホテル観洋。
写真の映りが悪くてすみませんm(_ _)m ヨコミーの技量以上にお天気が悪くて...(>_<)(^_^;)
拡大したプラザホテルと安波山方面です。ホテルの右端に見える白いとんがりは、以前はホテルの結婚式場でしたが、最近はお呼ばれや忘年会が無いので不詳(^_^;)
山頂直下の沢は昔歓楽街で栄えた太田(おおた)。ここに気仙沼の酒蔵の一つである両国ブランドの酒蔵が有ります。ただ、先程紹介した高判形山麓の廃校となった白山小学校を利用して酒蔵が整備され、稼働したと地元紙に載っていましたので、すっかり移転したのか並行して作るのかは不詳(>_<)
そして拡大のまま左へ。
左端がホテル観洋です。その下が魚市場で右側が北東端。ここから裏側に60°程折れ、北桟橋となっています。屋上の三角屋根は四阿。左側の屋上は駐車場になっています。中央の白い建物は魚市場の塔屋?で、下に震災前は魚市場を運営する漁協の出先事務所などが入って居ました。震災で内湾に有った漁協の建物は被災し、後に魚市場の中にすっかりと入ったので、白い建物の中がどうなっているかは不詳。震災前はオンバの義理息子さんや父が世話になった方の息子さん、ヨコミー同級生の旦那さんも居たのですが、もう10年以上も経ち、顔見知りは居ないかも...(>_<)
拡大分で更に左。市の図書館やNTT方面です。気仙沼小学校は木立の中からちょっとだけ。中学校の建物も右肩部分がちょっとだけ見えます(^_^;)
改修中に被災し、完成まで更に時間が掛かった魚市場の真ん中辺り。クッキングスタジオも整備されましたが最近またPRしているので、利用が少ないのかも知れません。いろんな仕掛けが要りますね。
魚市場岸壁の長さでは同じ県内の石巻魚市場に負けているようですが、それでも結構長く、構図を斜めにしてやっと1コマに収まりました(^_^;) 横幅はフルハイビジョンの倍にしています。すみませんが横にスクロールしてお楽しみ願いますm(_ _)m
広い範囲で更に左をパチリ。魚市場の南側です。凡そ潮見町方面かと。では、拡大に(^_^)v
上の写真で右から1/4辺りの所を拡大しました。老朽化で立て替えられた市立病院などが見えます。そして左上の山のてっぺん(平ですが)には牧沢の災害公営住宅が見えます。閉校した気仙沼西高の天文台より高い所。
今日、小話の様なことを聞いてきました。ここに住む人が冬、雪が降ってきたので十分な身支度をして麓に下りてきたら、なんと晴れていた....という笑えない話(>_<) 西高が建つずーっと前のことですが、その東側斜面にはその昔牧沢市営住宅というのが出来、当時は結構山手だなぁ...と思って居ましたが、それが引き金になったか人口増で開発が進み、今では結構な団地となりました。支援学校、特養、高校までも出来ました。でも、やはり山手の気候。この災害公営住宅は更に高い山の上に出来ました。
気仙沼は確かに平地は少ないです。平地は既に建物が建ち並んでいたり農耕地。といってもあの山より低い所にも森はあったはず。有ります。山の上の災害公営住宅は航空写真で見て頂ければ分かりますが、3つに分かれています。余所の災害公営住宅や防災集団移転の団地を見れば、もっと小規模の団地がありますので「コストが高いから...」とは言わせません。地権者と金額が折り合わなかったのか、それとも公有地?を求めていた為なのかは知りませんが、残念な結果です。知る限りでは山に近い、一番標高が高い団地だと思います。気軽に街へ自転車で出掛けても、電動自転車じゃなければ帰れないかも(>_<) 折り畳んでバスで帰宅? ヨコミーのような変人なら高い所を好みますが、一般の方、特に高齢者には辛かろうと(>_<)
東南海地震等で津波の恐れがある地域にお住まいの方々は、行政がどのように対応する計画を持っているのか至急確認し、不都合があれば修正して頂きましょう。もし計画等が無い場合は行政のお尻を叩き、万が一のときでも後悔しないようなまちづくりが出来るよう、意見を反映して頂きましょう(^_^)v
あっ、長くなりました(>_<)
海上保安庁の船です。この辺だけなので大きな船ではありません。
広い範囲で左隣をパチリ。三陸道の気仙沼湾横断橋が見えてきました。朝日町付近です。海面の上にちょっと汚れたコンクリートの防潮堤が見えます。
左に見える橋脚の左下奥にクレーンが有ります。これは鹿折東海岸に有った造船各社が合併して移転した会社のものです。おかげで市内造船業のほとんどを占めていた会社の多くが鹿折から居なくなりました(>_<)
ここの土地の多くはこの海を浚渫したときの土砂を埋め立てたと聞きます。ヨコミーが若い頃、皆さんはここを「ナンベー」と呼んでいました。南米?南辺?からの言葉でしょうか、詳細は不詳です。
写真真ん中、オレンジ色のクレーンが重なっている建物は国の合同庁舎です。大津波で被災したのですが、右隣に有った県の合同庁舎と違って、改修して使っています。その改修でフロアが減ったのか、震災前は1階に有ったハローワークが気仙沼駅南西側の新興地域に、2階に有った法務局は市民会館下に有るNTTビル1階に移転しました。あの大津波がまたやってきたら、法務局は床上浸水するかも知れませんが(>_<)
ところでご存じでしたか? 震災後に出来た大きな防潮堤は、あの大津波対応じゃないことを(>_<) 地元の日門海岸防潮堤説明会で県の方が話していましたが、整備する(した)防潮堤はより低い宮城県沖地震で発生すると想定されている程度の津波に対応しているようです。お時間がある方はL1(エルワン)防潮堤、L2(エルツー)防潮堤を調べてみてください。出来ることなら、本当は嫌いですが、田中角栄を呼んで来たいです(>_<)
広い範囲で更に左隣です。横断橋に近いので1枚の写真に橋が収まりません(^_^;) 右奥てっぺんに雲が掛かっているのは大島の亀山。小さな橋が大島大橋です。何度も言いますが、大島大橋は震災で作って頂いた橋ではなく、もう何十年も前から地元が要望していた橋です。
大島大橋の拡大です。朝ドラにもこんな姿が映し出されていました。亀山は画面の左外。雲?霧?の中。左上の平らな部分は小亀山といって、その昔は桜の名所でしたが後に病気で....(>_<)
今の朝ドラ「おかえりモネ」を見ている方はご存じでしょうけれど、ちょっとした嵐や濃霧で連絡船が欠航し、特に救急が大変でした。また通勤通学にも影響し、夕方欠航した場合は本土の宿に泊まった方も居たようです(>_<)
そんな不便に思いも馳せずに、勝手な解釈で「橋は震災復興で作ってもらったのに利用が少なくて勿体ない。けしからん」的に思っているお人も居るようで、全く残念でたまりません(>_<) 利用が少ないなら何曜日の何時の撮影か、季節はいつか等々、上っ面の1場面だけじゃなく、その裏側というか真実はどこに有るのか、気にして欲しいです(^_^)v
奥に見えるのが小々汐(こごしお)の入り江。その上にちょっとだけ新しい県道が見えます。大島へ行く道です。昨年春、その道から完成間近の横断橋を撮った写真が過去記事に有ります。
この地域は尾形一族の地といっても過言ではなく、旧網元の大家(おおいえ)と呼ばれるお宅が取り仕切っていました。このお宅はとても凄い古民家で、大津波でだいぶ傷んだものの、千葉?かの古民家を集めた施設に移築されたようです。
広い範囲で更に左へ。この地は蜂ヶ崎と言います。あの大津波が乗り越えたとも聞きます。右1/3辺りに道が見えるのは旧・県道。先程車を置いた駐車場の奥に見えた道がこの鉄塔が立っている丘の直ぐ向こうを通り、右手に続いています。
ところでこの鉄塔は対岸の朝日町から鹿折へ湾を横断する高圧線の鉄塔です。この辺りは対岸がより近いのです。
説明板が有りました。地図も載っているのでブログの先に載せようかとも思いましたが、皆様方の想像力に期待し、展望スポットの奥にも有るので最後としました。悪しからずm(_ _)m
今後は見える風景の写真付き説明板も欲しいですね(^_^)v
日本は災害が多い国のようです。自分の住む地域にどのような危険性が有り、過去にはどのような災害が有ったか....を学ぶことは大切です。それらをこれからのまちづくりに活かし、減災に役立てて頂ければと思います。各地の災害を学び、こんな災害が起こりやすいから万が一の場合の対策は....等々自治会等で話し合い、それを行政にぶつけ、一緒に対策等を考えて欲しいです。
おしまいm(_ _)m
防潮堤は出来たけど... 内湾前編 気仙沼の今 20210611 [東日本大震災]
こんにちは、ヨコミーです。
ここは気仙沼市本吉町風の丘。
風の丘も異常気象の為か、気仙沼のアメダスを見たら昨日24日までの8月に日照が6時間以上有った日は8日間だけでした。
そして降水量が観測されたのは15日間にも(>_<) これには過日みたく霧に覆われた分は入っていないのでしょうね。水が貯まらない程度は(>_<)
6月11日、所用で市街地の内湾に出掛けた際、早めに終わったので3階のバルコニーに出てパチリ。気仙沼市南町海岸に東日本大震災前は在った市営駐車場の跡地に建てられた施設からです。ここの上には屋根の端が小さく出ていますが、役に立ちそうでもないので「バルコニー」で良いかと。
以前も取り上げた風景で見飽きた方も居るかもしれませんが、一応(^_^;)最近の様子をご覧願います。
建物の内湾側、東南東方向です。まっ、いってみれば内湾の右端(^_^;)、うーん正しくは南側かな...、をパチリ。
中央右上、小高い岩山の上に建つのは気仙沼プラザホテル。画面右側にコンクリートの塀が建てられていますが...(写真は1つ置いて)
位置が分かり易いように、グーグルマップからお借りした地図を置きます。赤丸が撮影地です。
コンクリートの壁付近を拡大しました。防潮堤です。でも中央左側の磯屋水産さんの店などは守られない感じ(>_<) 壁は急に左へ折れる?? 店の前を通る道は、万が一の際、防潮堤に有るゲートで閉じるようです。
カメラは左へ。気仙沼湾の内湾です。震災前なら手前に海上保安庁の船等も係留されていました。
内湾の向こうに、こんもりと木々が茂る所は五十鈴神社が在る半島。
左上の小山は陣山。てっぺんに白いトゲのようなオブジェは市の復興祈念公園。
左は震災前からの汽船発着所。ずーっと以前、連絡船は大島や唐桑半島を結んでいました。しかし20年か30年前に唐桑航路は利用者減で無くなり、大島航路も平成31年春、長年の念願が叶って大島大橋が開通したことによって、廃止(>_<)
ところで、どなたかのブログを見たら大島大橋は復興で整備されたのに利用が少ない...と経過を理解しない残念な書き込みがあり、悲しいです。船でちょっとだけ遊びに来る観光客には素敵な所でしょうけれど、365日離島で暮らす不便。通勤通学買い物は全て連絡船。ちょっとした診療以外は本土へ。嵐は勿論、濃霧でも船は止まり、急患の搬送さえ出来ないことも。なので、長年の陳情による成果であり、完成予定は震災前から宮城県によって示されていました。
五十鈴神社の森を拡大してみました。本殿は木々の中で見えません。右下に朱塗りの欄干を持つ浮御堂が再建されました。ここからの景気も素敵です(^_^)v
拡大です。左から浮御堂、コの字型岸壁、そしてかつて造船地帯だった鹿折の浪板地区。右上の丘は6月30日付けの記事(4月12日撮影)でも載っています。この場所、気仙沼みなとまつりで打ち上げられる花火を見るには最適の場所だと思うのですが、今年の祭はコロナで中止に(>_<) でもそのうち、来年に向けて下調べを....(^_^;)
拡大の続き。木陰から見えるのは、近年廃業したホテル望洋。その昔は望洋館という名前でした。正面には湾奥、右を見れば湾口から太平洋も見える良い所でしたのに、残念(>_<)
手前の坂道や下の県道沿いには多くの建物が建っていたのですが、ご覧の程度(>_<) 坂道途中から右側の家々が大津波の難を逃れたようです。
そういえば暫く前まで、この辺りに薩摩揚げの加工屋さんが在りました。この坂を歩いたり自転車で通る度、美味しい香りが漂っていました。食べたい(^_^;)
陣山と魚町の拡大です。陣山の白い「トゲ」は「祈りの帆(セイル)」を表しているとか。なんで「帆」なのでしょうか。遠目には観音様にも見えます(^_^)v
この場所は、被災した地域を幅広く見渡せる....とのことで選定されたと聞きますが、本当にそうなのでしょうか。5年、10年、20年...と経つ内に木々に囲まれた公園になってしまうのでは...と危惧(>_<)
幅広く見渡せるなら、同じように被災していない土地を買収するなら、先程の浪板に在る丘などがベストだと思うのですよ(^_^)v または、見通しより、市が浸水した土地を買収したものの利用が決まっていない土地が多く有るとか。そんな土地を利用すべきだった....と思うのです(>_<)
左上、薄い緑色の屋根は結婚式場。
魚町の岸壁には、以前は漁船が何艘も係留されていたものですが、漁船漁業を取り巻く環境は厳しくなり....。それでも震災前は多少係留されていましたが、今見ればゼロ! 岸壁の工事がまだ終わらないのでしょうか。それともここには係留出来なくなった!??
カメラは更に左へ。北北西方向、内湾の奥です。中央上の丘に建つ建物から右下に続く一連の建物が魚町一丁目・入沢災害公営住宅です。
左上が安波山(あんばやま、あんばさん。238m)
汽船発着所の浮き桟橋が2つ有りますが、定期船が無くなって遊覧船のみとなった今、2つとは過剰設備だと思います。震災後先に復旧されても県の計画では間もなく橋が開通すると分かっていましたから、費用を抑える工夫があるべきでした(>_<)
では拡大(^_^)v 左上の丘から右下まで段々と連なる建物が魚町一丁目・入沢災害公営住宅です。
丘の上の建物の下やや左に在る3階建ての白い建物は、今では市内唯一となった民間の産婦人科。昔はもっと在りましたが、震災前のずーっと前からぽつりぽつりと廃院(>_<) 少子化そして市内から若い女性が少なくなったのが原因かと。
産婦人科と手前青緑色の重機に挟まれた建物とその左は、元防衛大臣ご実家の老舗旅館。
広い角度で更に西をパチリ。私が撮影しているのは3階のバルコニー。写真下から向こうに延びているのは外通路にもなるバルコニー、ん、向こうはテラスか!? テラス下の、まあ仮に1階部分として、その陸側には店舗があります。店舗の奥がどこまで延びているか、やはりテラスの下は土だけなのか、興味があります(^_^;)
真ん中やや左の2階部分はラヂオ気仙沼のスタジオや事務所が入っています。生放送は屋外にも流れているので、ガラス越しにスタジオを見ている方も居るようです。
その向こうの白い色の屋根は商業施設。その左奥に見える瓦屋根と反対右奥に見える縦長窓の建物等は以下に拡大します。
瓦屋根は角星酒造店と看板にあります。「角星」とは「くにがまえ」の中に大きな「丸」 です。漢字ではなく「感字」かな(^_^;) 屋号を示すマークかと。醸造所は魚町一丁目・入沢災害公営住宅東側の沢・太田に在り、「両国」というブランドで色々なお酒を造っています。
瓦屋根のずーっと奥、山の麓に横長の屋根が見えますが、市役所の第二庁舎です。平成17年に宮城県立気仙沼高等学校(男子校)に統合された宮城県鼎が浦高等学校(女子校。以下「鼎高」)が、終焉を迎えた松岩地区の校舎へ移る前に使っていた校舎です。この鼎高、始まりは気仙沼町立気仙沼実科高等女学校と聞きますが、この建物から始まったのかは不詳(>_<)
因みに市役所本庁舎は画面左端に3階部分のみが見えています。明るくない色の建物。
真ん中が造り酒屋の男山本店です。醸造所は200m程奥の入沢に在り、「男山」というブランドで色々なお酒を造っています。
ちょっと見には鉄筋コンクリート3階建てですが、実は木造で表面がモルタル。なので「木筋コンクリート」と言われるのでしょう。先の大津波で1階2階部分が壊れましたが、各方面からの協力で昨年再建されました。
男山本店手前を拡大。中央は、今ヨコミーが立つ建物の先に有る、津波が来るときに閉めるゲートです。見れば男山本店前にコンクリートの防潮堤が有るのですが、その間の芝生斜面が不思議かも。
以前の新聞によれば、地元の大物が施工者の宮城県に「斜面に腰掛けたい」と要望し、実現したもの。ですが、津波にしてみれば同じ高さで直立する防潮堤より駆け上がり易いと思います。遡上高って聞いたことが有ると思うのですが、傾きが緩ければ人だって津波だって登り易いです(>_<)
10年前の大津波は、内湾では静かに水位が上がっていった....と話す知り合いも居ました。あの大津波は気仙沼湾の奥・300tもの船が打ち上げられた鹿折地区へどどどっと進み、少し手前から左に入った内湾にはその分多少は緩やかに押し寄せたのでしょう。
といっても、当時市役所辺りから撮った動画では建物が壊れる際に立ちのぼったと思われる土煙が見えました。津波が陸に上がってもそんな威力を持っていたということは、岸壁ならばもっと威力は有るかと。水量と速さ。
震災後は大きな被害に遭った鹿折地区沿岸にも大きな防潮堤が整備されています。以前は大量の津波を受け入れてしまった鹿折地区。次に来るだろう大きな津波は、「お見それしゃーした。まっすぐ帰ります」と言って(行って(^_^;)くれるでしょうか。
芝生を貼った防潮堤の前側を拡大です。男山本店前から右側にコンクリートの防潮堤が続いています。真ん中右には車が入れるゲートも。真ん中の広場は、ちょっとしたイベントを開催したり、修学旅行等団体が待つ場所にも使えそうです。
あっ、誰かがこっちを狙っている(>_<)
魚町の岸防潮堤を拡大しました。一段低い海に近い段は岸壁。少し引いて防潮堤が立ち上がっています。上端に柵が有るのは見慣れた光景ですが、柵の下の穴は?? 多分これは、ここ特有の、変わった仕組みを取り入れた防潮堤のためかと。
実はここに高い防潮堤を設置することに、魚町の方からはとても不評で理解を得られない状況でした。「海が見えなくなる」という理由で。確かに長年自宅や会社前からすぐ前の海を眺めて暮らしていたのですから、それはそうなんでしょう。その頃、市内経済界トップと思われる御方からお話を聞く機会があり、「奥様方の反対が強くて...」とおっしゃっていました。本当!??(^_^;)
今回の大津波で多くの海岸に背の高い防潮堤が建ち、多くの家や会社から海は見えなくなりました。なので魚町からは常日頃海側の視界を確保する為、津波が来たときにだけ津波の水圧で防潮堤に仕舞われていたパネルが自動的に1m高くなる仕組みが、施工者の宮城県に提案されました、しかし、県は実績が無いかとても少ないこと、お金が高くなる....と了解せず、話は進みませんでした。
しかしその後、大地震で沈下した地盤がその後に多少隆起した分22cmを防潮堤の高さから減じなかったという県の設計ミスが判明し、すったもんだの末、地元提案通り1mのパネルが防潮堤から出てくる仕組みで施工されました。
他の地域で、防潮堤建設を反対する人たちの中には、コンクリートの防潮堤は永久の物ではなく、メンテナンスにも多くのお金が掛かり、子々孫々に負担させたくない...という意見も有りました。それも、ごもっともです。どっしり構えるコンクリート製でさえ維持管理の費用が心配されるのに、1mを確保する為の可動式なら、いくら上積みするようなのでしょうか。これから防潮堤を整備する地域では参考にして欲しいです。
どうやら今夜、宮城県にも緊急事態宣言発令が決まるようです(>_<) そろそろ近場へ遊びに行こうとしていたら「まんぼう」。更には緊急事態宣言(>_<)
気仙沼ではコロナが蔓延した漁船が入港したり、飲み屋で多くの感染者が出ました(>_<) 後者の中には某市での酒席で伯父が感染した人も居ました。身近な所に感染者が出たら、より一層慎重になるべきだと思うのですが、まだまだ意識は低いですね(>_<)(T_T)
そんな意味でも無いのですけど、今夜は某コロナ対策担当者会議が予定されていてヨコミーも行く予定ですが、出来ることなら行きたくない(>_<) 飲食は無いのですが、どうせ決定事項の伝達でしょうから、郵送やメールでも良いのです(^_^)v ダメかなぁ(^_^;)
ワクチン接種済み者でも感染しているようです。皆様、マスクをしっかりと付け、1密でも避け、この禍を乗り切りましょう(^_^)v お酒は一人で静かに。両国と男山をお薦め(*^_^*)
バタバタしていてブログ更新は何日も掛かり(>_<) 参考にしたいと思っている各位のブログ訪問も遅々として....(T_T) しかし、休み休みですが頑張るのみ(^_^)v
おしまいm(_ _)m
ここは気仙沼市本吉町風の丘。
風の丘も異常気象の為か、気仙沼のアメダスを見たら昨日24日までの8月に日照が6時間以上有った日は8日間だけでした。
そして降水量が観測されたのは15日間にも(>_<) これには過日みたく霧に覆われた分は入っていないのでしょうね。水が貯まらない程度は(>_<)
6月11日、所用で市街地の内湾に出掛けた際、早めに終わったので3階のバルコニーに出てパチリ。気仙沼市南町海岸に東日本大震災前は在った市営駐車場の跡地に建てられた施設からです。ここの上には屋根の端が小さく出ていますが、役に立ちそうでもないので「バルコニー」で良いかと。
以前も取り上げた風景で見飽きた方も居るかもしれませんが、一応(^_^;)最近の様子をご覧願います。
建物の内湾側、東南東方向です。まっ、いってみれば内湾の右端(^_^;)、うーん正しくは南側かな...、をパチリ。
中央右上、小高い岩山の上に建つのは気仙沼プラザホテル。画面右側にコンクリートの塀が建てられていますが...(写真は1つ置いて)
位置が分かり易いように、グーグルマップからお借りした地図を置きます。赤丸が撮影地です。
コンクリートの壁付近を拡大しました。防潮堤です。でも中央左側の磯屋水産さんの店などは守られない感じ(>_<) 壁は急に左へ折れる?? 店の前を通る道は、万が一の際、防潮堤に有るゲートで閉じるようです。
カメラは左へ。気仙沼湾の内湾です。震災前なら手前に海上保安庁の船等も係留されていました。
内湾の向こうに、こんもりと木々が茂る所は五十鈴神社が在る半島。
左上の小山は陣山。てっぺんに白いトゲのようなオブジェは市の復興祈念公園。
左は震災前からの汽船発着所。ずーっと以前、連絡船は大島や唐桑半島を結んでいました。しかし20年か30年前に唐桑航路は利用者減で無くなり、大島航路も平成31年春、長年の念願が叶って大島大橋が開通したことによって、廃止(>_<)
ところで、どなたかのブログを見たら大島大橋は復興で整備されたのに利用が少ない...と経過を理解しない残念な書き込みがあり、悲しいです。船でちょっとだけ遊びに来る観光客には素敵な所でしょうけれど、365日離島で暮らす不便。通勤通学買い物は全て連絡船。ちょっとした診療以外は本土へ。嵐は勿論、濃霧でも船は止まり、急患の搬送さえ出来ないことも。なので、長年の陳情による成果であり、完成予定は震災前から宮城県によって示されていました。
五十鈴神社の森を拡大してみました。本殿は木々の中で見えません。右下に朱塗りの欄干を持つ浮御堂が再建されました。ここからの景気も素敵です(^_^)v
拡大です。左から浮御堂、コの字型岸壁、そしてかつて造船地帯だった鹿折の浪板地区。右上の丘は6月30日付けの記事(4月12日撮影)でも載っています。この場所、気仙沼みなとまつりで打ち上げられる花火を見るには最適の場所だと思うのですが、今年の祭はコロナで中止に(>_<) でもそのうち、来年に向けて下調べを....(^_^;)
拡大の続き。木陰から見えるのは、近年廃業したホテル望洋。その昔は望洋館という名前でした。正面には湾奥、右を見れば湾口から太平洋も見える良い所でしたのに、残念(>_<)
手前の坂道や下の県道沿いには多くの建物が建っていたのですが、ご覧の程度(>_<) 坂道途中から右側の家々が大津波の難を逃れたようです。
そういえば暫く前まで、この辺りに薩摩揚げの加工屋さんが在りました。この坂を歩いたり自転車で通る度、美味しい香りが漂っていました。食べたい(^_^;)
陣山と魚町の拡大です。陣山の白い「トゲ」は「祈りの帆(セイル)」を表しているとか。なんで「帆」なのでしょうか。遠目には観音様にも見えます(^_^)v
この場所は、被災した地域を幅広く見渡せる....とのことで選定されたと聞きますが、本当にそうなのでしょうか。5年、10年、20年...と経つ内に木々に囲まれた公園になってしまうのでは...と危惧(>_<)
幅広く見渡せるなら、同じように被災していない土地を買収するなら、先程の浪板に在る丘などがベストだと思うのですよ(^_^)v または、見通しより、市が浸水した土地を買収したものの利用が決まっていない土地が多く有るとか。そんな土地を利用すべきだった....と思うのです(>_<)
左上、薄い緑色の屋根は結婚式場。
魚町の岸壁には、以前は漁船が何艘も係留されていたものですが、漁船漁業を取り巻く環境は厳しくなり....。それでも震災前は多少係留されていましたが、今見ればゼロ! 岸壁の工事がまだ終わらないのでしょうか。それともここには係留出来なくなった!??
カメラは更に左へ。北北西方向、内湾の奥です。中央上の丘に建つ建物から右下に続く一連の建物が魚町一丁目・入沢災害公営住宅です。
左上が安波山(あんばやま、あんばさん。238m)
汽船発着所の浮き桟橋が2つ有りますが、定期船が無くなって遊覧船のみとなった今、2つとは過剰設備だと思います。震災後先に復旧されても県の計画では間もなく橋が開通すると分かっていましたから、費用を抑える工夫があるべきでした(>_<)
では拡大(^_^)v 左上の丘から右下まで段々と連なる建物が魚町一丁目・入沢災害公営住宅です。
丘の上の建物の下やや左に在る3階建ての白い建物は、今では市内唯一となった民間の産婦人科。昔はもっと在りましたが、震災前のずーっと前からぽつりぽつりと廃院(>_<) 少子化そして市内から若い女性が少なくなったのが原因かと。
産婦人科と手前青緑色の重機に挟まれた建物とその左は、元防衛大臣ご実家の老舗旅館。
広い角度で更に西をパチリ。私が撮影しているのは3階のバルコニー。写真下から向こうに延びているのは外通路にもなるバルコニー、ん、向こうはテラスか!? テラス下の、まあ仮に1階部分として、その陸側には店舗があります。店舗の奥がどこまで延びているか、やはりテラスの下は土だけなのか、興味があります(^_^;)
真ん中やや左の2階部分はラヂオ気仙沼のスタジオや事務所が入っています。生放送は屋外にも流れているので、ガラス越しにスタジオを見ている方も居るようです。
その向こうの白い色の屋根は商業施設。その左奥に見える瓦屋根と反対右奥に見える縦長窓の建物等は以下に拡大します。
瓦屋根は角星酒造店と看板にあります。「角星」とは「くにがまえ」の中に大きな「丸」 です。漢字ではなく「感字」かな(^_^;) 屋号を示すマークかと。醸造所は魚町一丁目・入沢災害公営住宅東側の沢・太田に在り、「両国」というブランドで色々なお酒を造っています。
瓦屋根のずーっと奥、山の麓に横長の屋根が見えますが、市役所の第二庁舎です。平成17年に宮城県立気仙沼高等学校(男子校)に統合された宮城県鼎が浦高等学校(女子校。以下「鼎高」)が、終焉を迎えた松岩地区の校舎へ移る前に使っていた校舎です。この鼎高、始まりは気仙沼町立気仙沼実科高等女学校と聞きますが、この建物から始まったのかは不詳(>_<)
因みに市役所本庁舎は画面左端に3階部分のみが見えています。明るくない色の建物。
真ん中が造り酒屋の男山本店です。醸造所は200m程奥の入沢に在り、「男山」というブランドで色々なお酒を造っています。
ちょっと見には鉄筋コンクリート3階建てですが、実は木造で表面がモルタル。なので「木筋コンクリート」と言われるのでしょう。先の大津波で1階2階部分が壊れましたが、各方面からの協力で昨年再建されました。
男山本店手前を拡大。中央は、今ヨコミーが立つ建物の先に有る、津波が来るときに閉めるゲートです。見れば男山本店前にコンクリートの防潮堤が有るのですが、その間の芝生斜面が不思議かも。
以前の新聞によれば、地元の大物が施工者の宮城県に「斜面に腰掛けたい」と要望し、実現したもの。ですが、津波にしてみれば同じ高さで直立する防潮堤より駆け上がり易いと思います。遡上高って聞いたことが有ると思うのですが、傾きが緩ければ人だって津波だって登り易いです(>_<)
10年前の大津波は、内湾では静かに水位が上がっていった....と話す知り合いも居ました。あの大津波は気仙沼湾の奥・300tもの船が打ち上げられた鹿折地区へどどどっと進み、少し手前から左に入った内湾にはその分多少は緩やかに押し寄せたのでしょう。
といっても、当時市役所辺りから撮った動画では建物が壊れる際に立ちのぼったと思われる土煙が見えました。津波が陸に上がってもそんな威力を持っていたということは、岸壁ならばもっと威力は有るかと。水量と速さ。
震災後は大きな被害に遭った鹿折地区沿岸にも大きな防潮堤が整備されています。以前は大量の津波を受け入れてしまった鹿折地区。次に来るだろう大きな津波は、「お見それしゃーした。まっすぐ帰ります」と言って(行って(^_^;)くれるでしょうか。
芝生を貼った防潮堤の前側を拡大です。男山本店前から右側にコンクリートの防潮堤が続いています。真ん中右には車が入れるゲートも。真ん中の広場は、ちょっとしたイベントを開催したり、修学旅行等団体が待つ場所にも使えそうです。
あっ、誰かがこっちを狙っている(>_<)
魚町の岸防潮堤を拡大しました。一段低い海に近い段は岸壁。少し引いて防潮堤が立ち上がっています。上端に柵が有るのは見慣れた光景ですが、柵の下の穴は?? 多分これは、ここ特有の、変わった仕組みを取り入れた防潮堤のためかと。
実はここに高い防潮堤を設置することに、魚町の方からはとても不評で理解を得られない状況でした。「海が見えなくなる」という理由で。確かに長年自宅や会社前からすぐ前の海を眺めて暮らしていたのですから、それはそうなんでしょう。その頃、市内経済界トップと思われる御方からお話を聞く機会があり、「奥様方の反対が強くて...」とおっしゃっていました。本当!??(^_^;)
今回の大津波で多くの海岸に背の高い防潮堤が建ち、多くの家や会社から海は見えなくなりました。なので魚町からは常日頃海側の視界を確保する為、津波が来たときにだけ津波の水圧で防潮堤に仕舞われていたパネルが自動的に1m高くなる仕組みが、施工者の宮城県に提案されました、しかし、県は実績が無いかとても少ないこと、お金が高くなる....と了解せず、話は進みませんでした。
しかしその後、大地震で沈下した地盤がその後に多少隆起した分22cmを防潮堤の高さから減じなかったという県の設計ミスが判明し、すったもんだの末、地元提案通り1mのパネルが防潮堤から出てくる仕組みで施工されました。
他の地域で、防潮堤建設を反対する人たちの中には、コンクリートの防潮堤は永久の物ではなく、メンテナンスにも多くのお金が掛かり、子々孫々に負担させたくない...という意見も有りました。それも、ごもっともです。どっしり構えるコンクリート製でさえ維持管理の費用が心配されるのに、1mを確保する為の可動式なら、いくら上積みするようなのでしょうか。これから防潮堤を整備する地域では参考にして欲しいです。
どうやら今夜、宮城県にも緊急事態宣言発令が決まるようです(>_<) そろそろ近場へ遊びに行こうとしていたら「まんぼう」。更には緊急事態宣言(>_<)
気仙沼ではコロナが蔓延した漁船が入港したり、飲み屋で多くの感染者が出ました(>_<) 後者の中には某市での酒席で伯父が感染した人も居ました。身近な所に感染者が出たら、より一層慎重になるべきだと思うのですが、まだまだ意識は低いですね(>_<)(T_T)
そんな意味でも無いのですけど、今夜は某コロナ対策担当者会議が予定されていてヨコミーも行く予定ですが、出来ることなら行きたくない(>_<) 飲食は無いのですが、どうせ決定事項の伝達でしょうから、郵送やメールでも良いのです(^_^)v ダメかなぁ(^_^;)
ワクチン接種済み者でも感染しているようです。皆様、マスクをしっかりと付け、1密でも避け、この禍を乗り切りましょう(^_^)v お酒は一人で静かに。両国と男山をお薦め(*^_^*)
バタバタしていてブログ更新は何日も掛かり(>_<) 参考にしたいと思っている各位のブログ訪問も遅々として....(T_T) しかし、休み休みですが頑張るのみ(^_^)v
おしまいm(_ _)m
市内魚市場前から 気仙沼の今 20210412 [東日本大震災]
こんにちは、ヨコミーです。
ここは気仙沼市本吉町風の丘。
今日6月30日は前夜から暫く振りの晴れ間が続いています。湿気は多少有りますが、吹き込む海風が涼しく、まだなんとか暮らせます。
先週末を挟んで4日間、仲間と小さな写真展を開催しました。準備も大変でしたが、予想通り来客は少なく、残ったのはストレスと疲れのみ(>_<) まあ、次回の秋も大変ですね(^_^;)
さて、撮影したもののちょっと見失っていた写真をようやく見つけました(^_^;) 4月12日、所用で行った旧・河北ビルで許可を得て高い所に登る機会を得、東日本大震災で大きな被害を受けた気仙沼魚市場付近を撮っていたのですが...(>_<)
今回のタイトルに「今」の文字は有りますが、特に道路工事などは日々進んでいて、そんな状況を知っている市内の方には「『今』でねえべ...」と思われる方も居るかもしれませんが、そんな工事を除けば、まあまだ「今」なので以下に紹介します。
写真はクリックすると大きくなります。
旧・河北ビル屋上から西南西方向をパチリ。位置は気仙沼魚市場の凡そ西。気仙沼市役所前の小山が凡そ南東に延びています。気仙沼小学校・中学校を経て市民会館辺りから半島状とか丘状に延びていて、字名も「南が丘」。その南東端辺りがこの右手。先端は後述の、写真枠外、手前左。
右下には人しか通れない階段があり、東日本大震災による大津波では多くの人々が登って難を逃れました。それが道路拡幅の影響で今まで右側から登っていたのを、今度は左から登るようにしたようです。
南が丘の左右を見れば結構な崖ですね。大昔は波に洗われていたのでしょうか。いつか詳しい方から伺いし、勉強します(^_^;)
左は幸町の災害公営住宅です。この辺りは震災直後マリリンさんから写真を頂いていて、変化を載せたいと思っていたのですが、同じようなアングルから撮れず、今に至っています(>_<)
左端の道は国道45号気仙沼バイパスの上田中交差点に至ります。
蛇足程度に山の紹介です。中央奥が手長山。住宅の上が市民の森、住宅左肩に近い峰がヤマツツジが群生する徳仙丈山。左端が愛宕山。
という訳で、参考までにグーグルマップから拝借。すみませんが拡大縮小は各自ネットでお願いしますm(_ _)m
右隣です。凡そ西北西です。左の丘の上は南が丘で、その右下が昔は河原田大通りとも呼ばれていた河原田一丁目(通りの右手)と二丁目(同左手。中央)。奥の鉄塔が有る建物はNTT。ここまで大津波が登ってきました。震災後は被災した法務局も入って居ます。右上の白い建物は裁判所。
大通りは奥の上から右下に延びていましたが、緊急避難路も兼ねさせたいのか(そうじゃなくても良いのですが)、途中から右手に延びていた小さな横丁みたいな通りが今では立派な道に(^_^;) 道路工事による単なる迂回路...だけじゃないみたいに立派(^_^;)
でも、旧横丁通り(ヨコミー勝手に命名。高校生から通っていた通り)は魚市場北桟橋や港町の出漁岸壁に繋がっていて緊急時には多くの車両が通るだろうし、河原田大通り下手の先は魚市場や関連会社等に繋がっているので、こちらの交通量も多いはず。なので、万が一の避難時、写真中央やや右上の交差点は大渋滞になろうかと。
行政によれば避難は徒歩で...と呼びかけていますが、①避難生活が長く続くと思えば車で色々と持って行きたいし、②会社や通勤に使っている車はより高い所に避難させたいのが人情。①と②は東日本大震災で実際に有りました(>_<) 大通りの上の方を4車線にでもするなら納得ですが、万が一は警官が交差点に立ち、反対車線を逆走させるのかな?(^_^;)
NTTビルを中心とした拡大です。鉄塔の真後ろになっている建物は気仙沼市図書館。その並びの左中程に気仙沼中学校の屋体、少し離れて左端まで白く角張った建物が市民会館です。
それにしても左下、南が丘の崖が凄いです。そして立て込んでいるので、自宅前まで車が入れない家が何軒も有ります。震災前の河原田も建て込んでいましたが、今はこんな感じ。
鉄塔直ぐ右の山は岩手県一関市室根町の室根山895m。右上の山は安波山(あんばさん。あんばやま)238m。
右続きです。左の山が安波山。その右隣はホテル観洋。その右下は魚の冷凍倉庫。冷蔵?? その右端の真上は気仙沼プラザホテル。ちょっと離れて右端の茶色い建物は鮮魚や土産物、飲食店、観光協会が入った海の市。その直ぐ裏の薄い青色の建物は気仙沼魚市場北桟橋の西端。
中程を左右に走るのが震災前は狭い横丁だった道。左下は河原田大通りの下手。手前の角には薬屋が、その左、黄色いボディと青緑色のアームを持つ重機が有る辺りには、避難所でお世話になったスーさん班長んちの酒屋も有りましたのに....(>_<)
安波山(右奥)の拡大です。左中程、薄く左右に延びるのが駐車場のガードレール。近年中腹まで車で上れるようになりましたが、木々が伸びて折角の景観が狭まりました(>_<)
右端がホテル観洋。中央やや右に有るとんがり屋根が未チェックでした(>_<) この辺りも建て込んでいて、自宅に車を着けられない家が多いです。
右続きの北北東方向です。左上端がプラザホテル、奥の山手前が、大津波で300tもの船が打ち上げられた鹿折地区で右上の山まで同地区です。真ん中上の茶色いのが海の市。その直ぐ左後ろから裏を通ってかまぼこ屋根や四阿辺りが魚市場北桟橋。そして右端に見える白い魚市場の建物に気仙沼漁協の出先が入って居たのですが、震災後の近年、漁協が全て魚市場2階南側に入ったので、今はどう配置になっているか...。
中央の、今は駐車場になっている交差点角には、震災前、信金の内の脇支店が有りました。それが今年になってようやく、これより500m南の仲町二丁目に再建されました。
ABCで描いた「UMIICHI」看板の上に小さくレンガ色が見えますが、地元の旧・畠山学園が建てた東陵高校。今は愛知?かの法人が経営。右上かまぼこ屋根の奥右隣は鹿折地区浪板の防災集団移転の団地です。
鹿折方面の拡大です。左端がプラザホテルで右の青緑色のとんがった建物はチャペル。その上、白色のトゲみたいなものが建っていますが、気仙沼地区と鹿折地区の境・陣山山頂に近年開設された震災復興祈念公園のシンボル。上の方が少し曲がっていて簡略化した観音像にも見えます。これとは別に市が今流行のクラウドファンディングでお金を集め、人型のオブジェを作る...とのことで、慰霊の場に人型のオブジェとは怖い....という反対意見も有ったのですが、市は聞き入れず、その後どうなったか、要調査です。出資者はそんな意見を知らされていたのか否か...。
JFとカメイの看板は凡そプラザホテルの距離で、中央の船はコの字型岸壁といって鹿折地区から土埃を舞上げて埋め立てしたものの完成したら気仙沼地区となり、鹿折地区出身のヨコミーはカンカン(-_-)/~~~ピシー!ピシー!
鹿折地区で目立つのは鹿折南災害公営住宅の群。個人的な驚きは、右手の山々が結構右手(南)寄りだということ。この山は陣山裏手から3kmほど北上し、東北東に登った先にあるはず。望遠レンズによる圧縮効果なのでしょうか。
右下の茶色は海の市。かまぼこ屋根とちょいと変わった屋根2つは魚市場屋上の四阿。カメイの通りから登ることが出来ます。1つ上の写真をまた見てください。右端のレンガ色は東陵高校。
それにしても手前の縁が邪魔でしたね。なにせ鍵持ちさんの目が早くしろーっと言っているようで...(^_^;)
左は浪板の防災集団移転団地方面の拡大です。中央に小さく灰色で箱状のモノが見えるのですが、上水道の施設かも。そこから緩く右上に小さな建物が並んでいますが、農作業小屋? 並びの右端は畜舎? 太陽光発電? ヨコミー鹿折地区にはン十年も住んでいましたが、足が伸びない所でした(>_<) 要調査(^_^;)
右下に海が見えますが、震災前はそこからほんのちょっと高い所が県道でした。今では左下に見える四阿上端に載っている小さな屋根に重なる所が付け替えられた県道で、南(右手)は大島大橋へ至ります。
右続きです。魚市場が右端まで続いています。手前一体に人家や事業所が広がっていたのですが...(>_<) ヨコミー遠縁もこの辺りで加工屋を営んでいたのですが、跡形も無く...(>_<)
地酒看板右に見えるのは「みしおね横丁」。インドネシア料理やお風呂も有ったはず。来市の際はご利用をm(_ _)m
同看板奥の左右に見えるのは大浦防災集団移転の団地。左の下には震災後の造船団地へ加わらなかった造船所が見えます。
大浦防災集団移転団地方向の拡大です。船の上端をかすめるように左右に細い黒線が延びていますが、新しい県道のガードレールです。魚市場の屋上は駐車場でもあります。
更に右続きです。真ん中奥は大島の亀山。朝ドラでは大島が亀島となっています。で、大島の辺りで左右に白く伸びている線は三陸道の気仙沼湾横断橋。手前はまばら。昔のようにギシッと埋まることは無いでしょうね。
大島方面の拡大です。横断橋右側の主塔右下に大島大橋が見えます。中央左の気仙沼パークホテル、そして左下の建物は震災前から有ったのですが、このように残った建物は浸水部分を改修して使っているようです。ただ土地の嵩上げが有ったため1階部分が窮屈となり、以前の2階へ出入り口を移して使っているようです。この今の足下も周りの道路が嵩上げされるので、1階部分はどうなることやら。まあ1階の天井は高めなのですが。
更に右続きです。奥の薄緑色をした建物の辺りに、震災当時中央公民館が有りました。当時の東京都猪瀬直樹副知事が指令を出した救出劇の現場。この辺り、10年経ってもこんな感じ。いろんな建物が密集していましたのに...(>_<)
手前のちょっとした台地に建つ家々は3戸有ったようで、海側の1戸がここでの生活を諦めました。ここはまた別角度で下に出てきます(^_^;)
中央が残った2戸です。上の写真ではちょっとだけ高いように見えますが、右下の車と比べると4~5mは高いかと。もう少し高い気もしますが、駐車場は以前より嵩上げしたものの、ヨコミー足下の建物は、1階部分がちょっと高めですが嵩上げ前の土地に建てた鉄筋コンクリート3階建て。その屋上。
で、この台地は写真右手前が南が丘方向に...。つまり南が丘の、丘の先端がここじゃないかと推測。丘をちょっと削って南気仙沼駅から真っ直ぐな道路を作った...かな(^_^;) やはりいつか、地質の大先生にお伺いするようです(^_^)v
1つ前の右続きです。凡そ南南西方向。中央上がドラッグストア、その真ん中直ぐ向こうは再建された信金内ノ脇支店かと。その左はチェーン?フランチャイズ?の書店。右のチョコレート色をした建物は再建されたお菓子屋さん。
ドラッグストアの右隣は仲町郵便局。震災まで魚市場間近に有った気仙沼魚市場前郵便局が被災して長いこと休止していましたが、5月に移転し、名称を改めての再開です。この建物、近年建築直後からうどん屋さんが少し前まで営業していたのですが、儲からなくなったのか、ヨコミーが食べに行く前に撤退(>_<) 1年もやっていた?????
右上は内ノ脇と奥で川向かいに建つ南郷の各災害公営住宅が重なって見えています。
更に右隣。右手に幸町の災害公営住宅が見え、ようやく1周(^_^;) 大変お疲れ様でしたm(_ _)m
先程の災害公営住宅ですが、真ん中上「ツルハ」の看板に重なっているのが、大川川向かいに有る南郷の災害公営住宅(3棟有る内の1つ)。その左、真ん中と左端が大川手前に建つ内ノ脇災害公営住宅です。2棟とも縦に白い筋が見えます。この辺りも隙間無く建ち並んでいたのですが...(>_<)
よーく、建ち並んだ災害公営住宅を見て、「復興しましたね!」と言う人と出会います。勿論市外の人。災害公営住宅や防災集団移転の団地が出来れば復興なのでしょうか。心の底では苛つきを感じます。「復興」という文字を広辞苑等で調べてから「復興」という言葉を使って欲しい。
といってこの辺が従来のように建物で埋め尽くされることは無い....とは思います。確か規制も有ったかと。それにしても10年です。
そして震災を契機に市外へ行った市民がまだ戻っていない...。OHNO-YOU夫妻も、QPO夫妻も、寮母夫妻も、運転手のタカ夫妻も、酒好きイ夫妻も、富熊夫妻も(>_<) 市の人口は震災を境に大きく減りました。
唯一、いや二つか、建設業界と飲食業界は一時復興したと言えたのでしょうけれど、ピークが過ぎた今、遠縁の建設屋は出稼ぎに。コロナも有って飲食店は閉める所も出ています。
前政権時、米中貿易摩擦やコロナまでは長い好景気が続いた...と自画自賛したような政府発表が有っても、統計の原材料をいじくったようでも有り、大本営発表だったのでしょうね、当地には好景気の臭いも無かったかと。建設業界と飲食業界を除く(^_^;)
この3月で10年が経ちました。でも、こんな現状。次の10年で100%の「復旧」を超えられるのでしょうか。少子高齢化、人口減等々も絡み、被災地の前途はまだまだ大変かと(>_<) 我も微力ながら、100%を超える為に役に立ちたいと思います。微力(^_^;)
先程、ヨコミー奥様のおリュウさんが「明日は早く起きてね!」と文字上は優しく呼びかけたのですが、イントネーションは超怖っ!! (>_<) 明日は早く起きなきゃ(^_^;)
おしまいm(_ _)m
ここは気仙沼市本吉町風の丘。
今日6月30日は前夜から暫く振りの晴れ間が続いています。湿気は多少有りますが、吹き込む海風が涼しく、まだなんとか暮らせます。
先週末を挟んで4日間、仲間と小さな写真展を開催しました。準備も大変でしたが、予想通り来客は少なく、残ったのはストレスと疲れのみ(>_<) まあ、次回の秋も大変ですね(^_^;)
さて、撮影したもののちょっと見失っていた写真をようやく見つけました(^_^;) 4月12日、所用で行った旧・河北ビルで許可を得て高い所に登る機会を得、東日本大震災で大きな被害を受けた気仙沼魚市場付近を撮っていたのですが...(>_<)
今回のタイトルに「今」の文字は有りますが、特に道路工事などは日々進んでいて、そんな状況を知っている市内の方には「『今』でねえべ...」と思われる方も居るかもしれませんが、そんな工事を除けば、まあまだ「今」なので以下に紹介します。
写真はクリックすると大きくなります。
旧・河北ビル屋上から西南西方向をパチリ。位置は気仙沼魚市場の凡そ西。気仙沼市役所前の小山が凡そ南東に延びています。気仙沼小学校・中学校を経て市民会館辺りから半島状とか丘状に延びていて、字名も「南が丘」。その南東端辺りがこの右手。先端は後述の、写真枠外、手前左。
右下には人しか通れない階段があり、東日本大震災による大津波では多くの人々が登って難を逃れました。それが道路拡幅の影響で今まで右側から登っていたのを、今度は左から登るようにしたようです。
南が丘の左右を見れば結構な崖ですね。大昔は波に洗われていたのでしょうか。いつか詳しい方から伺いし、勉強します(^_^;)
左は幸町の災害公営住宅です。この辺りは震災直後マリリンさんから写真を頂いていて、変化を載せたいと思っていたのですが、同じようなアングルから撮れず、今に至っています(>_<)
左端の道は国道45号気仙沼バイパスの上田中交差点に至ります。
蛇足程度に山の紹介です。中央奥が手長山。住宅の上が市民の森、住宅左肩に近い峰がヤマツツジが群生する徳仙丈山。左端が愛宕山。
という訳で、参考までにグーグルマップから拝借。すみませんが拡大縮小は各自ネットでお願いしますm(_ _)m
右隣です。凡そ西北西です。左の丘の上は南が丘で、その右下が昔は河原田大通りとも呼ばれていた河原田一丁目(通りの右手)と二丁目(同左手。中央)。奥の鉄塔が有る建物はNTT。ここまで大津波が登ってきました。震災後は被災した法務局も入って居ます。右上の白い建物は裁判所。
大通りは奥の上から右下に延びていましたが、緊急避難路も兼ねさせたいのか(そうじゃなくても良いのですが)、途中から右手に延びていた小さな横丁みたいな通りが今では立派な道に(^_^;) 道路工事による単なる迂回路...だけじゃないみたいに立派(^_^;)
でも、旧横丁通り(ヨコミー勝手に命名。高校生から通っていた通り)は魚市場北桟橋や港町の出漁岸壁に繋がっていて緊急時には多くの車両が通るだろうし、河原田大通り下手の先は魚市場や関連会社等に繋がっているので、こちらの交通量も多いはず。なので、万が一の避難時、写真中央やや右上の交差点は大渋滞になろうかと。
行政によれば避難は徒歩で...と呼びかけていますが、①避難生活が長く続くと思えば車で色々と持って行きたいし、②会社や通勤に使っている車はより高い所に避難させたいのが人情。①と②は東日本大震災で実際に有りました(>_<) 大通りの上の方を4車線にでもするなら納得ですが、万が一は警官が交差点に立ち、反対車線を逆走させるのかな?(^_^;)
NTTビルを中心とした拡大です。鉄塔の真後ろになっている建物は気仙沼市図書館。その並びの左中程に気仙沼中学校の屋体、少し離れて左端まで白く角張った建物が市民会館です。
それにしても左下、南が丘の崖が凄いです。そして立て込んでいるので、自宅前まで車が入れない家が何軒も有ります。震災前の河原田も建て込んでいましたが、今はこんな感じ。
鉄塔直ぐ右の山は岩手県一関市室根町の室根山895m。右上の山は安波山(あんばさん。あんばやま)238m。
右続きです。左の山が安波山。その右隣はホテル観洋。その右下は魚の冷凍倉庫。冷蔵?? その右端の真上は気仙沼プラザホテル。ちょっと離れて右端の茶色い建物は鮮魚や土産物、飲食店、観光協会が入った海の市。その直ぐ裏の薄い青色の建物は気仙沼魚市場北桟橋の西端。
中程を左右に走るのが震災前は狭い横丁だった道。左下は河原田大通りの下手。手前の角には薬屋が、その左、黄色いボディと青緑色のアームを持つ重機が有る辺りには、避難所でお世話になったスーさん班長んちの酒屋も有りましたのに....(>_<)
安波山(右奥)の拡大です。左中程、薄く左右に延びるのが駐車場のガードレール。近年中腹まで車で上れるようになりましたが、木々が伸びて折角の景観が狭まりました(>_<)
右端がホテル観洋。中央やや右に有るとんがり屋根が未チェックでした(>_<) この辺りも建て込んでいて、自宅に車を着けられない家が多いです。
右続きの北北東方向です。左上端がプラザホテル、奥の山手前が、大津波で300tもの船が打ち上げられた鹿折地区で右上の山まで同地区です。真ん中上の茶色いのが海の市。その直ぐ左後ろから裏を通ってかまぼこ屋根や四阿辺りが魚市場北桟橋。そして右端に見える白い魚市場の建物に気仙沼漁協の出先が入って居たのですが、震災後の近年、漁協が全て魚市場2階南側に入ったので、今はどう配置になっているか...。
中央の、今は駐車場になっている交差点角には、震災前、信金の内の脇支店が有りました。それが今年になってようやく、これより500m南の仲町二丁目に再建されました。
ABCで描いた「UMIICHI」看板の上に小さくレンガ色が見えますが、地元の旧・畠山学園が建てた東陵高校。今は愛知?かの法人が経営。右上かまぼこ屋根の奥右隣は鹿折地区浪板の防災集団移転の団地です。
鹿折方面の拡大です。左端がプラザホテルで右の青緑色のとんがった建物はチャペル。その上、白色のトゲみたいなものが建っていますが、気仙沼地区と鹿折地区の境・陣山山頂に近年開設された震災復興祈念公園のシンボル。上の方が少し曲がっていて簡略化した観音像にも見えます。これとは別に市が今流行のクラウドファンディングでお金を集め、人型のオブジェを作る...とのことで、慰霊の場に人型のオブジェとは怖い....という反対意見も有ったのですが、市は聞き入れず、その後どうなったか、要調査です。出資者はそんな意見を知らされていたのか否か...。
JFとカメイの看板は凡そプラザホテルの距離で、中央の船はコの字型岸壁といって鹿折地区から土埃を舞上げて埋め立てしたものの完成したら気仙沼地区となり、鹿折地区出身のヨコミーはカンカン(-_-)/~~~ピシー!ピシー!
鹿折地区で目立つのは鹿折南災害公営住宅の群。個人的な驚きは、右手の山々が結構右手(南)寄りだということ。この山は陣山裏手から3kmほど北上し、東北東に登った先にあるはず。望遠レンズによる圧縮効果なのでしょうか。
右下の茶色は海の市。かまぼこ屋根とちょいと変わった屋根2つは魚市場屋上の四阿。カメイの通りから登ることが出来ます。1つ上の写真をまた見てください。右端のレンガ色は東陵高校。
それにしても手前の縁が邪魔でしたね。なにせ鍵持ちさんの目が早くしろーっと言っているようで...(^_^;)
左は浪板の防災集団移転団地方面の拡大です。中央に小さく灰色で箱状のモノが見えるのですが、上水道の施設かも。そこから緩く右上に小さな建物が並んでいますが、農作業小屋? 並びの右端は畜舎? 太陽光発電? ヨコミー鹿折地区にはン十年も住んでいましたが、足が伸びない所でした(>_<) 要調査(^_^;)
右下に海が見えますが、震災前はそこからほんのちょっと高い所が県道でした。今では左下に見える四阿上端に載っている小さな屋根に重なる所が付け替えられた県道で、南(右手)は大島大橋へ至ります。
右続きです。魚市場が右端まで続いています。手前一体に人家や事業所が広がっていたのですが...(>_<) ヨコミー遠縁もこの辺りで加工屋を営んでいたのですが、跡形も無く...(>_<)
地酒看板右に見えるのは「みしおね横丁」。インドネシア料理やお風呂も有ったはず。来市の際はご利用をm(_ _)m
同看板奥の左右に見えるのは大浦防災集団移転の団地。左の下には震災後の造船団地へ加わらなかった造船所が見えます。
大浦防災集団移転団地方向の拡大です。船の上端をかすめるように左右に細い黒線が延びていますが、新しい県道のガードレールです。魚市場の屋上は駐車場でもあります。
更に右続きです。真ん中奥は大島の亀山。朝ドラでは大島が亀島となっています。で、大島の辺りで左右に白く伸びている線は三陸道の気仙沼湾横断橋。手前はまばら。昔のようにギシッと埋まることは無いでしょうね。
大島方面の拡大です。横断橋右側の主塔右下に大島大橋が見えます。中央左の気仙沼パークホテル、そして左下の建物は震災前から有ったのですが、このように残った建物は浸水部分を改修して使っているようです。ただ土地の嵩上げが有ったため1階部分が窮屈となり、以前の2階へ出入り口を移して使っているようです。この今の足下も周りの道路が嵩上げされるので、1階部分はどうなることやら。まあ1階の天井は高めなのですが。
更に右続きです。奥の薄緑色をした建物の辺りに、震災当時中央公民館が有りました。当時の東京都猪瀬直樹副知事が指令を出した救出劇の現場。この辺り、10年経ってもこんな感じ。いろんな建物が密集していましたのに...(>_<)
手前のちょっとした台地に建つ家々は3戸有ったようで、海側の1戸がここでの生活を諦めました。ここはまた別角度で下に出てきます(^_^;)
中央が残った2戸です。上の写真ではちょっとだけ高いように見えますが、右下の車と比べると4~5mは高いかと。もう少し高い気もしますが、駐車場は以前より嵩上げしたものの、ヨコミー足下の建物は、1階部分がちょっと高めですが嵩上げ前の土地に建てた鉄筋コンクリート3階建て。その屋上。
で、この台地は写真右手前が南が丘方向に...。つまり南が丘の、丘の先端がここじゃないかと推測。丘をちょっと削って南気仙沼駅から真っ直ぐな道路を作った...かな(^_^;) やはりいつか、地質の大先生にお伺いするようです(^_^)v
1つ前の右続きです。凡そ南南西方向。中央上がドラッグストア、その真ん中直ぐ向こうは再建された信金内ノ脇支店かと。その左はチェーン?フランチャイズ?の書店。右のチョコレート色をした建物は再建されたお菓子屋さん。
ドラッグストアの右隣は仲町郵便局。震災まで魚市場間近に有った気仙沼魚市場前郵便局が被災して長いこと休止していましたが、5月に移転し、名称を改めての再開です。この建物、近年建築直後からうどん屋さんが少し前まで営業していたのですが、儲からなくなったのか、ヨコミーが食べに行く前に撤退(>_<) 1年もやっていた?????
右上は内ノ脇と奥で川向かいに建つ南郷の各災害公営住宅が重なって見えています。
更に右隣。右手に幸町の災害公営住宅が見え、ようやく1周(^_^;) 大変お疲れ様でしたm(_ _)m
先程の災害公営住宅ですが、真ん中上「ツルハ」の看板に重なっているのが、大川川向かいに有る南郷の災害公営住宅(3棟有る内の1つ)。その左、真ん中と左端が大川手前に建つ内ノ脇災害公営住宅です。2棟とも縦に白い筋が見えます。この辺りも隙間無く建ち並んでいたのですが...(>_<)
よーく、建ち並んだ災害公営住宅を見て、「復興しましたね!」と言う人と出会います。勿論市外の人。災害公営住宅や防災集団移転の団地が出来れば復興なのでしょうか。心の底では苛つきを感じます。「復興」という文字を広辞苑等で調べてから「復興」という言葉を使って欲しい。
といってこの辺が従来のように建物で埋め尽くされることは無い....とは思います。確か規制も有ったかと。それにしても10年です。
そして震災を契機に市外へ行った市民がまだ戻っていない...。OHNO-YOU夫妻も、QPO夫妻も、寮母夫妻も、運転手のタカ夫妻も、酒好きイ夫妻も、富熊夫妻も(>_<) 市の人口は震災を境に大きく減りました。
唯一、いや二つか、建設業界と飲食業界は一時復興したと言えたのでしょうけれど、ピークが過ぎた今、遠縁の建設屋は出稼ぎに。コロナも有って飲食店は閉める所も出ています。
前政権時、米中貿易摩擦やコロナまでは長い好景気が続いた...と自画自賛したような政府発表が有っても、統計の原材料をいじくったようでも有り、大本営発表だったのでしょうね、当地には好景気の臭いも無かったかと。建設業界と飲食業界を除く(^_^;)
この3月で10年が経ちました。でも、こんな現状。次の10年で100%の「復旧」を超えられるのでしょうか。少子高齢化、人口減等々も絡み、被災地の前途はまだまだ大変かと(>_<) 我も微力ながら、100%を超える為に役に立ちたいと思います。微力(^_^;)
先程、ヨコミー奥様のおリュウさんが「明日は早く起きてね!」と文字上は優しく呼びかけたのですが、イントネーションは超怖っ!! (>_<) 明日は早く起きなきゃ(^_^;)
おしまいm(_ _)m
復活近い大谷海水浴場 気仙沼の今 20210208 [東日本大震災]
こんにちは、ヨコミーです。
ここは気仙沼市本吉町風の丘。
やはりシーズンなので、毎日のように強い西風が吹きます(>_<) 庭に置いた長椅子には、強風で舞上げられた大きめの砂粒が溜まることも(>_<) この辺りは金山が多いので、長椅子の上に砂金でも溜まってくれれば御の字ですが...(^_^;)
ヨコミー奥様のおリュウさんに逃げられた2月8日月曜日、お昼をどうしようかなぁ...と。幸い?郵便局に差し出す荷物が有り、出たついでに近くのカフェでランチを....と(^_^)v
でも、出たからには何か成果を...ということで、東日本大震災による大津波で殆どの砂が流された...、まあ正しくはJR大谷海岸駅やレール、道の駅、近くの旅館、ドライブイン、コンビニ、民家、自動車整備工場等々が流された大谷(おおや)海岸(大谷海水浴場)の今を、東側から見てみました。あっ、長い松林も流されました(>_<)
※写真はクリックすると大きくなります。と書いてなくても大きくなります(^_^;)
国道45号に接する大谷郵便局のすぐ南に旧道の分かれ道が有り、旧道を経由してうねうねと進み、先のちょっとした丘を登り切ると大谷海岸の東端に出ます。
丘を登り切ると、そこは漁港だった....と、トンネルを抜けると....調で(^_^;) 小さな三島(みしま)漁港です。
まず周囲をご紹介し、その後にアップで(^_^)v とりあえずの目印に、アップは防波堤の向こう側、写真左から右へ1/4付近に見える、左が白色、直ぐ右が土色の海岸から始まります。
右隣です。大谷海水浴場だったところ。ここだけ見ると湖みたいです。右端、一番手前の防潮堤は完成しましたが、続く土色の所は???? 正面奥は今盛んに施工中です。
更に右側です。防潮堤の背中側が分かります。右側の囲いは、松の幼木を育てています。
ちょっと気にして欲しいのは、囲いの真ん中奥に見える、木がちょっと茂った小山を覚えていてください。
では、アップです。
最初の写真で見えていた白色と土色です。天ヶ沢(あまがさわ)に在る海岸の崖が崩れ、先日まで工事が続いていました。
右端で続いているのは漁港を守る防波堤の波消しブロックですが...。
右続きは日門(ひかど)漁港です。防波堤は陸側から見るとコンクリートでスマートに見えますが、荒波から守るため、外海側に波消しブロックが沢山(^_^;)
手前の防波堤からも、消波ブロックの頭が見えています(^_^)v
東日本大震災による大津波は結構高く押し寄せ、左のお宅はギリギリだったかと。真ん中奥に建っている、立っているのは復旧工事用に出来た生コンのプラントですが、2階建て工場の屋根が隠れるくらいまで大津波が押し寄せました(>_<) その屋根の高さに国道が在り、沿道沿いの食堂や民家は大規模半壊程の浸水がありました。
右続きの日門海岸です。灯台は左端ですが、その直ぐ右奥には以前紹介したウミネコがいっぱいの島・桜田島が小さく見えます。そこから真ん中辺りまで、夏に成ると子供たちが泳いでいます。たまには大人も。ただ、海水浴場の設定では無いので、トイレやシャワーも無く、助けてくれる船や監視員も居ません。ご注意(>_<)
真ん中ちょい左は国道沿いに在るガソリンスタンド。白い(くすんだ)ガードレールが左右に伸びています。
そのガソリンスタンド右下、渚の向こうに少しだけの砂浜が在り、直ぐ上に古びたコンクリートの護岸が右まで伸びていますが、その上にJR気仙沼線の鉄路が在りました。....た、と過去形(T_T)
更に右隣の九多丸海岸です。浜には工事の事務所が建っています。今JRは鉄路を撤去し、浜の左右に在る岩山を通しているトンネルを塞いでいます(>_<)
この地域の民家は、その多くが高い丘の上に在りました。津波に対する先人の教えでしょうか。事務所が建っている並びにも民家や別荘が少し在りましたが、全て流されてしまいました(>_<)
右隣です。中央はホテル海洋館。被災を機に5階建てとしました。左の脚が有るところはチャペル。海を見ながら結婚式も(^_^)v レストランもやっています。
その左、コンクリートの基礎?擁壁?は元病院。震災前に廃業し、グループホームが入っていましたが、身体拘束で問題化し廃業。震災後、土地を利用して自動車販売・整備工場が出来ました。
更に左、縦位置で白い円盤の一部が見えますが、JRの塞がれたトンネルです(T_T)
整備工場の奥に見える白い箱形の建物は、三陸道の除雪センター。間もなく完成かと。
真ん中に戻りますが、防潮堤はホテルの右下まで。なにせ国道と兼用ですから。
更に右です。左の薄茶色は3月に完成する新しい道の駅。右の白い建物が、現用で仮設2代目の道の駅です。
その奥に小さなトンネル(隧道)が有りますが、上が三陸道です。トンネル手前のガードレールが有る市道は左へ行くと少し下がりますが、消えている辺りが一番低いです。
以前の市道はこの辺りが馬の背のように成っていて、あの大津波は市道を越えて、木造2階建ての2階部分を2つも向こう側へ押しやりました(>_<)
そんな事実が無かったかのように三陸道は作られました。この防潮堤が有るから大丈夫!!と思うのは早いのです。今、「巨大堤防」が作られている、または作られた...といわれていますが、これはあの大津波対応ではなく、以前からいわれている宮城県沖地震による、想定される津波高対応だと。
「比較的発生頻度の高い津波」(L1 津波)への対応(>_<) せめて低いところはコンクリートで法面を保護するとか考えて欲しかった...のっす。
ずーっと手前に成りますが、防潮堤東端の拡大です。道の駅側は階段状ですが、こちらは多少出っ張っている程度。あっちは国交省と林野庁、こちらは漁港なので県なのかも。まあ、突っ込まない(^_^;)
で、実はとても寒いのです。風も強く大変(>_<) なのでランチを食べに天ヶ沢のカフェに向かいます(^_^)v
道を戻って郵便局から国道に出、大谷海岸の背後地へ近づきます。
左手の小山が、先ほど松の幼木を囲っていた先に見えた小山です。右手の砂は工事のためにちょっと盛っているようですが、左から続いて盛り上がっていました。近年確認されましたが「砂丘」でした。この上に民家や民宿も在りましたが....(>_<)
砂丘についてはこの辺りで育った方からも、やはり砂丘だと聞いています。大谷海岸は東西に延びていて、松林は有るものの南から吹く海風用かと。残念ながら、風の丘もですがこの地は西風がとても強く、西風に乗って浜から東側に砂が運ばれることは理解出来ます。
先ほど撮影した辺りは海から続く岩山なのでしょうけれど、大昔は孤立した島で、西から砂が運ばれて陸とつながり、更に溜まって砂丘に成ったのかも知れないので、暇を見つけて文献を調べてみたいです。物好き~(^_^;) サッシーじゃないですが、砂嘴って面白いですよ(^_^)v
ところで左端のテントのような物は、作業員宿舎でした。ここの国道の位置は殆ど変わっていません。うるさかったでしょう(>_<) 震災後直ぐ出来たのですが、2年3年くらい前から誰も住んでいない感じです。同じ作りのお風呂?シャワー?とおぼしき建物も在りましたが、住んでいた方、大変お疲れ様でしたm(_ _)m
ランチを食べ終えた帰路、日門漁港(手前)と大谷海岸(向こう)を見通せるところがあり、パチリ。
先ほど撮影した三島漁港は右上端に近い所。左の枝越しに見えるのが、ウミネコがいっぱい居た桜田島。
三島漁港の拡大ですが、ピントが中程の電柱に合ってしまいました(>_<) 強い寒風の中、撮影していたのは右手坂道の上。凄い風でした(>_<) 防波堤の海側に消波ブロックがいっぱいであることが分かります。
やはりもっと綺麗に撮りたいと思い、日門海岸のガソリンスタンド向かいに在るパーキングから三島漁港をパチリ。係留されている船の姿は殆ど見えません。
漁港辺りも嵐の前後は凄い波が打ち寄せます。震災後、海岸線保全のためにこの辺りから左手に鉄板が壁のように立てられたのですが、大波が当たると、飛沫というより波本体が垂直に跳ね上がっていました(>_<) 消波ブロックの必要性は十分に理解出来るのですが、どこかの企業で見栄えの良いやつを開発してくれませんか? とても良いビジネスチャンスに成ると思います(^_^)v
昨日24日のニュースで、どこかの大学の先生が、コロナ関連の10万円「特別定額給付金」は、その多くが貯蓄に回された...と国会の委員会か公聴会みたいなところで話していましたが、本当でしょうか!??
ヨコミーが時々巡回しているブログでは、そのお金で「買った」と書いている方が何人も居たし、前倒しで消費したという方も居ました(^_^;)
ヨコミーもナニを買って(^_^;)、更には行ったことも無いカフェや食堂に、ちょこちょこと出向いています。あっ、テイクアウトを含む昼食です(^_^)v
若い時でもカフェや喫茶店には滅多に行かないし、仕事の日は弁当、休みの日は母やおリュウさんの餌付け(^_^;) そんなヨコミーは律儀なのかも(^_^)v
あの先生はどうやって調べたのでしょうか? 今流行のビッグデータには、個人が特定されないように普通預金口座の流れが出ていて、10万円入金後の金の流れでも調べたのでしょうか?
ついでに普通預金口座から10万円が下ろされた日に、定期預金口座へお金が回ったか否かも、パソコンのキーをポチッと押して調べたのかも知れませんよ(^_^;)
まだ消費に回していない方は、趣旨に則り、明日からでも消費に回してください(^_^)v
あっ、明日もおリュウさんに逃げられる....(>_<) 道の駅大谷海岸のメカカレーは美味しいので行ってみようかな...。うーん、「メカ」って機械じゃなく、女梶木(めかじき)です(^_^;) 気仙沼の名産品(^_^)v でもそのうち、頂いたお金の収支をちょっと計算してみたいです。赤字はちょっとだけにしたいですね(^_^;)
工事の途中ではありますが、大谷海水浴場の再開は近いと感じました。
おしまいm(_ _)m
ここは気仙沼市本吉町風の丘。
やはりシーズンなので、毎日のように強い西風が吹きます(>_<) 庭に置いた長椅子には、強風で舞上げられた大きめの砂粒が溜まることも(>_<) この辺りは金山が多いので、長椅子の上に砂金でも溜まってくれれば御の字ですが...(^_^;)
ヨコミー奥様のおリュウさんに逃げられた2月8日月曜日、お昼をどうしようかなぁ...と。幸い?郵便局に差し出す荷物が有り、出たついでに近くのカフェでランチを....と(^_^)v
でも、出たからには何か成果を...ということで、東日本大震災による大津波で殆どの砂が流された...、まあ正しくはJR大谷海岸駅やレール、道の駅、近くの旅館、ドライブイン、コンビニ、民家、自動車整備工場等々が流された大谷(おおや)海岸(大谷海水浴場)の今を、東側から見てみました。あっ、長い松林も流されました(>_<)
※写真はクリックすると大きくなります。と書いてなくても大きくなります(^_^;)
国道45号に接する大谷郵便局のすぐ南に旧道の分かれ道が有り、旧道を経由してうねうねと進み、先のちょっとした丘を登り切ると大谷海岸の東端に出ます。
丘を登り切ると、そこは漁港だった....と、トンネルを抜けると....調で(^_^;) 小さな三島(みしま)漁港です。
まず周囲をご紹介し、その後にアップで(^_^)v とりあえずの目印に、アップは防波堤の向こう側、写真左から右へ1/4付近に見える、左が白色、直ぐ右が土色の海岸から始まります。
右隣です。大谷海水浴場だったところ。ここだけ見ると湖みたいです。右端、一番手前の防潮堤は完成しましたが、続く土色の所は???? 正面奥は今盛んに施工中です。
更に右側です。防潮堤の背中側が分かります。右側の囲いは、松の幼木を育てています。
ちょっと気にして欲しいのは、囲いの真ん中奥に見える、木がちょっと茂った小山を覚えていてください。
では、アップです。
最初の写真で見えていた白色と土色です。天ヶ沢(あまがさわ)に在る海岸の崖が崩れ、先日まで工事が続いていました。
右端で続いているのは漁港を守る防波堤の波消しブロックですが...。
右続きは日門(ひかど)漁港です。防波堤は陸側から見るとコンクリートでスマートに見えますが、荒波から守るため、外海側に波消しブロックが沢山(^_^;)
手前の防波堤からも、消波ブロックの頭が見えています(^_^)v
東日本大震災による大津波は結構高く押し寄せ、左のお宅はギリギリだったかと。真ん中奥に建っている、立っているのは復旧工事用に出来た生コンのプラントですが、2階建て工場の屋根が隠れるくらいまで大津波が押し寄せました(>_<) その屋根の高さに国道が在り、沿道沿いの食堂や民家は大規模半壊程の浸水がありました。
右続きの日門海岸です。灯台は左端ですが、その直ぐ右奥には以前紹介したウミネコがいっぱいの島・桜田島が小さく見えます。そこから真ん中辺りまで、夏に成ると子供たちが泳いでいます。たまには大人も。ただ、海水浴場の設定では無いので、トイレやシャワーも無く、助けてくれる船や監視員も居ません。ご注意(>_<)
真ん中ちょい左は国道沿いに在るガソリンスタンド。白い(くすんだ)ガードレールが左右に伸びています。
そのガソリンスタンド右下、渚の向こうに少しだけの砂浜が在り、直ぐ上に古びたコンクリートの護岸が右まで伸びていますが、その上にJR気仙沼線の鉄路が在りました。....た、と過去形(T_T)
更に右隣の九多丸海岸です。浜には工事の事務所が建っています。今JRは鉄路を撤去し、浜の左右に在る岩山を通しているトンネルを塞いでいます(>_<)
この地域の民家は、その多くが高い丘の上に在りました。津波に対する先人の教えでしょうか。事務所が建っている並びにも民家や別荘が少し在りましたが、全て流されてしまいました(>_<)
右隣です。中央はホテル海洋館。被災を機に5階建てとしました。左の脚が有るところはチャペル。海を見ながら結婚式も(^_^)v レストランもやっています。
その左、コンクリートの基礎?擁壁?は元病院。震災前に廃業し、グループホームが入っていましたが、身体拘束で問題化し廃業。震災後、土地を利用して自動車販売・整備工場が出来ました。
更に左、縦位置で白い円盤の一部が見えますが、JRの塞がれたトンネルです(T_T)
整備工場の奥に見える白い箱形の建物は、三陸道の除雪センター。間もなく完成かと。
真ん中に戻りますが、防潮堤はホテルの右下まで。なにせ国道と兼用ですから。
更に右です。左の薄茶色は3月に完成する新しい道の駅。右の白い建物が、現用で仮設2代目の道の駅です。
その奥に小さなトンネル(隧道)が有りますが、上が三陸道です。トンネル手前のガードレールが有る市道は左へ行くと少し下がりますが、消えている辺りが一番低いです。
以前の市道はこの辺りが馬の背のように成っていて、あの大津波は市道を越えて、木造2階建ての2階部分を2つも向こう側へ押しやりました(>_<)
そんな事実が無かったかのように三陸道は作られました。この防潮堤が有るから大丈夫!!と思うのは早いのです。今、「巨大堤防」が作られている、または作られた...といわれていますが、これはあの大津波対応ではなく、以前からいわれている宮城県沖地震による、想定される津波高対応だと。
「比較的発生頻度の高い津波」(L1 津波)への対応(>_<) せめて低いところはコンクリートで法面を保護するとか考えて欲しかった...のっす。
ずーっと手前に成りますが、防潮堤東端の拡大です。道の駅側は階段状ですが、こちらは多少出っ張っている程度。あっちは国交省と林野庁、こちらは漁港なので県なのかも。まあ、突っ込まない(^_^;)
で、実はとても寒いのです。風も強く大変(>_<) なのでランチを食べに天ヶ沢のカフェに向かいます(^_^)v
道を戻って郵便局から国道に出、大谷海岸の背後地へ近づきます。
左手の小山が、先ほど松の幼木を囲っていた先に見えた小山です。右手の砂は工事のためにちょっと盛っているようですが、左から続いて盛り上がっていました。近年確認されましたが「砂丘」でした。この上に民家や民宿も在りましたが....(>_<)
砂丘についてはこの辺りで育った方からも、やはり砂丘だと聞いています。大谷海岸は東西に延びていて、松林は有るものの南から吹く海風用かと。残念ながら、風の丘もですがこの地は西風がとても強く、西風に乗って浜から東側に砂が運ばれることは理解出来ます。
先ほど撮影した辺りは海から続く岩山なのでしょうけれど、大昔は孤立した島で、西から砂が運ばれて陸とつながり、更に溜まって砂丘に成ったのかも知れないので、暇を見つけて文献を調べてみたいです。物好き~(^_^;) サッシーじゃないですが、砂嘴って面白いですよ(^_^)v
ところで左端のテントのような物は、作業員宿舎でした。ここの国道の位置は殆ど変わっていません。うるさかったでしょう(>_<) 震災後直ぐ出来たのですが、2年3年くらい前から誰も住んでいない感じです。同じ作りのお風呂?シャワー?とおぼしき建物も在りましたが、住んでいた方、大変お疲れ様でしたm(_ _)m
ランチを食べ終えた帰路、日門漁港(手前)と大谷海岸(向こう)を見通せるところがあり、パチリ。
先ほど撮影した三島漁港は右上端に近い所。左の枝越しに見えるのが、ウミネコがいっぱい居た桜田島。
三島漁港の拡大ですが、ピントが中程の電柱に合ってしまいました(>_<) 強い寒風の中、撮影していたのは右手坂道の上。凄い風でした(>_<) 防波堤の海側に消波ブロックがいっぱいであることが分かります。
やはりもっと綺麗に撮りたいと思い、日門海岸のガソリンスタンド向かいに在るパーキングから三島漁港をパチリ。係留されている船の姿は殆ど見えません。
漁港辺りも嵐の前後は凄い波が打ち寄せます。震災後、海岸線保全のためにこの辺りから左手に鉄板が壁のように立てられたのですが、大波が当たると、飛沫というより波本体が垂直に跳ね上がっていました(>_<) 消波ブロックの必要性は十分に理解出来るのですが、どこかの企業で見栄えの良いやつを開発してくれませんか? とても良いビジネスチャンスに成ると思います(^_^)v
昨日24日のニュースで、どこかの大学の先生が、コロナ関連の10万円「特別定額給付金」は、その多くが貯蓄に回された...と国会の委員会か公聴会みたいなところで話していましたが、本当でしょうか!??
ヨコミーが時々巡回しているブログでは、そのお金で「買った」と書いている方が何人も居たし、前倒しで消費したという方も居ました(^_^;)
ヨコミーもナニを買って(^_^;)、更には行ったことも無いカフェや食堂に、ちょこちょこと出向いています。あっ、テイクアウトを含む昼食です(^_^)v
若い時でもカフェや喫茶店には滅多に行かないし、仕事の日は弁当、休みの日は母やおリュウさんの餌付け(^_^;) そんなヨコミーは律儀なのかも(^_^)v
あの先生はどうやって調べたのでしょうか? 今流行のビッグデータには、個人が特定されないように普通預金口座の流れが出ていて、10万円入金後の金の流れでも調べたのでしょうか?
ついでに普通預金口座から10万円が下ろされた日に、定期預金口座へお金が回ったか否かも、パソコンのキーをポチッと押して調べたのかも知れませんよ(^_^;)
まだ消費に回していない方は、趣旨に則り、明日からでも消費に回してください(^_^)v
あっ、明日もおリュウさんに逃げられる....(>_<) 道の駅大谷海岸のメカカレーは美味しいので行ってみようかな...。うーん、「メカ」って機械じゃなく、女梶木(めかじき)です(^_^;) 気仙沼の名産品(^_^)v でもそのうち、頂いたお金の収支をちょっと計算してみたいです。赤字はちょっとだけにしたいですね(^_^;)
工事の途中ではありますが、大谷海水浴場の再開は近いと感じました。
おしまいm(_ _)m