国道45号沖ノ田川付近 気仙沼の今 20210118 [東日本大震災]
こんにちは、ヨコミーです。
ここは気仙沼市本吉町風の丘。
昨日1月29日の夜は昼間からの風が力を増し、ボロい我が家が揺すられるほどに(>_<)
雪の舞う日は多いのですが、青空もそれなりに。ただ、寒さの峠は越えたかなぁ....という感じです。なにせ今冬は厳しい寒さが早く来ました。
小寒になり、とても震えていたので大寒には凍る思いかなぁ....と思ったら、例年に無い無気力な大寒でした(^_^;)
といって春めいた訳じゃ無く、それなりの寒さでしたが、寒さのピークは越え、節分を過ぎたかなぁ....と思わせる大寒でした。
最近チョコチョコと出掛けなければならないことがあって、なかなかブログの更新が....(>_<)
小ネタは有るのですが、中ネタと古ネタで構成してみました。
1月18日昼前、用事を足しての帰路、気仙沼市街地から国道45号を南下すると、車で30分も走らないうちに旧・本吉町との境に出ます。
この交差点が境です。奥が南。震災後多くの交通信号機が復旧によってLED化されました。ところがここの交差点は夜に通ることが多く、ヨコミーには新しい信号機が眩し過ぎました(>_<)
右端のコンビニ(写真は駐車場と看板のみ(^_^;)は震災後に出来ました。中央奥に小さくアーチが見えます。左端に太平洋が微かに見えるのですが、薄いです(>_<) 岩礁がちょっと(^_^;) その下で水平に伸びているのがお伊勢浜の防潮堤。
アーチが近づいてきました。
東日本大震災の大津波でJR気仙沼線は大きな被害を受け、JRは国に支援を要請しました。しかし要請は蹴られ、JRは次に地元である気仙沼市や南三陸町に何百億円もの負担を求めてきましたが市町はそれに応える財力が無く...(>_<) 結局鉄路はバス化されてしまいました(>_<)
JRは鉄路を引き剥がし、低い土地は盛土し、低い鉄橋は高くしています。その鉄橋がアーチです。
太平洋は左。薄いです(^_^;) 土色が河口付近で左側は防潮堤、右側が沖ノ田川の堤防です。
アーチから左手前に伸びる現場を見ると、用地の都合か路線の盛土は断面が台形じゃ無く、外側がコングリートのパネルの様な物で覆われた縦長です。
このJR路線と今走っている道路との間が昨年までの国道45号でした。手前のガードレールが邪魔ですが、盛り上げられた様子が分かります。
因みに今走っているこの路面には縦の溝が切られています。「何とか加工」とかのテスト?施工のようで橋の北側だけです。凍結時の横ずれ防止でしょうか?排水性を高めるものでしょうか、なにやら書いてはあるのですが、走行時に読める大きさではありません(^_^;)
西側です。が、助手席からの撮影もあって、分かるのは河川の堤防くらい。すみません(>_<)
あっという間にアーチの脇まで来ました。左下の川水は濁っていますが、オイルフェンスみたいなやつが浮いています。
アーチが過ぎたら河口が見えました。震災前は河口にも小さな橋が有り、それも高く作り替えられました。以前は河口付近でサーフィンを楽しむ人たちを見掛けましたが、今は工事で分かりません。
右に見えるトンネル状のものは、以前小さな踏切があったのでその代替かと。
左手の黄色い重機がある所が旧・国道。その左がJRの路線です。
右奥は通称・大谷の街ですが、この丘にも大津波が押し寄せました。多くは改修したり新築しましたが、解体したままのお宅も....(>_<) 左手の丘は海側ですがやや小高いので被災は免れました。
さあお昼時間が近くなりました....と店じまいしようと思ったら、丁度重ね合わせられるような写真ではありませんが、震災後の写真があったことを思い出しましたので、以下に載せます。
2011年12月14日の撮影の、唯一この辺りを北側から撮った写真です。南北の位置は、南から来た時の右折レーンが見えることから凡そコンビニの前。そして旧道なので東西でいえばそのやや東側の旧道から。右の真ん中辺りに沖ノ田川の橋が在ります。
水田だった左には瓦礫が集められ、更に左側に建てられたプラントで多くが処理されました。
2011年4月22日朝7時前の撮影です。以下3枚は同時刻です。北に走っている途中でのパチリです。震災後40日余り経って初めて自宅に泊まった翌朝、避難所の手伝いに行く途中でした。
右端の木は、2枚上の写真に見える重機の向こうに有る木かと。JRの鉄路が浮いて傾いています。
左奥に見える車の手前が沖ノ田橋。中央から右に見えるコンクリートの残骸はJR気仙沼線の鉄路が通っていた鉄橋の残骸。
トップの写真に見えた交差点が右奥です。あれはあちら側から撮りました。
コンビニは交差点左手のお宅と中央に見える残骸となったビニールハウスとの間に出来ました。ここの辺に写っているお宅は割と小高く、津波の被害は無かったかと。
でもすぐ海側となる右手写真外の家々は数多く被災し、職場のかっちゃん宅は屋台骨がやられて解体。ご近所の先輩宅は夫婦と親が流され、まだ戻っていません(>_<)
気仙沼だけじゃ無いとは思いますが、震災の傷跡はまだまだ癒えていません。増して人の心などは...。
おしまいm(_ _)m
ここは気仙沼市本吉町風の丘。
昨日1月29日の夜は昼間からの風が力を増し、ボロい我が家が揺すられるほどに(>_<)
雪の舞う日は多いのですが、青空もそれなりに。ただ、寒さの峠は越えたかなぁ....という感じです。なにせ今冬は厳しい寒さが早く来ました。
小寒になり、とても震えていたので大寒には凍る思いかなぁ....と思ったら、例年に無い無気力な大寒でした(^_^;)
といって春めいた訳じゃ無く、それなりの寒さでしたが、寒さのピークは越え、節分を過ぎたかなぁ....と思わせる大寒でした。
最近チョコチョコと出掛けなければならないことがあって、なかなかブログの更新が....(>_<)
小ネタは有るのですが、中ネタと古ネタで構成してみました。
1月18日昼前、用事を足しての帰路、気仙沼市街地から国道45号を南下すると、車で30分も走らないうちに旧・本吉町との境に出ます。
この交差点が境です。奥が南。震災後多くの交通信号機が復旧によってLED化されました。ところがここの交差点は夜に通ることが多く、ヨコミーには新しい信号機が眩し過ぎました(>_<)
右端のコンビニ(写真は駐車場と看板のみ(^_^;)は震災後に出来ました。中央奥に小さくアーチが見えます。左端に太平洋が微かに見えるのですが、薄いです(>_<) 岩礁がちょっと(^_^;) その下で水平に伸びているのがお伊勢浜の防潮堤。
アーチが近づいてきました。
東日本大震災の大津波でJR気仙沼線は大きな被害を受け、JRは国に支援を要請しました。しかし要請は蹴られ、JRは次に地元である気仙沼市や南三陸町に何百億円もの負担を求めてきましたが市町はそれに応える財力が無く...(>_<) 結局鉄路はバス化されてしまいました(>_<)
JRは鉄路を引き剥がし、低い土地は盛土し、低い鉄橋は高くしています。その鉄橋がアーチです。
太平洋は左。薄いです(^_^;) 土色が河口付近で左側は防潮堤、右側が沖ノ田川の堤防です。
アーチから左手前に伸びる現場を見ると、用地の都合か路線の盛土は断面が台形じゃ無く、外側がコングリートのパネルの様な物で覆われた縦長です。
このJR路線と今走っている道路との間が昨年までの国道45号でした。手前のガードレールが邪魔ですが、盛り上げられた様子が分かります。
因みに今走っているこの路面には縦の溝が切られています。「何とか加工」とかのテスト?施工のようで橋の北側だけです。凍結時の横ずれ防止でしょうか?排水性を高めるものでしょうか、なにやら書いてはあるのですが、走行時に読める大きさではありません(^_^;)
西側です。が、助手席からの撮影もあって、分かるのは河川の堤防くらい。すみません(>_<)
あっという間にアーチの脇まで来ました。左下の川水は濁っていますが、オイルフェンスみたいなやつが浮いています。
アーチが過ぎたら河口が見えました。震災前は河口にも小さな橋が有り、それも高く作り替えられました。以前は河口付近でサーフィンを楽しむ人たちを見掛けましたが、今は工事で分かりません。
右に見えるトンネル状のものは、以前小さな踏切があったのでその代替かと。
左手の黄色い重機がある所が旧・国道。その左がJRの路線です。
右奥は通称・大谷の街ですが、この丘にも大津波が押し寄せました。多くは改修したり新築しましたが、解体したままのお宅も....(>_<) 左手の丘は海側ですがやや小高いので被災は免れました。
さあお昼時間が近くなりました....と店じまいしようと思ったら、丁度重ね合わせられるような写真ではありませんが、震災後の写真があったことを思い出しましたので、以下に載せます。
2011年12月14日の撮影の、唯一この辺りを北側から撮った写真です。南北の位置は、南から来た時の右折レーンが見えることから凡そコンビニの前。そして旧道なので東西でいえばそのやや東側の旧道から。右の真ん中辺りに沖ノ田川の橋が在ります。
水田だった左には瓦礫が集められ、更に左側に建てられたプラントで多くが処理されました。
2011年4月22日朝7時前の撮影です。以下3枚は同時刻です。北に走っている途中でのパチリです。震災後40日余り経って初めて自宅に泊まった翌朝、避難所の手伝いに行く途中でした。
右端の木は、2枚上の写真に見える重機の向こうに有る木かと。JRの鉄路が浮いて傾いています。
左奥に見える車の手前が沖ノ田橋。中央から右に見えるコンクリートの残骸はJR気仙沼線の鉄路が通っていた鉄橋の残骸。
トップの写真に見えた交差点が右奥です。あれはあちら側から撮りました。
コンビニは交差点左手のお宅と中央に見える残骸となったビニールハウスとの間に出来ました。ここの辺に写っているお宅は割と小高く、津波の被害は無かったかと。
でもすぐ海側となる右手写真外の家々は数多く被災し、職場のかっちゃん宅は屋台骨がやられて解体。ご近所の先輩宅は夫婦と親が流され、まだ戻っていません(>_<)
気仙沼だけじゃ無いとは思いますが、震災の傷跡はまだまだ癒えていません。増して人の心などは...。
おしまいm(_ _)m
幸町一丁目から市民会館へ 気仙沼の今 20210106 [東日本大震災]
こんにちは、ヨコミーです。
ここは気仙沼市本吉町風の丘。
お勉強等諸事情でご無沙汰をしておりました。コメントへの反応も遅れ、すみませんm(_ _)m
流石に冬なので凡そ西からの強い季節風は時折吹くのですが、寒さのピークは大寒を迎える前から下り坂の様な気がします。先日はヒートテックの長袖肌着に綿の長袖Tシャツという2枚のみで玄関先に居ましたが、風は無く、日差しが有って十分過ごせました(^_^)v まっ、珍しい1日でしたが(^_^;)
さて1月6日は朝起きたら雪が積もっていたのですが、その件は機会があれば後日(^_^;)
そんな雪が残る午後、所用で市の図書館へ向かいました。時間的にランチではありませんよ(^_^;)
時間はちょっと前後しますが、目立つ写真を最初に(^_^;)
市民会館西側駐車場から気仙沼公園のグラウンドを撮影しました。駐車場には雪が残っています。グラウンドにも。左は屋外トイレ。
逆光で露出時間を切り詰めたら、太陽の上に輝く雲の色が出てきました。「彩雲」という現象です。このカットは、最近更新していないジャンル「気象」用に取っておきたかったです(^_^;)
さて時間は3分ほど遡り、幸町一丁目付近。大凡、気仙沼魚市場の西で、市役所の南に丘陵地帯が続きますが、その南端の下。正面辺りから丘に登ります。
道の左右には民家等が続いていたのですが、東日本大震災による大津波で大きく壊され、区画整理等もあって以前の建物は見えません。
因みに、正面の民家裏には被害が少なかった市営のガス工場があります。
右折して丘に登ります。奥の建物は天理教の教会。津波の被害はやや少なかったようで、早く復旧しました。
天理教の方々には当時炊き出し等で大変お世話になりました。個人的にはヨコミー家は3ヶ月も断水でしたが、大半の期間、三重県ナンバーの車を使った天理教のボランティアさんから水を頂戴しました。改めて感謝です<(_ _)>
ここは急坂の上、一部の幅が狭く、難所でした。震災後避難路として整備するため拡幅工事が行われ、昨年は通行止めもありましたが、年末までには完成したようです。この坂を、車が2列になって急いで登るような事態が起きないことを祈ります。
丘には気仙沼小学校や中学校、市図書館、市民会館等がありますが、冬場の坂道は結構大変です。
しかし、南側のこの坂は穴場です(^_^;) 冷たい北風が当たらず路面凍結しにくいし、木々に覆われているので積雪は少ないです。
ただ、拡幅工事で木々は多少切られたので、それらの効果はまだ有るのか、また雪が積もったら試走してみます(^_^;)
坂道の頂上が近くなりました。正面は市立内ノ脇(ないのわき)保育所です。
坂道の頂上からパチリ。正面は震災時には避難所にも成った気仙沼市民会館ですが、会館前の路面とは高低差が1m程有り、少しだけ下ります。
左奥の建物は気仙沼中学校の屋体です。ここも避難所となったのですが、当時屋体はとても寒く、市民会館へ移ってきたと言う方も居ました。屋体はその性格上天井が無く、屋根までの空間が高く、温めるのは困難です。いろんな災害のために屋体を避難所と指定する市町村は多いのでしょうけれど、停電時などでも少ない消費電力で温める方法が欲しいです。
奥の高い山は、旧・気仙沼町民と旧・鹿折町民のシンボル・安波山(あんばさんorあんばやま。標高238m)です。
気仙沼市民会館を西側からパチリ。正面の高い所には、緞帳や各種幕、照明、反響板等の吊り物が納められています。
それにしても雪がお空の汚れを一掃したのか、青空が綺麗です(^_^)v
ちょっと拡大です。震災時、左のシャッター前で多くの炊き出しが行われました。
真ん中にはアニメ映画のポスターが...(*^_^*) 震災前は石巻市の岡田劇場がたまに来て上映していましたが、その歴史有る劇場も大津波で社長さんもろとも流され....(>_<) まっ、社長さんは生きていましたが(^_^;)
気仙沼に劇場や映画館が無くなってもう30年位になります(>_<) 最後は平屋だった頃のイオンに有って、子供たちを連れてアニメを見に行ったものです(^_^)v
当時、右の自販機付近には、小石川医師会の某泉先生が机を出して健康相談をしていました。他のお医者さんも来られ、被災者を診ていました。大変感謝ですm(_ _)m
市民会館の向かいに有る駐車場と気仙沼公園です。震災直後から、市民会館の避難所には広島県の各地から来られた保健師さん方が支援に入られ、保健指導の傍ら避難してきた方々と毎朝公園でラジオ体操をやっていました。ヨコミーも当時避難所を手伝っていたのですが、朝は多忙でラジオ体操には参加出来ず...(^_^;)
手前の駐車場には自衛隊の「玄界の湯」が来て、汗を流すことが出来ました。本当に皆さんに感謝ですm(_ _)m
右は屋外トイレ。左端、雪が乗った建物は先ほどの内ノ脇保育所。路面は見えるガードレールの所まで高くなっています。削って低くすればなお便利なのですが、それまでの高さで道路に接していたお宅も有り...。もう1m2mも公園側を削れば良いようなものですが....。
更に右です。駐車場の奥は草野球や中学生が部活でサッカーの練習をしていたグラウンドです。
昨年春過ぎ?まで約100世帯分の仮設住宅が有りました。右の土手上に有る中学校校庭にも同じくらい。
近年このフェンスは奥に押され駐車場は1列広げられましたが、やや左手に見える4個の三角コーンから右側は駐車できるような土質になっているようです。
市民会館は何せ古い建物で、建てた昭和40年代には今のような車社会の到来を予測できなかったのでしょうね。もっとも、気仙沼は平坦地が少ないのです(>_<)
市民会館前の桜の木です。「前」とはいうものの、左上は中学校校庭の端っこ(^_^;) 純粋な市民会館の桜....というなら、建物の裏手に有る、数少ない八重桜かと。
建物裏手の下には昔、公立病院が有りました。今は国道45号気仙沼バイパスへ行った市立病院の、前身の前身。確か桜並木が有り、上と下とで桜が咲き乱れていたのかなぁ...と(^_^)v
今春の桜見物はコロナのおかげで大幅に制限されそうです(>_<) 菅総理は「躊躇なく」コロナ対策を実行すると言っていましたが、庶民の感覚とは大幅にかけ離れています。
きっとこの漢字「躊躇」は「『いそぎはし』なく」と読むのでしょう(^_^;) 次回更新される広辞苑政界版に載せるよう、発行元に依頼してみます(^_^)v
庶民の感覚とズレていて、どこを向いて政治を行っているのでしょうか。早めの心変わりをお願いしたいですが、無理ならば自民党のどなたかもおっしゃっていたように「政局」ですね(^_^)v
おしまいm(_ _)m
ここは気仙沼市本吉町風の丘。
お勉強等諸事情でご無沙汰をしておりました。コメントへの反応も遅れ、すみませんm(_ _)m
流石に冬なので凡そ西からの強い季節風は時折吹くのですが、寒さのピークは大寒を迎える前から下り坂の様な気がします。先日はヒートテックの長袖肌着に綿の長袖Tシャツという2枚のみで玄関先に居ましたが、風は無く、日差しが有って十分過ごせました(^_^)v まっ、珍しい1日でしたが(^_^;)
さて1月6日は朝起きたら雪が積もっていたのですが、その件は機会があれば後日(^_^;)
そんな雪が残る午後、所用で市の図書館へ向かいました。時間的にランチではありませんよ(^_^;)
時間はちょっと前後しますが、目立つ写真を最初に(^_^;)
市民会館西側駐車場から気仙沼公園のグラウンドを撮影しました。駐車場には雪が残っています。グラウンドにも。左は屋外トイレ。
逆光で露出時間を切り詰めたら、太陽の上に輝く雲の色が出てきました。「彩雲」という現象です。このカットは、最近更新していないジャンル「気象」用に取っておきたかったです(^_^;)
さて時間は3分ほど遡り、幸町一丁目付近。大凡、気仙沼魚市場の西で、市役所の南に丘陵地帯が続きますが、その南端の下。正面辺りから丘に登ります。
道の左右には民家等が続いていたのですが、東日本大震災による大津波で大きく壊され、区画整理等もあって以前の建物は見えません。
因みに、正面の民家裏には被害が少なかった市営のガス工場があります。
右折して丘に登ります。奥の建物は天理教の教会。津波の被害はやや少なかったようで、早く復旧しました。
天理教の方々には当時炊き出し等で大変お世話になりました。個人的にはヨコミー家は3ヶ月も断水でしたが、大半の期間、三重県ナンバーの車を使った天理教のボランティアさんから水を頂戴しました。改めて感謝です<(_ _)>
ここは急坂の上、一部の幅が狭く、難所でした。震災後避難路として整備するため拡幅工事が行われ、昨年は通行止めもありましたが、年末までには完成したようです。この坂を、車が2列になって急いで登るような事態が起きないことを祈ります。
丘には気仙沼小学校や中学校、市図書館、市民会館等がありますが、冬場の坂道は結構大変です。
しかし、南側のこの坂は穴場です(^_^;) 冷たい北風が当たらず路面凍結しにくいし、木々に覆われているので積雪は少ないです。
ただ、拡幅工事で木々は多少切られたので、それらの効果はまだ有るのか、また雪が積もったら試走してみます(^_^;)
坂道の頂上が近くなりました。正面は市立内ノ脇(ないのわき)保育所です。
坂道の頂上からパチリ。正面は震災時には避難所にも成った気仙沼市民会館ですが、会館前の路面とは高低差が1m程有り、少しだけ下ります。
左奥の建物は気仙沼中学校の屋体です。ここも避難所となったのですが、当時屋体はとても寒く、市民会館へ移ってきたと言う方も居ました。屋体はその性格上天井が無く、屋根までの空間が高く、温めるのは困難です。いろんな災害のために屋体を避難所と指定する市町村は多いのでしょうけれど、停電時などでも少ない消費電力で温める方法が欲しいです。
奥の高い山は、旧・気仙沼町民と旧・鹿折町民のシンボル・安波山(あんばさんorあんばやま。標高238m)です。
気仙沼市民会館を西側からパチリ。正面の高い所には、緞帳や各種幕、照明、反響板等の吊り物が納められています。
それにしても雪がお空の汚れを一掃したのか、青空が綺麗です(^_^)v
ちょっと拡大です。震災時、左のシャッター前で多くの炊き出しが行われました。
真ん中にはアニメ映画のポスターが...(*^_^*) 震災前は石巻市の岡田劇場がたまに来て上映していましたが、その歴史有る劇場も大津波で社長さんもろとも流され....(>_<) まっ、社長さんは生きていましたが(^_^;)
気仙沼に劇場や映画館が無くなってもう30年位になります(>_<) 最後は平屋だった頃のイオンに有って、子供たちを連れてアニメを見に行ったものです(^_^)v
当時、右の自販機付近には、小石川医師会の某泉先生が机を出して健康相談をしていました。他のお医者さんも来られ、被災者を診ていました。大変感謝ですm(_ _)m
市民会館の向かいに有る駐車場と気仙沼公園です。震災直後から、市民会館の避難所には広島県の各地から来られた保健師さん方が支援に入られ、保健指導の傍ら避難してきた方々と毎朝公園でラジオ体操をやっていました。ヨコミーも当時避難所を手伝っていたのですが、朝は多忙でラジオ体操には参加出来ず...(^_^;)
手前の駐車場には自衛隊の「玄界の湯」が来て、汗を流すことが出来ました。本当に皆さんに感謝ですm(_ _)m
右は屋外トイレ。左端、雪が乗った建物は先ほどの内ノ脇保育所。路面は見えるガードレールの所まで高くなっています。削って低くすればなお便利なのですが、それまでの高さで道路に接していたお宅も有り...。もう1m2mも公園側を削れば良いようなものですが....。
更に右です。駐車場の奥は草野球や中学生が部活でサッカーの練習をしていたグラウンドです。
昨年春過ぎ?まで約100世帯分の仮設住宅が有りました。右の土手上に有る中学校校庭にも同じくらい。
近年このフェンスは奥に押され駐車場は1列広げられましたが、やや左手に見える4個の三角コーンから右側は駐車できるような土質になっているようです。
市民会館は何せ古い建物で、建てた昭和40年代には今のような車社会の到来を予測できなかったのでしょうね。もっとも、気仙沼は平坦地が少ないのです(>_<)
市民会館前の桜の木です。「前」とはいうものの、左上は中学校校庭の端っこ(^_^;) 純粋な市民会館の桜....というなら、建物の裏手に有る、数少ない八重桜かと。
建物裏手の下には昔、公立病院が有りました。今は国道45号気仙沼バイパスへ行った市立病院の、前身の前身。確か桜並木が有り、上と下とで桜が咲き乱れていたのかなぁ...と(^_^)v
今春の桜見物はコロナのおかげで大幅に制限されそうです(>_<) 菅総理は「躊躇なく」コロナ対策を実行すると言っていましたが、庶民の感覚とは大幅にかけ離れています。
きっとこの漢字「躊躇」は「『いそぎはし』なく」と読むのでしょう(^_^;) 次回更新される広辞苑政界版に載せるよう、発行元に依頼してみます(^_^)v
庶民の感覚とズレていて、どこを向いて政治を行っているのでしょうか。早めの心変わりをお願いしたいですが、無理ならば自民党のどなたかもおっしゃっていたように「政局」ですね(^_^)v
おしまいm(_ _)m
八日町界隈 気仙沼の今 20201022 [東日本大震災]
こんにちは、ヨコミーです。
ここは気仙沼市本吉町風の丘。
最近割と強い風が吹いています。昨日までの風と違って、今日は冷たい風が吹いていました。嫌な季節がやってきました(>_<)
まあそれでも老母(ヨコミー語。「ろうはは」)は割と過ごし易い時に逝ってくれました。先週のことです。
10月27日付けの記事に続いて気仙沼市の中心部付近を紹介します。
旧・国道45号の入沢(いりさわ)入り口の交差点から左折し、市役所方面へ向かいました。本来であれば左折した通りから続けたいのですが、なにせ安全運転優先で車内からノーファインダーで撮影していたもので、ろくな写真がありません(>_<)
で、このように交通が落ち着いた八日町から。西進です。
この通りは気仙沼市が旧町時代からのメインストリートでしたが、何年も前からその名を本郷、南郷、田中前等に奪われています。
左手前の駐車場は、以前は電気屋さんが2店有った所。震災前に1店は引っ越し、他は不詳ですが確か営業を止めていました。震災の大津波で建物がやられ、直して別なお店が入っていましたが、結局は駐車場に。
真ん中はお酒の成沢商店。若い頃、職場の先輩から酒の調達を命じられ、何度か足を運びました(^_^;) 店の直ぐ向こう側から左へと振商会通りが有ります。
その先、緑色の庇が有る店は、以前は風月堂というお菓子屋さんでしたが、その後別なお菓子屋さんの支店が入っていたのですが....休み? ここは閉めた??
グーグルマップから頂いた周辺地図です。上が北、大凡西進です。成沢商店は地図では「なりさわ酒店」になっていました。
右側です。この通りは奥が三日町、手前が八日町で、通称・三八通り(さんぱちどおり)と呼ばれています。旧・国道45号。
左端は先程のお菓子屋さん支店。シャッターがみえます。その向こうは駐車場ですが、その昔は若生商店という工業系金物屋さんが有りましたが、何年も前から市街地の南へ移りました。
右端のお店は、先日ヨコミー奥様のおリュウさんが行ったら「配達中」とかで、この日も同様でした。着る物系なのに、そんなに配達が忙しいのでしょうか????
真ん中のタカヤはカバン屋さん。その先のピンク壁は後述。進みます。
1つ先の交差点から右を見ています。奥は気仙沼市役所。左はドラッグストアーですが、以前はファミリータウンハマダという大きな商業施設が有りました。市役所前でしたが経営不振で廃業。
右端は再開発事業で建てられた複合施設「ワンテンビル」。
ワンテンビルです。1階が店舗、2階が市の部署、3階、4階、屋上と有料駐車場でスタートしましたが、何年もしないうちに店舗が居なくなり、1階まで市役所が入居する羽目に。そして少しの年月が過ぎた9年前の3月11日、この通りにも東日本大震災による大津波が押し寄せ、ワンテンビルの1階部分は浸水して多くの書類が濡れ、パソコンが壊れたようです(>_<) 2階以上や本庁舎は無事。
ちょっとだけ先の左側です。ドラッグストアーの向かい。
左端は事務機屋さん。中央の下は市役所の駐車場ですが、昔はハマダの広くない駐車場でした。その奥に見える大きな建物は現在は商工会議所が入っています。以前はハマダがここの第2店舗として建てたアネックスハマダでした。
商工会議所の微妙に斜め向かいとなりますが、気仙沼郵便局です。サイドミラーに映った通りも小さいですが見て頂ければ...(^_^;)
郵便局端の向かい側です。瀬戸物屋さんは「かめこや」と言っていましたが、「亀屋」と書くんでしたね(^_^;)
真ん中に見える赤い自販機が有る店は山豊。その角を左に入ると沢田で、山の上の気仙沼小学校や市民会館へ通じます。沢田入り口から向こうが三日町二丁目です。
右奥に赤い郵便車が見えますが、大津波はあの辺りまで押し寄せました(>_<)
気仙沼市でも中心市街地の活性化が課題で、暫く前から取り組んではいるものの、なかなか。市街地の南に進出してきたイオンや、イオンと市街地を結ぶ通りを中心に、新しい商業地帯が形成されてしまいました。
また、三八通りにはハマダの閉鎖でスーパーが無くなっていました。暫く(>_<) それでも2・3年前に先程のドラッグストアーが開店し、某特派員の証言によれば客は「薬を多く揃えているスーパーマーケット」的に利用しているようです(^_^)v
とはいえ、経営者の高齢化や後継者難で、三八通りはまだまだ衰退するかも知れません。難問です(>_<)
今回は沢田入り口まで(^_^)v
おしまいm(_ _)m
ここは気仙沼市本吉町風の丘。
最近割と強い風が吹いています。昨日までの風と違って、今日は冷たい風が吹いていました。嫌な季節がやってきました(>_<)
まあそれでも老母(ヨコミー語。「ろうはは」)は割と過ごし易い時に逝ってくれました。先週のことです。
10月27日付けの記事に続いて気仙沼市の中心部付近を紹介します。
旧・国道45号の入沢(いりさわ)入り口の交差点から左折し、市役所方面へ向かいました。本来であれば左折した通りから続けたいのですが、なにせ安全運転優先で車内からノーファインダーで撮影していたもので、ろくな写真がありません(>_<)
で、このように交通が落ち着いた八日町から。西進です。
この通りは気仙沼市が旧町時代からのメインストリートでしたが、何年も前からその名を本郷、南郷、田中前等に奪われています。
左手前の駐車場は、以前は電気屋さんが2店有った所。震災前に1店は引っ越し、他は不詳ですが確か営業を止めていました。震災の大津波で建物がやられ、直して別なお店が入っていましたが、結局は駐車場に。
真ん中はお酒の成沢商店。若い頃、職場の先輩から酒の調達を命じられ、何度か足を運びました(^_^;) 店の直ぐ向こう側から左へと振商会通りが有ります。
その先、緑色の庇が有る店は、以前は風月堂というお菓子屋さんでしたが、その後別なお菓子屋さんの支店が入っていたのですが....休み? ここは閉めた??
グーグルマップから頂いた周辺地図です。上が北、大凡西進です。成沢商店は地図では「なりさわ酒店」になっていました。
右側です。この通りは奥が三日町、手前が八日町で、通称・三八通り(さんぱちどおり)と呼ばれています。旧・国道45号。
左端は先程のお菓子屋さん支店。シャッターがみえます。その向こうは駐車場ですが、その昔は若生商店という工業系金物屋さんが有りましたが、何年も前から市街地の南へ移りました。
右端のお店は、先日ヨコミー奥様のおリュウさんが行ったら「配達中」とかで、この日も同様でした。着る物系なのに、そんなに配達が忙しいのでしょうか????
真ん中のタカヤはカバン屋さん。その先のピンク壁は後述。進みます。
1つ先の交差点から右を見ています。奥は気仙沼市役所。左はドラッグストアーですが、以前はファミリータウンハマダという大きな商業施設が有りました。市役所前でしたが経営不振で廃業。
右端は再開発事業で建てられた複合施設「ワンテンビル」。
ワンテンビルです。1階が店舗、2階が市の部署、3階、4階、屋上と有料駐車場でスタートしましたが、何年もしないうちに店舗が居なくなり、1階まで市役所が入居する羽目に。そして少しの年月が過ぎた9年前の3月11日、この通りにも東日本大震災による大津波が押し寄せ、ワンテンビルの1階部分は浸水して多くの書類が濡れ、パソコンが壊れたようです(>_<) 2階以上や本庁舎は無事。
ちょっとだけ先の左側です。ドラッグストアーの向かい。
左端は事務機屋さん。中央の下は市役所の駐車場ですが、昔はハマダの広くない駐車場でした。その奥に見える大きな建物は現在は商工会議所が入っています。以前はハマダがここの第2店舗として建てたアネックスハマダでした。
商工会議所の微妙に斜め向かいとなりますが、気仙沼郵便局です。サイドミラーに映った通りも小さいですが見て頂ければ...(^_^;)
郵便局端の向かい側です。瀬戸物屋さんは「かめこや」と言っていましたが、「亀屋」と書くんでしたね(^_^;)
真ん中に見える赤い自販機が有る店は山豊。その角を左に入ると沢田で、山の上の気仙沼小学校や市民会館へ通じます。沢田入り口から向こうが三日町二丁目です。
右奥に赤い郵便車が見えますが、大津波はあの辺りまで押し寄せました(>_<)
気仙沼市でも中心市街地の活性化が課題で、暫く前から取り組んではいるものの、なかなか。市街地の南に進出してきたイオンや、イオンと市街地を結ぶ通りを中心に、新しい商業地帯が形成されてしまいました。
また、三八通りにはハマダの閉鎖でスーパーが無くなっていました。暫く(>_<) それでも2・3年前に先程のドラッグストアーが開店し、某特派員の証言によれば客は「薬を多く揃えているスーパーマーケット」的に利用しているようです(^_^)v
とはいえ、経営者の高齢化や後継者難で、三八通りはまだまだ衰退するかも知れません。難問です(>_<)
今回は沢田入り口まで(^_^)v
おしまいm(_ _)m
魚町二丁目界隈 気仙沼の今 20201022 [東日本大震災]
こんにちは、ヨコミーです。
ここは気仙沼市本吉町風の丘。
吹きましたよ、吹きましたよ。お待ちかねの強い季節風が25日(日)に(^_^)v
おおよそ北西の風で、最大瞬間風速が10m/秒を越えるやつは9月に入ってから時折吹いていましたが、13m/秒を越えたのは10月に入ってからの、この週末でした。2日に渡って。
吹く風はまだ冷たくはありませんが、これから暫くは寒い日々が続くかと思うと、もう春が恋しくなっています(^_^;)
少し前に、地元大谷海岸の防潮堤工事に関連して、嵩上げされた国道45号の一部区間が供用開始されたり、旧気仙沼市との境から南側に在る沖ノ田川を渡る国道45号の付替工事が完了し、嵩上げされた道の供用も開始されました。あの大津波から間もなく10年です。
東日本大震災直後の姿と現況を比べられるようにブログに載せたいと写真整理をしていましたが、なかなか手間が掛かり...(>_<)
でもまあ、そんなことは集大成としてやれるときにやればいいかなぁ....と気を楽にして、「気仙沼の今」をお伝えすることとしました。
集大成など、いつのことかは分かりませんが、もちろん出来ないことが多いかも知れません。しかし、まずは撮らなくては記録に残せません。先の大津波は800年周期とかいいますが、我々の知らない1500年とか2000年とかの周期を持つ津波が暫くやって来ないという保証も在りません。なので単にメモリーのゴミと化す事も恐れず、まずはパチパチと明日も撮りたいと思います(^_^;)
秋刀魚のまち・気仙沼ですが、近年は不良が続いて漁獲量は激減し、魚体も小さくなっています。
今年は更に異常で、初水揚げは1ヶ月半も遅れました。
そんな秋刀魚が続けて魚市場に水揚げされたと聞き、内湾に新しく開業した商業施設へ行ったら、なんと今日は水揚げが無かったと言われ....(>_<)
仕方なく魚屋から帰路は市役所前を経由して家に向かおうとしたら間もなく信号で引っ掛かったので、これは「タダで帰るなよ!」という御仏の思し召しと思い、周辺ををパチリ(^_^)v
中央から左、芝を貼ったような所は南町海岸(町字名)。最近は「ヒラケル」「ムカエル」「ピアー7」とか、人生の下り坂を転がる者には訳の分からぬ施設公共施設や商業施設が建ち並びましたが、震災前は汽船発着所や美味しいイタリアンの店等が入るエースポートと、4階建ての市営駐車場が在りました。
コンクリートミキサー車を挟んで右は南町三丁目。ここにも商業施設が出来、秋刀魚の宅配を頼もうかと思ったら、1日間違いでダメ(^_^;)
右端は一部店舗も入る南町一丁目の災害公営住宅。左端、丘に建つ白い建物は気仙沼プラザホテル。その下、横に続く防潮堤から白くちょっとだけ姿を覗かせているのが遊覧船の上部。
グーグルマップを借用して現在地を示します。矢印を入れたら何度やっても矢印が消えて、諦めました(>_<) すみません、真ん中のマークは小さいですm(_ _)m
写真は左へ移ります。酒造会社・男山本店の店舗を裏側から。この建物は木造3階建てで、確かモルタルを塗っていたかと。
東日本大震災で1階部分が壊され、現地付近に鎮座。最近1階部分を作って乗せ、修復しました。
今はまだ更地が多いのですが、大津波の前は左の角には「やまと食堂」が在り、1軒挟んで潰れた水産会社の建物、右端の角には乾物屋さんだろうかお店が在り、その中の右端をどこかの会社が間借りしていました。なので、以前はこのような風景を見ることは在りませんでした。
写真左、中程に...。
お神明(しんめい)さんの上部分が見えていたので拡大。お社が見えます。本殿ではないようです。
写真は更に左へ。一番手前にある信号機が乗っている柱の奥、左右に広がるのは元防衛大臣のご実家が経営する旅館。聞けばここの屋上には防衛用の2連バズーカ砲みたいなものが有るとか。いつか行ってみたい(^_^;)
宿右奥から裏側を通って左上の丘まで続くのが魚町一丁目と入沢の災害公営住宅群です。
実は赤信号で止まっているときのパチリでして(^_^;)、左右の道は県道、旧国道45号でした。左は市役所や気仙沼駅方面。右はあの300tもの運搬船が打ち上げられた鹿折地区や陸前高田方面。
正面へ進むと、左の丘へ登る手摺りが見えていますが、その上にはお宮が有り、近くの人は「おぐまはん」とか「おごまさん」と言っていました。「駒」なんでしょうけれど(^_^;)
正面をもう少し進むと、男山本店の酒蔵が有りました。ヨコミーはその昔、一つ東の沢に有る角星酒造の倉と共に、毎月1回はお邪魔していました。飲むんじゃなくて仕事(^_^;)
おおっと、そろそろ信号が変わりそうです。
それにしても政府の方々は昼間からお酒でも飲んでいるのでしょうか。あの「日本学術会議新会員6名任命拒否事件」です。
その昔、推薦された方々は全て任命すると政府自民党は国会で答弁しておきながら、今になって「任命拒否はあり得ると言うのが一貫した考え方で、解釈変更はしていない」と政府は述べています。こんな考え方は表に出てこなかったし、事務方は2年前に文書にしていたと言いますがこれも表には出ておらず、公的には無いも同然。内緒でしたね(^_^)v
でもこれって、明らかに矛盾していますよね。何杯引っ掛けたらこのように発言出来るのでしょうか(^_^)v
安倍政権ではそれまでの自民党政権が言ってこなかったことを内閣で決めて解釈変更し、進めてきた安保法制問題もありました。ハッキリと言って解釈を変えた安倍前総理がとても素晴らしい人に思えるほどの今回の事件(^_^)v
さ菅の総理は「総合的・俯瞰的観点から」とか「会員は公務員」だとの理由を挙げて正当化していますが、政府の政策を批判したからといって任命を拒否するのは「総合的・俯瞰的観点から」のお言葉に矛盾していると思うので菅(^_^)v
ひょっとしてお国の方々が使う辞書と平民が使う辞書は解釈が違って書いてあるので菅?(^_^;)
でも学術会議のトップ経験者が言っているように、近年は人選に政府が口を挟んでいたようですね。異論を挟むので煙たかったのでしょう。
その証拠に、自民党はすぐ日本学術会議の見直しに躍起になって取り掛かりました。「法律に基づいた仕事は近年やっていない」と批判していましたが、それは答申がゼロだったことを言うのでしょうけれど、それは政府が諮問しないため。責任は政府側にあります。やはり煙たかったのでしょう。
因みに学術会議が出した提言の数は、ニュースによれば結構有りましたね。そういうことはセンセー方は語りません。意図的でしょう(^_^)v 学校の先生方は別として、このようなセンセー方のお言葉はそのまま受け止めてはいけません(^_^;)
某お大臣などは学術会議の見直しに「聖域無しで」とか言っておられますが、まずは桜を見る会から遡っての見直しで菅(^_^)v
桜を見る会みたいな美味しい所は「聖域」として今回も残すんで菅?(^_^;)
公費で、しかも党主催と思わせるような人選で税金を「わたくし」したような、そして美味しくご馳走になった面々の懺悔からお聞きしたいで菅(^_^)v
見直しde菅「まずは隗より始めよ」(^_^)v 流石、昔の中国は良かった(^_^;)
今回の事件、つまりは「邪魔者は消せ!」なんでしょうね。これが「圧力」じゃないなんて、何杯引っ掛ければ言えることなのでしょうか(^_^)v
うーん、そろそろ仕事に取り掛からなくては成らないので、今夜のところはこれにてお終いとします。お付き合い誠にありがとうございますm(_ _)m
ここは気仙沼市本吉町風の丘。
吹きましたよ、吹きましたよ。お待ちかねの強い季節風が25日(日)に(^_^)v
おおよそ北西の風で、最大瞬間風速が10m/秒を越えるやつは9月に入ってから時折吹いていましたが、13m/秒を越えたのは10月に入ってからの、この週末でした。2日に渡って。
吹く風はまだ冷たくはありませんが、これから暫くは寒い日々が続くかと思うと、もう春が恋しくなっています(^_^;)
少し前に、地元大谷海岸の防潮堤工事に関連して、嵩上げされた国道45号の一部区間が供用開始されたり、旧気仙沼市との境から南側に在る沖ノ田川を渡る国道45号の付替工事が完了し、嵩上げされた道の供用も開始されました。あの大津波から間もなく10年です。
東日本大震災直後の姿と現況を比べられるようにブログに載せたいと写真整理をしていましたが、なかなか手間が掛かり...(>_<)
でもまあ、そんなことは集大成としてやれるときにやればいいかなぁ....と気を楽にして、「気仙沼の今」をお伝えすることとしました。
集大成など、いつのことかは分かりませんが、もちろん出来ないことが多いかも知れません。しかし、まずは撮らなくては記録に残せません。先の大津波は800年周期とかいいますが、我々の知らない1500年とか2000年とかの周期を持つ津波が暫くやって来ないという保証も在りません。なので単にメモリーのゴミと化す事も恐れず、まずはパチパチと明日も撮りたいと思います(^_^;)
秋刀魚のまち・気仙沼ですが、近年は不良が続いて漁獲量は激減し、魚体も小さくなっています。
今年は更に異常で、初水揚げは1ヶ月半も遅れました。
そんな秋刀魚が続けて魚市場に水揚げされたと聞き、内湾に新しく開業した商業施設へ行ったら、なんと今日は水揚げが無かったと言われ....(>_<)
仕方なく魚屋から帰路は市役所前を経由して家に向かおうとしたら間もなく信号で引っ掛かったので、これは「タダで帰るなよ!」という御仏の思し召しと思い、周辺ををパチリ(^_^)v
中央から左、芝を貼ったような所は南町海岸(町字名)。最近は「ヒラケル」「ムカエル」「ピアー7」とか、人生の下り坂を転がる者には訳の分からぬ施設公共施設や商業施設が建ち並びましたが、震災前は汽船発着所や美味しいイタリアンの店等が入るエースポートと、4階建ての市営駐車場が在りました。
コンクリートミキサー車を挟んで右は南町三丁目。ここにも商業施設が出来、秋刀魚の宅配を頼もうかと思ったら、1日間違いでダメ(^_^;)
右端は一部店舗も入る南町一丁目の災害公営住宅。左端、丘に建つ白い建物は気仙沼プラザホテル。その下、横に続く防潮堤から白くちょっとだけ姿を覗かせているのが遊覧船の上部。
グーグルマップを借用して現在地を示します。矢印を入れたら何度やっても矢印が消えて、諦めました(>_<) すみません、真ん中のマークは小さいですm(_ _)m
写真は左へ移ります。酒造会社・男山本店の店舗を裏側から。この建物は木造3階建てで、確かモルタルを塗っていたかと。
東日本大震災で1階部分が壊され、現地付近に鎮座。最近1階部分を作って乗せ、修復しました。
今はまだ更地が多いのですが、大津波の前は左の角には「やまと食堂」が在り、1軒挟んで潰れた水産会社の建物、右端の角には乾物屋さんだろうかお店が在り、その中の右端をどこかの会社が間借りしていました。なので、以前はこのような風景を見ることは在りませんでした。
写真左、中程に...。
お神明(しんめい)さんの上部分が見えていたので拡大。お社が見えます。本殿ではないようです。
写真は更に左へ。一番手前にある信号機が乗っている柱の奥、左右に広がるのは元防衛大臣のご実家が経営する旅館。聞けばここの屋上には防衛用の2連バズーカ砲みたいなものが有るとか。いつか行ってみたい(^_^;)
宿右奥から裏側を通って左上の丘まで続くのが魚町一丁目と入沢の災害公営住宅群です。
実は赤信号で止まっているときのパチリでして(^_^;)、左右の道は県道、旧国道45号でした。左は市役所や気仙沼駅方面。右はあの300tもの運搬船が打ち上げられた鹿折地区や陸前高田方面。
正面へ進むと、左の丘へ登る手摺りが見えていますが、その上にはお宮が有り、近くの人は「おぐまはん」とか「おごまさん」と言っていました。「駒」なんでしょうけれど(^_^;)
正面をもう少し進むと、男山本店の酒蔵が有りました。ヨコミーはその昔、一つ東の沢に有る角星酒造の倉と共に、毎月1回はお邪魔していました。飲むんじゃなくて仕事(^_^;)
おおっと、そろそろ信号が変わりそうです。
それにしても政府の方々は昼間からお酒でも飲んでいるのでしょうか。あの「日本学術会議新会員6名任命拒否事件」です。
その昔、推薦された方々は全て任命すると政府自民党は国会で答弁しておきながら、今になって「任命拒否はあり得ると言うのが一貫した考え方で、解釈変更はしていない」と政府は述べています。こんな考え方は表に出てこなかったし、事務方は2年前に文書にしていたと言いますがこれも表には出ておらず、公的には無いも同然。内緒でしたね(^_^)v
でもこれって、明らかに矛盾していますよね。何杯引っ掛けたらこのように発言出来るのでしょうか(^_^)v
安倍政権ではそれまでの自民党政権が言ってこなかったことを内閣で決めて解釈変更し、進めてきた安保法制問題もありました。ハッキリと言って解釈を変えた安倍前総理がとても素晴らしい人に思えるほどの今回の事件(^_^)v
さ菅の総理は「総合的・俯瞰的観点から」とか「会員は公務員」だとの理由を挙げて正当化していますが、政府の政策を批判したからといって任命を拒否するのは「総合的・俯瞰的観点から」のお言葉に矛盾していると思うので菅(^_^)v
ひょっとしてお国の方々が使う辞書と平民が使う辞書は解釈が違って書いてあるので菅?(^_^;)
でも学術会議のトップ経験者が言っているように、近年は人選に政府が口を挟んでいたようですね。異論を挟むので煙たかったのでしょう。
その証拠に、自民党はすぐ日本学術会議の見直しに躍起になって取り掛かりました。「法律に基づいた仕事は近年やっていない」と批判していましたが、それは答申がゼロだったことを言うのでしょうけれど、それは政府が諮問しないため。責任は政府側にあります。やはり煙たかったのでしょう。
因みに学術会議が出した提言の数は、ニュースによれば結構有りましたね。そういうことはセンセー方は語りません。意図的でしょう(^_^)v 学校の先生方は別として、このようなセンセー方のお言葉はそのまま受け止めてはいけません(^_^;)
某お大臣などは学術会議の見直しに「聖域無しで」とか言っておられますが、まずは桜を見る会から遡っての見直しで菅(^_^)v
桜を見る会みたいな美味しい所は「聖域」として今回も残すんで菅?(^_^;)
公費で、しかも党主催と思わせるような人選で税金を「わたくし」したような、そして美味しくご馳走になった面々の懺悔からお聞きしたいで菅(^_^)v
見直しde菅「まずは隗より始めよ」(^_^)v 流石、昔の中国は良かった(^_^;)
今回の事件、つまりは「邪魔者は消せ!」なんでしょうね。これが「圧力」じゃないなんて、何杯引っ掛ければ言えることなのでしょうか(^_^)v
うーん、そろそろ仕事に取り掛からなくては成らないので、今夜のところはこれにてお終いとします。お付き合い誠にありがとうございますm(_ _)m
10回目の夏に 仮設住宅撤去 気仙沼の今 20200825 [東日本大震災]
こんにちは、ヨコミーです。
ここは気仙沼市本吉町風の丘。
なんと今日8月31日は寒いです(>_<) まだ8月ですが、身体が亜熱帯仕様になっていたため(^_^;)
先週土曜日29日は記録的には大変な猛暑で、最高気温は36.5℃。それが日曜日には10℃も下がり(>_<)、今日は更に4℃も下がりました。最高気温22℃(^_^;) 下手な冷房より寒く、窓を開けた室内では半袖Tシャツでは凍えるよう(^_^)v 直ぐ長袖を着ました。
お時間のある社長さんや重役さん方、秘書を連れて避暑にお出で願います(^_^)v 気仙沼のお宿はまだまだ閑散としていて、三密は無い模様。ただし、コロナは同伴しないでくださいm(_ _)m
東日本大震災から10回目の夏が終わろうとしています。短いようで長かった、長いようで短かった、そんな年月が過ぎ去りました。
気仙沼はいろんな建物が建ってきましたが、復興したといえる方々は一部のように感じます。
変わりつつある気仙沼、今回は気仙沼市民会館西側に建っていた気仙沼公園仮設住宅のその後を紹介します。
ここは最後まで残っていた仮設住宅2団地の内の一つです。3月末までに全員が退去しました。
※写真はクリックすると大きくなります。
8月20日の撮影です。気仙沼・大川の下流から気仙沼中学校へ登る細い急坂はザワザワと呼ばれています。坂は校庭に突き当たって、ヨコミーは右折。まもなくこんな様子が目に入りました。「あっ、解体が進んでいた」
ここは気仙沼市民会館西側の仮設住宅があった所。気仙沼公園の市民グラウンド。手前のコーナーにバックネットが在り、市民が野球を楽しむ場でした。
左折して市民会館方向へ。
工事の看板は道路工事用でした。??? 解体工事は終了していたのかも。
採石の山...。ひょっとして既に仮設住宅地内の舗装なども撤去され、道路工事の資材置き場に?
フェンスの中には土の山が見えます。敷地内の採石をブルドーザーで集めた....ようには見えません。道路拡幅工事の原材料かと。
市民会館西側の駐車場です。右手はトイレ。奥の林に遊具があります。
市民会館が避難所だったとき、毎朝この林の中で、支援に入っていた広島の保健師さん方の指導でラジオ体操が行われていました。避難していた方々はいっときでも日常を取り戻していました。感謝<(_ _)>
震災の年、駐車場の真ん中には自衛隊のお風呂が在りました。「玄界の湯」(^_^)v 福岡の部隊でしょう。ヨコミーも何度かお世話になりました。ありがとうございますm(_ _)m
リニューアルされた気仙沼市民会館です。今はコロナで利用が少なく、もったいないです(>_<)
では、ちょっと時間をさかのぼってみます。
昨年の大晦日。住んでいる人は1桁だったかも。静かな年末でした。右下の市道から気仙沼中学校校庭に登る道からパチリ。最初からの6枚はこの市道を右奥から進んできて撮ったもの。
今年の4月14日です。フェンスの中にまだ仮設住宅が見えます。3月末まで入居者がいたので、解体工事はまだ始まっていないようです。
左奥に見える工事の看板は、市民会館から内の脇保育所や天理教の教会を経て、市ガス工場東側へ下る市道の拡幅工事を知らせるもの。仮設住宅工事の看板ではありません。道路工事現場は看板の直ぐ向こう下。緊急時に高台へ登る道の工事で、狭い坂を広く改良します。
坂の拡幅に異論はありませんが、緊急時に停電した交差点の交通誘導も課題かと。前で車がつっかえていて、反対車線を走ってここの坂に入り、ぎりぎり助かった人も。律儀に待っていた車の方の一人でしょう、顔見知りが大津波の何日か後、付近で車と共に見つかりました(>_<)
6月3日、既に解体が始まっていました。
同日。市民会館駐車場側からパチリ。左後ろが公園のトイレ....という場所から。
6月21日撮影です。舗装や解体材は残っているものの、ほぼ震災前の姿に。
これも同じ6月21日です。
正面やや奥、仮設住宅団地内に仮設のセブンイレブンが出来、なにせこの丘にはお店が無く、当時は周辺に住む皆さんにも、とても重宝がられていました。JR南気仙沼駅前の通りに在ったセブンで、勿論お店も被災。
このセブンは、JR鹿折駅前に居た作並屋さんが出した店と聞いています。東日本大震災の大津波で、300tもの船が打ち上げられた辺りです。作並屋さんは、子供の頃、おやつや豆腐を買いに行ったお店(*^_^*)
市内を見れば新しい建物が結構建ち並んでいますが、赤瀬川源平のように街を歩けば、まだまだ被災の跡を見ることが出来ます。
そんな様子をこれからも紹介したいです。
さて政界は内角ナンバー2のムジナー感冒朝刊が後継として有力視されていますね。
マイクロソフトのニュースによれば、東日本大震災後、当時の政権党だった民主党の代表・総理を決める際、党員投票を省いて決めたことに、当時下野していた自民党のムジナーが非難していましたが、その党員投票という手続きを省いて、ご自身が総理総裁になるコースみたい(^_^)v
発言に責任を持たなくてはならない立場のお方ですよね(*^_^*)
任期途中の退陣であり、コロナ禍の下、党員投票をやっていると政治に空白を生むと言うけれど、ヤベー総理がお隠れになっていたときも空白だったの? 政治は少なくても回っていたはず。国会は閉会中審査でしたが(^_^)v
今党員投票をやると、以前からの対抗馬だったイシバー元防衛大臣に票を持って行かれ、総理の椅子も奪われかねないという輩のお考えであるかと(^_^)v
身内の、有名ではあっても人気度が足りないお方を是非とも総理にして、今までの利権を保とうとする「利権組」かと(^_^)v
ムジナーはまだ老いていませんので、ここは潔く身を引き、再起を期すべきかと。病める辞めるヤベー総理の女房役でもあるし(*^_^*) そして更にご立派になられて、東北出身の宰相として活躍して欲しいな(^_^)v
談合で決めるのなら、ヨコミーはとりあえず、桜を見る会で、税金で飲み食いしたかはこの際不問とし、コロナ担当大臣を残任期間総理として推したいです。いつかは先走った発言だったためかムジナーに軌道修正させられましたが、面々の中ではベストかと(^_^;)
以前ムジナーが言っていたように、ヨコミーもそう思うのですが、党員投票はやるべきですね。勿論スピーディに(^_^)v 選挙運動はネット配信でも良いし(^_^;)
ヤベー総理がお隠れになっていたことを思えば、政治空白なんてあり得ません。有事・緊急時にはヤクザな副も居るのでしょうから(^_^)v
明日はなろう、よりよい日本に(^_^)v
おしまいm(_ _)m
ここは気仙沼市本吉町風の丘。
なんと今日8月31日は寒いです(>_<) まだ8月ですが、身体が亜熱帯仕様になっていたため(^_^;)
先週土曜日29日は記録的には大変な猛暑で、最高気温は36.5℃。それが日曜日には10℃も下がり(>_<)、今日は更に4℃も下がりました。最高気温22℃(^_^;) 下手な冷房より寒く、窓を開けた室内では半袖Tシャツでは凍えるよう(^_^)v 直ぐ長袖を着ました。
お時間のある社長さんや重役さん方、秘書を連れて避暑にお出で願います(^_^)v 気仙沼のお宿はまだまだ閑散としていて、三密は無い模様。ただし、コロナは同伴しないでくださいm(_ _)m
東日本大震災から10回目の夏が終わろうとしています。短いようで長かった、長いようで短かった、そんな年月が過ぎ去りました。
気仙沼はいろんな建物が建ってきましたが、復興したといえる方々は一部のように感じます。
変わりつつある気仙沼、今回は気仙沼市民会館西側に建っていた気仙沼公園仮設住宅のその後を紹介します。
ここは最後まで残っていた仮設住宅2団地の内の一つです。3月末までに全員が退去しました。
※写真はクリックすると大きくなります。
8月20日の撮影です。気仙沼・大川の下流から気仙沼中学校へ登る細い急坂はザワザワと呼ばれています。坂は校庭に突き当たって、ヨコミーは右折。まもなくこんな様子が目に入りました。「あっ、解体が進んでいた」
ここは気仙沼市民会館西側の仮設住宅があった所。気仙沼公園の市民グラウンド。手前のコーナーにバックネットが在り、市民が野球を楽しむ場でした。
左折して市民会館方向へ。
工事の看板は道路工事用でした。??? 解体工事は終了していたのかも。
採石の山...。ひょっとして既に仮設住宅地内の舗装なども撤去され、道路工事の資材置き場に?
フェンスの中には土の山が見えます。敷地内の採石をブルドーザーで集めた....ようには見えません。道路拡幅工事の原材料かと。
市民会館西側の駐車場です。右手はトイレ。奥の林に遊具があります。
市民会館が避難所だったとき、毎朝この林の中で、支援に入っていた広島の保健師さん方の指導でラジオ体操が行われていました。避難していた方々はいっときでも日常を取り戻していました。感謝<(_ _)>
震災の年、駐車場の真ん中には自衛隊のお風呂が在りました。「玄界の湯」(^_^)v 福岡の部隊でしょう。ヨコミーも何度かお世話になりました。ありがとうございますm(_ _)m
リニューアルされた気仙沼市民会館です。今はコロナで利用が少なく、もったいないです(>_<)
では、ちょっと時間をさかのぼってみます。
昨年の大晦日。住んでいる人は1桁だったかも。静かな年末でした。右下の市道から気仙沼中学校校庭に登る道からパチリ。最初からの6枚はこの市道を右奥から進んできて撮ったもの。
今年の4月14日です。フェンスの中にまだ仮設住宅が見えます。3月末まで入居者がいたので、解体工事はまだ始まっていないようです。
左奥に見える工事の看板は、市民会館から内の脇保育所や天理教の教会を経て、市ガス工場東側へ下る市道の拡幅工事を知らせるもの。仮設住宅工事の看板ではありません。道路工事現場は看板の直ぐ向こう下。緊急時に高台へ登る道の工事で、狭い坂を広く改良します。
坂の拡幅に異論はありませんが、緊急時に停電した交差点の交通誘導も課題かと。前で車がつっかえていて、反対車線を走ってここの坂に入り、ぎりぎり助かった人も。律儀に待っていた車の方の一人でしょう、顔見知りが大津波の何日か後、付近で車と共に見つかりました(>_<)
6月3日、既に解体が始まっていました。
同日。市民会館駐車場側からパチリ。左後ろが公園のトイレ....という場所から。
6月21日撮影です。舗装や解体材は残っているものの、ほぼ震災前の姿に。
これも同じ6月21日です。
正面やや奥、仮設住宅団地内に仮設のセブンイレブンが出来、なにせこの丘にはお店が無く、当時は周辺に住む皆さんにも、とても重宝がられていました。JR南気仙沼駅前の通りに在ったセブンで、勿論お店も被災。
このセブンは、JR鹿折駅前に居た作並屋さんが出した店と聞いています。東日本大震災の大津波で、300tもの船が打ち上げられた辺りです。作並屋さんは、子供の頃、おやつや豆腐を買いに行ったお店(*^_^*)
市内を見れば新しい建物が結構建ち並んでいますが、赤瀬川源平のように街を歩けば、まだまだ被災の跡を見ることが出来ます。
そんな様子をこれからも紹介したいです。
さて政界は内角ナンバー2のムジナー感冒朝刊が後継として有力視されていますね。
マイクロソフトのニュースによれば、東日本大震災後、当時の政権党だった民主党の代表・総理を決める際、党員投票を省いて決めたことに、当時下野していた自民党のムジナーが非難していましたが、その党員投票という手続きを省いて、ご自身が総理総裁になるコースみたい(^_^)v
発言に責任を持たなくてはならない立場のお方ですよね(*^_^*)
任期途中の退陣であり、コロナ禍の下、党員投票をやっていると政治に空白を生むと言うけれど、ヤベー総理がお隠れになっていたときも空白だったの? 政治は少なくても回っていたはず。国会は閉会中審査でしたが(^_^)v
今党員投票をやると、以前からの対抗馬だったイシバー元防衛大臣に票を持って行かれ、総理の椅子も奪われかねないという輩のお考えであるかと(^_^)v
身内の、有名ではあっても人気度が足りないお方を是非とも総理にして、今までの利権を保とうとする「利権組」かと(^_^)v
ムジナーはまだ老いていませんので、ここは潔く身を引き、再起を期すべきかと。病める辞めるヤベー総理の女房役でもあるし(*^_^*) そして更にご立派になられて、東北出身の宰相として活躍して欲しいな(^_^)v
談合で決めるのなら、ヨコミーはとりあえず、桜を見る会で、税金で飲み食いしたかはこの際不問とし、コロナ担当大臣を残任期間総理として推したいです。いつかは先走った発言だったためかムジナーに軌道修正させられましたが、面々の中ではベストかと(^_^;)
以前ムジナーが言っていたように、ヨコミーもそう思うのですが、党員投票はやるべきですね。勿論スピーディに(^_^)v 選挙運動はネット配信でも良いし(^_^;)
ヤベー総理がお隠れになっていたことを思えば、政治空白なんてあり得ません。有事・緊急時にはヤクザな副も居るのでしょうから(^_^)v
明日はなろう、よりよい日本に(^_^)v
おしまいm(_ _)m
魚市場付近 気仙沼の今 20200703 [東日本大震災]
こんにちは、ヨコミーです。
ここは気仙沼市本吉町風の丘。
7月初めからネオワイズ彗星が明るくなっているといわれているのに、最近なかなか好天に恵まれません。ヤキモキ(>_<)
そこで彗星を追って各地へ遠征したのですが、多忙の中での行動は3連勝3連敗でした。天気が悪い~(>_<)
その直前の12日には、深夜にお腹が今まで無いくらいに痛くなり....(>_<) 前日食べた大好物のシメサバか、その夜のキムチ鍋か....(>_<) おリュウさんのカオも有るので安易に救急車で行く訳にも行かず、藁にもすがる思いで深夜に正露丸。下痢も無く、吐くことも無く(>_<)
その後多少良くはなったモノの不調の高値安定が続き、といって今更病院へ行くのも馬鹿らしく、自宅療養(>_<) 15日の検診にはなんとか滑り込みました(^_^;)
そして16日は老母(ろうはは=ヨコミー語)に面会した後の遠征開始でした。ガラス越し+スカイプで会話する老母は元気ですが、息子の顔をようやく思い出した感じ(>_<) 耳も遠く、耳かすを取ってやれないのが残念(>_<)
遠征は、どこかで「泊」とは書いたモノの、泊まったのは最初の下北行きだけで、それも車中泊。ゆっくり泊まる時間もお金も無いのです(^_^;)
何度目かに戻った21日未明は少し寝て、放送大学2020年度第1学期の試験(>_<) 例年の夏と冬、仙台まで出掛けての受験ですが、今学期はコロナのために自宅受験で、十分には勉強していないのに試験日が繰り上がりました(>_<)
試験前に教科書を探し出し(^_^;)昼過ぎまで勉強(^_^)v 午後3時過ぎから問題に取り掛かったのですが、試験問題を見てびっくり。10問かと思ったら12問でした(>_<) 制限時間が近づいても10問までしか進めず、後は運を天に任せて、てきとーに回答(^_^;)
なにせ消印有効の最終日でしたので、すぐ郵便局へ駆け込み、受取人払いの郵便物に今日の消印が欲しかったことから、わざわざ速達を付けて...。一応テクニック(^_^;)
6連戦の遠征は25日まででしたが、連休には娘のハルエちゃんやマーゴのUちゃんが来たりで、写真整理も進まず....(>_<)
気付けば今月も残りわずかで、ブログの更新も疎かにしていて....(>_<) このような事情で、前記事に頂いたコメントに対応が遅れました。コメントを寄せていただいた皆様、大変すみませんm(_ _)m
さて、しばらくご無沙汰していた「気仙沼の今」シリーズですが、7月3日に行った市内魚市場前に建つ「海の市」からの景色を紹介します。
気仙沼魚市場です。海の市とは隣り合わせ、そんな所に建っています。
気仙沼の「仙」の字のずーっと下に青い横長のプレートが有りますが、東日本大震災による大津波の高さです。右下のワゴン車と比べれば、高さが実感できるかと(>_<)
海の市の建物に貼ってあった観光パネルです。ちなみに右下の写真にはサメ(模型?)が写っています。建物の中には小さなシャークミュージアムも在ります。
気仙沼観光コンベンション協会です。左上に小さな横断幕が見えますが、気仙沼が2021年前期NHK朝ドラ「おかえりモネ」の舞台の一つになると。
かっこいい自転車は展示用でした。有料で貸し出してくれれば良いのに....(>_<)
所用を終え2階エントランスに出て、パチリ。大凡西方向です。奥の丘は気仙沼市民会館へ続く南が丘。その右下が河原田で、手前の白い建物(青い標識の奥)から右手が港町。標識の下の空き地には気仙沼信用金庫内の脇支店が在ったのですが、まだ再建されていないはず。
この辺には多くの建物が在りましたが、9年過ぎてもこの状態。海に近く、人家が建てられないためでしょうか。市内の経済は大きく盛り上がっている訳じゃ無いので、これで終わり?? 以前を知る者にとっては寂しく、悲しいです。
遠くに見える山は市民の森です。
左続きです。正面は旧・河北ビル。仙台に本社を置く河北新報社の総支局等が入っていたのですが、大きく被災して、ビルは市役所へ譲渡され、今は教委や公民館等が入っています。
あの震災時、知人たちはここに一時避難し、大きな津波が落ち着いてから水が残る道路を渡って南が丘に登り、避難所となった市民会館に辿り着いたと(>_<)
更に左隣です。右手の会社は漁具屋さん。大きな釣り針を以前目にしましたが、素人さん用の釣具店ではありません。でも、近くへ来たときは覗いてみてください(^_^;)
それにしても建物はまばらです。9年も過ぎているのに(>_<) 中央やや左奥の小さな建物は本設された床屋さん。その向かい、漁具屋さんの裏には、多分古参の、お酒のディスカウント店が在ります。
更に左側です。手前は海の市の駐車場。左の白っぽい建物は魚市場の続き。その右側にごちゃごちゃ見えるのが....
みしおね横丁です。美味しいモノがありそうです。以前はお風呂のイベントも有ったのですが(^_^;)
更に左です。魚市場の建物は長いです。屋上は駐車場になっています。右手奥は気仙沼大島の亀山。
亀山付近の拡大です。山頂右やや下には亀山レストハウスが見えます。
右は三陸道・気仙沼湾横断橋の塔で、写真中央のやや下には左右に伸びる橋桁が見えます。橋は5月23日に左右から延びてきた橋のブロックがようやく仮接続され、その後の調整を経て6月21日には正式に接続が完了し、セレモニーが行われました。開通は年末の予定と。
更に左です。魚市場の作りは真ん中辺りから折れ曲がっていて、左は北桟橋と呼んでいます。その北桟橋の中には、見学通路が設けられていますが、コロナのために休止と聞きました。屋上の円錐屋根は四阿です。屋上から海を眺めることが出来ます(^_^)v
北桟橋を地上からパチリ。水揚げされた魚は開口部を通った先の左右に並べられます。
その開口部から見える風景を拡大です(^_^)v 市内鹿折地区の鹿折川河口付近です。防潮堤や川の堤防で分かり難いですが、河口は真ん中あたり。左は水産加工場、真ん中の山の麓に建つ茶色い建物は私立東陵高校。その左にちょっとだけ見えるのは鹿折中学校。右手の道路は気仙沼大島へ通じる県道です。その辺りにも多くの建物が在りました。
現況を見て「復興しましたね」とよーく言われるのですが、人は去り、建物は少なくなって、これで復興なのでしょうか?
おしまいm(_ _)m
ここは気仙沼市本吉町風の丘。
7月初めからネオワイズ彗星が明るくなっているといわれているのに、最近なかなか好天に恵まれません。ヤキモキ(>_<)
そこで彗星を追って各地へ遠征したのですが、多忙の中での行動は3連勝3連敗でした。天気が悪い~(>_<)
その直前の12日には、深夜にお腹が今まで無いくらいに痛くなり....(>_<) 前日食べた大好物のシメサバか、その夜のキムチ鍋か....(>_<) おリュウさんのカオも有るので安易に救急車で行く訳にも行かず、藁にもすがる思いで深夜に正露丸。下痢も無く、吐くことも無く(>_<)
その後多少良くはなったモノの不調の高値安定が続き、といって今更病院へ行くのも馬鹿らしく、自宅療養(>_<) 15日の検診にはなんとか滑り込みました(^_^;)
そして16日は老母(ろうはは=ヨコミー語)に面会した後の遠征開始でした。ガラス越し+スカイプで会話する老母は元気ですが、息子の顔をようやく思い出した感じ(>_<) 耳も遠く、耳かすを取ってやれないのが残念(>_<)
遠征は、どこかで「泊」とは書いたモノの、泊まったのは最初の下北行きだけで、それも車中泊。ゆっくり泊まる時間もお金も無いのです(^_^;)
何度目かに戻った21日未明は少し寝て、放送大学2020年度第1学期の試験(>_<) 例年の夏と冬、仙台まで出掛けての受験ですが、今学期はコロナのために自宅受験で、十分には勉強していないのに試験日が繰り上がりました(>_<)
試験前に教科書を探し出し(^_^;)昼過ぎまで勉強(^_^)v 午後3時過ぎから問題に取り掛かったのですが、試験問題を見てびっくり。10問かと思ったら12問でした(>_<) 制限時間が近づいても10問までしか進めず、後は運を天に任せて、てきとーに回答(^_^;)
なにせ消印有効の最終日でしたので、すぐ郵便局へ駆け込み、受取人払いの郵便物に今日の消印が欲しかったことから、わざわざ速達を付けて...。一応テクニック(^_^;)
6連戦の遠征は25日まででしたが、連休には娘のハルエちゃんやマーゴのUちゃんが来たりで、写真整理も進まず....(>_<)
気付けば今月も残りわずかで、ブログの更新も疎かにしていて....(>_<) このような事情で、前記事に頂いたコメントに対応が遅れました。コメントを寄せていただいた皆様、大変すみませんm(_ _)m
さて、しばらくご無沙汰していた「気仙沼の今」シリーズですが、7月3日に行った市内魚市場前に建つ「海の市」からの景色を紹介します。
気仙沼魚市場です。海の市とは隣り合わせ、そんな所に建っています。
気仙沼の「仙」の字のずーっと下に青い横長のプレートが有りますが、東日本大震災による大津波の高さです。右下のワゴン車と比べれば、高さが実感できるかと(>_<)
海の市の建物に貼ってあった観光パネルです。ちなみに右下の写真にはサメ(模型?)が写っています。建物の中には小さなシャークミュージアムも在ります。
気仙沼観光コンベンション協会です。左上に小さな横断幕が見えますが、気仙沼が2021年前期NHK朝ドラ「おかえりモネ」の舞台の一つになると。
かっこいい自転車は展示用でした。有料で貸し出してくれれば良いのに....(>_<)
所用を終え2階エントランスに出て、パチリ。大凡西方向です。奥の丘は気仙沼市民会館へ続く南が丘。その右下が河原田で、手前の白い建物(青い標識の奥)から右手が港町。標識の下の空き地には気仙沼信用金庫内の脇支店が在ったのですが、まだ再建されていないはず。
この辺には多くの建物が在りましたが、9年過ぎてもこの状態。海に近く、人家が建てられないためでしょうか。市内の経済は大きく盛り上がっている訳じゃ無いので、これで終わり?? 以前を知る者にとっては寂しく、悲しいです。
遠くに見える山は市民の森です。
左続きです。正面は旧・河北ビル。仙台に本社を置く河北新報社の総支局等が入っていたのですが、大きく被災して、ビルは市役所へ譲渡され、今は教委や公民館等が入っています。
あの震災時、知人たちはここに一時避難し、大きな津波が落ち着いてから水が残る道路を渡って南が丘に登り、避難所となった市民会館に辿り着いたと(>_<)
更に左隣です。右手の会社は漁具屋さん。大きな釣り針を以前目にしましたが、素人さん用の釣具店ではありません。でも、近くへ来たときは覗いてみてください(^_^;)
それにしても建物はまばらです。9年も過ぎているのに(>_<) 中央やや左奥の小さな建物は本設された床屋さん。その向かい、漁具屋さんの裏には、多分古参の、お酒のディスカウント店が在ります。
更に左側です。手前は海の市の駐車場。左の白っぽい建物は魚市場の続き。その右側にごちゃごちゃ見えるのが....
みしおね横丁です。美味しいモノがありそうです。以前はお風呂のイベントも有ったのですが(^_^;)
更に左です。魚市場の建物は長いです。屋上は駐車場になっています。右手奥は気仙沼大島の亀山。
亀山付近の拡大です。山頂右やや下には亀山レストハウスが見えます。
右は三陸道・気仙沼湾横断橋の塔で、写真中央のやや下には左右に伸びる橋桁が見えます。橋は5月23日に左右から延びてきた橋のブロックがようやく仮接続され、その後の調整を経て6月21日には正式に接続が完了し、セレモニーが行われました。開通は年末の予定と。
更に左です。魚市場の作りは真ん中辺りから折れ曲がっていて、左は北桟橋と呼んでいます。その北桟橋の中には、見学通路が設けられていますが、コロナのために休止と聞きました。屋上の円錐屋根は四阿です。屋上から海を眺めることが出来ます(^_^)v
北桟橋を地上からパチリ。水揚げされた魚は開口部を通った先の左右に並べられます。
その開口部から見える風景を拡大です(^_^)v 市内鹿折地区の鹿折川河口付近です。防潮堤や川の堤防で分かり難いですが、河口は真ん中あたり。左は水産加工場、真ん中の山の麓に建つ茶色い建物は私立東陵高校。その左にちょっとだけ見えるのは鹿折中学校。右手の道路は気仙沼大島へ通じる県道です。その辺りにも多くの建物が在りました。
現況を見て「復興しましたね」とよーく言われるのですが、人は去り、建物は少なくなって、これで復興なのでしょうか?
おしまいm(_ _)m
三陸道気仙沼湾横断橋 気仙沼の今 20200414 [東日本大震災]
こんにちは、ヨコミーです。
ここは気仙沼市本吉町風の丘。
一昨日は気温が結構上がり、薄着で出掛けるには丁度良い時期になったのですが、新型コロナの影響で外出はすっかりと減っています。
近くのポストへ投函しようと出掛けたら、歩道を歩いている若い4人組がいました。ところが直ぐ手を伸ばせば届く間隔なのに、誰もマスクを付けていませんでした。ちょっとカッコ着けた衣装なので、観光客??
気仙沼市内では今、東日本大震災後に復興道路として位置付けられた、三陸縦貫道(以下三陸道)の延伸工事が進んでいます。
一つは気仙沼港IC~唐桑IC間、そして本吉津谷IC~小泉IC間の2カ所です。
3月8日、打合せが有って大島へ行った帰路、三陸道が気仙沼湾を横断する橋梁工事の現場を眺めることが出来ました。湾は南に開けていて、その東側に在る鹿折地区小々汐(こごしお)集落の高い所に出来た道路から、パチパチとした数々をご覧願いますm(_ _)m
☆写真はクリックすると大きくなります。
小々汐地区のメインだった場所。大津波で浜の家々はすっかりと流され、やや高台で残った家も大島へ通じる道の付け替え工事で移転しました。
写真下の工事現場事務所みたいな建物が在る辺りに、大家(おおいえ)と呼ばれる網元の大きなお宅が在りました。左端には浦島小学校へ登る道が在りましたが、その小学校は被災しないものの、児童数の減少で廃校となりました。津波の影響で親が住む場所を変え、子供も転校して行ったためもあるようです。
小々汐は小さな入り江です。住む殆どが尾形姓です。多くの民家が在りましたが、すっかりと流されてしまいました。
向こうは湾の西岸。橋桁が離れている所の奥は市民の森。その右は手長山。左はヤマツツジで山頂が染まる德仙丈山。でも、コロナの内は来ないでくださいm(_ _)m
以前の道路は海岸線に沿って低い位置に在りましたが、今では右上に道が出来ました。こんなに盛り上げて....。
横断橋をやや拡大。
近隣では見たことかない橋脚です。凄い(^_^)v
橋は左右から橋桁を延ばして工事が進められています。
奥の市民の森で風力発電の風車が回っています。
西側先端の橋桁です。
左下の建物は国の合同庁舎。大津波を受けましたが、改修して使われています。
その右上にちょっとだけ見えているのは、移転新築された県の合同庁舎。実は震災前、国の合同庁舎の直ぐ右隣に在ったのですが、被害が大きかったのか移転新築です。
右下の赤っぽい看板はイオン。
その左上は老朽化で震災後に移転した市立病院です。この市立病院、紹介状が無いとお金を高く取る偉い病院になってしまいました(>_<)
以前、市内のお年寄りによる、新築を機に名称の変更を求める投書が新聞に載っていました。市立病院じゃなく「市民病院」にして欲しいと。ヨコミー、当時は投書の意味が分かりませんでしたが、こういうことでしたね(>_<) 名は体を表す(T_T)
東側から伸びる橋桁の先端です。左下はゴミ焼却場。
時と場所を変えて....(^_^)v
4月に市内傳法寺(お不動さん)の枝垂れ桜を紹介しましたが、横断橋はその場からも見えていました。
右奥が気仙沼大島の最高峰・亀山で、その下に見えるアーチは昨春開通した大島大橋。その直ぐ下から左へ伸びる黒っぽい橋がそれ。高架橋が見えます。
中央とやや右に建っている高層住宅は南郷の災害公営住宅で、中央左の2棟は内ノ脇の災害公営住宅です。これらの住宅間に、岩手県一関市室根町から流れてくる大川が在ります。
東西から延びている橋桁は、その間隔が狭くなっている感じ....。狭くなっていない!?? (^_^;)
この橋桁は今月1日か2日、無事に結合されました(^_^)v
折角なので大島方向です。亀山の下に見えるアーチが大島大橋で、通称は「鶴亀大橋」。これは鹿折地区の鶴ケ浦と大島の亀山(地名)に架かっていることから。でもコロナが終わってからお出で願います(^_^)v
接するように直ぐ下に見えるのは、大川や魚市場南側の朝日町を跨ぐ三陸道の高架橋で、川は手前から海(見掛け上、大島大橋と併行に見える水面)に注ぎます。
その手前に見える、途中が上にちょっと膨らんだ橋は、鉄路が廃止されバス専用路となるJRの橋。
JRの橋の下に一体となって見えるのは、曙橋です。この橋はほんのちょっと上流側に架け替え工事が大川左岸で進んでいますが、そこは左に見える南郷災害公園住宅の陰となって、見えません。が、川の中に橋脚が1つ見えます。直ぐ隣に架かります。
コロナが来なければ、今頃は旅行か、最低限、無線機を持って山に行っていました。ところが緊急事態宣言が全国に発せられ、山にも行かず自重していました。
なのに、アマチュア無線を聞けば、XX市##山移動...なんて叫んで、多くの局と交信している局が数多く聞こえました。中には単身赴任先の部屋でも「移動」扱いになっている場合も少しだけ有りますが。 http://qrv.jp/html/ALL500.html
確かに山の上では普通3密には成らないです。しかし話しかけてくる人も居ます。ガソリン補給、食料調達、途中でのトイレ休憩等で人と接することもあります。往復での交通事故の可能性も。症状が未だ出ていないご自身から、他人や器具等へコロナを撒き散らかす可能性も有る事から、「ステイホーム」でしたよね。
コメント蘭の書き込みに「雨にも負けず、風にも負けず、コロナにも負けず」というのもあって、ガックリとしました。あれは、そういう身体を持ちたいという願望で、元歌の作者は病死です。
まあこういう人たちは一部と思いたいです。都内の蕎麦好きまるちゃんや守谷の方など、アマチュア無線移動運用の達人等は、流石に自粛しています(^_^)v そうじゃないベテランもいましたが(^_^;)
コロナの感染症状は急激に進むこともあるようで、侮れないと思うのです。
国を挙げての外出自粛でコロナを押さえ込もうというこの時期に、世の中とは関係ない、まるで別世界のような振る舞いは、アマチュア無線の危機を感じざるを得ません。
このような事態は考えられたのに、監督官庁もアマチュア無線連盟も、明確な動きは見えません。
本当にガックリで、明日は無線機のスイッチを入れられそうにありません(>_<)
あっ、大変すみませんが、今は対コロナの大切な時期ですので、終息してからのお出でをお待ち申し上げます(^_^)v
おしまいm(_ _)m
ここは気仙沼市本吉町風の丘。
一昨日は気温が結構上がり、薄着で出掛けるには丁度良い時期になったのですが、新型コロナの影響で外出はすっかりと減っています。
近くのポストへ投函しようと出掛けたら、歩道を歩いている若い4人組がいました。ところが直ぐ手を伸ばせば届く間隔なのに、誰もマスクを付けていませんでした。ちょっとカッコ着けた衣装なので、観光客??
気仙沼市内では今、東日本大震災後に復興道路として位置付けられた、三陸縦貫道(以下三陸道)の延伸工事が進んでいます。
一つは気仙沼港IC~唐桑IC間、そして本吉津谷IC~小泉IC間の2カ所です。
3月8日、打合せが有って大島へ行った帰路、三陸道が気仙沼湾を横断する橋梁工事の現場を眺めることが出来ました。湾は南に開けていて、その東側に在る鹿折地区小々汐(こごしお)集落の高い所に出来た道路から、パチパチとした数々をご覧願いますm(_ _)m
☆写真はクリックすると大きくなります。
小々汐地区のメインだった場所。大津波で浜の家々はすっかりと流され、やや高台で残った家も大島へ通じる道の付け替え工事で移転しました。
写真下の工事現場事務所みたいな建物が在る辺りに、大家(おおいえ)と呼ばれる網元の大きなお宅が在りました。左端には浦島小学校へ登る道が在りましたが、その小学校は被災しないものの、児童数の減少で廃校となりました。津波の影響で親が住む場所を変え、子供も転校して行ったためもあるようです。
小々汐は小さな入り江です。住む殆どが尾形姓です。多くの民家が在りましたが、すっかりと流されてしまいました。
向こうは湾の西岸。橋桁が離れている所の奥は市民の森。その右は手長山。左はヤマツツジで山頂が染まる德仙丈山。でも、コロナの内は来ないでくださいm(_ _)m
以前の道路は海岸線に沿って低い位置に在りましたが、今では右上に道が出来ました。こんなに盛り上げて....。
横断橋をやや拡大。
近隣では見たことかない橋脚です。凄い(^_^)v
橋は左右から橋桁を延ばして工事が進められています。
奥の市民の森で風力発電の風車が回っています。
西側先端の橋桁です。
左下の建物は国の合同庁舎。大津波を受けましたが、改修して使われています。
その右上にちょっとだけ見えているのは、移転新築された県の合同庁舎。実は震災前、国の合同庁舎の直ぐ右隣に在ったのですが、被害が大きかったのか移転新築です。
右下の赤っぽい看板はイオン。
その左上は老朽化で震災後に移転した市立病院です。この市立病院、紹介状が無いとお金を高く取る偉い病院になってしまいました(>_<)
以前、市内のお年寄りによる、新築を機に名称の変更を求める投書が新聞に載っていました。市立病院じゃなく「市民病院」にして欲しいと。ヨコミー、当時は投書の意味が分かりませんでしたが、こういうことでしたね(>_<) 名は体を表す(T_T)
東側から伸びる橋桁の先端です。左下はゴミ焼却場。
時と場所を変えて....(^_^)v
4月に市内傳法寺(お不動さん)の枝垂れ桜を紹介しましたが、横断橋はその場からも見えていました。
右奥が気仙沼大島の最高峰・亀山で、その下に見えるアーチは昨春開通した大島大橋。その直ぐ下から左へ伸びる黒っぽい橋がそれ。高架橋が見えます。
中央とやや右に建っている高層住宅は南郷の災害公営住宅で、中央左の2棟は内ノ脇の災害公営住宅です。これらの住宅間に、岩手県一関市室根町から流れてくる大川が在ります。
東西から延びている橋桁は、その間隔が狭くなっている感じ....。狭くなっていない!?? (^_^;)
この橋桁は今月1日か2日、無事に結合されました(^_^)v
折角なので大島方向です。亀山の下に見えるアーチが大島大橋で、通称は「鶴亀大橋」。これは鹿折地区の鶴ケ浦と大島の亀山(地名)に架かっていることから。でもコロナが終わってからお出で願います(^_^)v
接するように直ぐ下に見えるのは、大川や魚市場南側の朝日町を跨ぐ三陸道の高架橋で、川は手前から海(見掛け上、大島大橋と併行に見える水面)に注ぎます。
その手前に見える、途中が上にちょっと膨らんだ橋は、鉄路が廃止されバス専用路となるJRの橋。
JRの橋の下に一体となって見えるのは、曙橋です。この橋はほんのちょっと上流側に架け替え工事が大川左岸で進んでいますが、そこは左に見える南郷災害公園住宅の陰となって、見えません。が、川の中に橋脚が1つ見えます。直ぐ隣に架かります。
コロナが来なければ、今頃は旅行か、最低限、無線機を持って山に行っていました。ところが緊急事態宣言が全国に発せられ、山にも行かず自重していました。
なのに、アマチュア無線を聞けば、XX市##山移動...なんて叫んで、多くの局と交信している局が数多く聞こえました。中には単身赴任先の部屋でも「移動」扱いになっている場合も少しだけ有りますが。 http://qrv.jp/html/ALL500.html
確かに山の上では普通3密には成らないです。しかし話しかけてくる人も居ます。ガソリン補給、食料調達、途中でのトイレ休憩等で人と接することもあります。往復での交通事故の可能性も。症状が未だ出ていないご自身から、他人や器具等へコロナを撒き散らかす可能性も有る事から、「ステイホーム」でしたよね。
コメント蘭の書き込みに「雨にも負けず、風にも負けず、コロナにも負けず」というのもあって、ガックリとしました。あれは、そういう身体を持ちたいという願望で、元歌の作者は病死です。
まあこういう人たちは一部と思いたいです。都内の蕎麦好きまるちゃんや守谷の方など、アマチュア無線移動運用の達人等は、流石に自粛しています(^_^)v そうじゃないベテランもいましたが(^_^;)
コロナの感染症状は急激に進むこともあるようで、侮れないと思うのです。
国を挙げての外出自粛でコロナを押さえ込もうというこの時期に、世の中とは関係ない、まるで別世界のような振る舞いは、アマチュア無線の危機を感じざるを得ません。
このような事態は考えられたのに、監督官庁もアマチュア無線連盟も、明確な動きは見えません。
本当にガックリで、明日は無線機のスイッチを入れられそうにありません(>_<)
あっ、大変すみませんが、今は対コロナの大切な時期ですので、終息してからのお出でをお待ち申し上げます(^_^)v
おしまいm(_ _)m
期限切れの非常食 美味しかった(^_^;) 20191020 [東日本大震災]
こんにちは、ヨコミーです。
ここは気仙沼市本吉町風の丘。
昨日10月25日に接近した低気圧は、またまた関東や東北南部等に、死亡者を伴う災害をもたらしました(>_<) 亡くなられた方にお悔やみを、被災された方にはお見舞いを申し上げます。
千葉県などでは台風15号の、そして台風19号で被災された関東甲信、東北地方等では、多くの方々が復旧を為されていない中での、昨日の災害でした(>_<)
神様はなんと非情な事を為さる。ヨコミー、いつも思うのですが、東日本大震災以降、(一般的な)神を疑っています。
出来る事なら、神あなた様方を裁判に掛けたいのです。何故、人々は死なねばならなかったのか? 何故、被災せねばならなかったのか??
嫌なら、今後の災害において事前に御姿を現し、御力によって弱き者どもをお救い願います。お姿を表して頂けない場合は、ヨコミーの枕元であなた様のお名前をささやいて頂ければ嬉しいです(^_^;)
そうしてお救い頂けたならば、私は皆様の手先となり、しめ縄にしで(紙垂)を下げて頭に巻き、右手にコーランを、左手に新約聖書を持ち、背中に旧約聖書等を背負い、津々浦々まで皆様方の布教に歩く事でしょう。そのためにも、是非、御名をお知らせ願いますm(_ _)m
閑話休題(^_^;)
10月20日はヨコミー奥様のおリュウさんに逃げられ、昼食をどうするか思案していました(>_<)
そういえば三連休に、中止となってしまいましたが福島のイベントに向かう際の準備で、大変なモノを見つけていました。
いつものように、食料としてパックご飯やカップ麺等を準備していたのですが、長年使っている紙の皿等が入ったダンボール箱ではちょっと荷物になるので、主要なモノだけ紙袋に移していたら、なんと最近忘れられていた食べ物が見つかりました。なので、これを食べる事にしました(^_^;)
アルファー米の「きのこご飯」です。
裏面を見て、驚き(>_<) まあ、ちょっとだけ。賞味期限から5年余り経過(^_^;)
どうしたのでしょう。多分、2009年の夏にでも買い求め、山やイベント時に持って行くつもりだったのでしょうけれど、何かの都合で食べかねていたか。
そして2010年に車を替えてしまったら車中泊に向かない事が判明し(>_<)、以後出る機会が減り、更にあの震災(>_<) 震災時の非常食としても思い出されず、押し入れの中で眠っていました(^_^;)
まあまあ、ヨコミーは五感で行動する人なので(緻密な計算は出来ない(>_<)、食べられないなんて考えず、とりあえず作る事に(^_^;)
開けてみたら特に異臭は感じられません。スプーンを取り出し、ヤカンから熱湯を注ぎ、口を閉じてしばし待ちます(^_^)v
お湯を入れたとたん、用が込める来客があり、不本意にも倍近く置いてしまいました(>_<)
でも、開封したら、香りも見た目も美味しそう(^_^)v ヨコミーはグルメではないです。なので、普通に美味しいです。5年も賞味期限を過ぎた...感じはしません。
まあ表示は、あくまでも「賞味」の期限であり、「その時まで必ず消費してね」という消費期限ではありませんから(^_^)v
ただ、保管場所も大切かと。窓からの日射しも当たらない、暖房機等の近くじゃなく、シンクの下みたく湿気っぽくない、地震で上からモノが落ちてきても袋に穴が空かないような環境....かな(^_^;)
そして、毎年月日を決め、これら非常食・レジャー食の更新をしたいですね。賞味期限が切れそうなモノから、毎年作って食べる事で訓練にも成りますし、アイディアも浮かびます。
今回の「きのこご飯」、中に入っているスプーンがやや短めでした。皿に空けて食べるなら構わないのですが、非常時には食器が揃えられない事も。そんなときはこの袋のままで食べるのですが、底は深いので、出来れば大きなスプーンかプラ箸や塗り箸も一緒に保存したいですね。
ハサミが有れば袋を輪切りにして短くしたり、袋を裂いても良いでしょう。
そういえば、東日本大震災前、「気仙沼ほてい」が作っていた缶詰の団子三兄弟が有りました。当時、同じ職場に勤めていたiちゃんのお世話で買っていたのですが、先日、最後の1個を見つけてしまいました。既に、既に賞味期限切れ(^_^;)
この缶詰は以前のブログでも紹介しましたが、震災後の製造は、そこまで達していないよう...(>_<)
非常時、甘くて多少お腹に貯まるモノは、身体と心に安心を与えてくれます。長期間保存できるし、是非生産を再開して欲しいですね。
静岡の本社さん、団子缶は災害時にも役立つので、気仙沼工場のお尻を叩いてください(^_^)v
でも賞味期限、やはり注意しましょうね(^_^;)
おしまい<(_ _)>
ここは気仙沼市本吉町風の丘。
昨日10月25日に接近した低気圧は、またまた関東や東北南部等に、死亡者を伴う災害をもたらしました(>_<) 亡くなられた方にお悔やみを、被災された方にはお見舞いを申し上げます。
千葉県などでは台風15号の、そして台風19号で被災された関東甲信、東北地方等では、多くの方々が復旧を為されていない中での、昨日の災害でした(>_<)
神様はなんと非情な事を為さる。ヨコミー、いつも思うのですが、東日本大震災以降、(一般的な)神を疑っています。
出来る事なら、神あなた様方を裁判に掛けたいのです。何故、人々は死なねばならなかったのか? 何故、被災せねばならなかったのか??
嫌なら、今後の災害において事前に御姿を現し、御力によって弱き者どもをお救い願います。お姿を表して頂けない場合は、ヨコミーの枕元であなた様のお名前をささやいて頂ければ嬉しいです(^_^;)
そうしてお救い頂けたならば、私は皆様の手先となり、しめ縄にしで(紙垂)を下げて頭に巻き、右手にコーランを、左手に新約聖書を持ち、背中に旧約聖書等を背負い、津々浦々まで皆様方の布教に歩く事でしょう。そのためにも、是非、御名をお知らせ願いますm(_ _)m
閑話休題(^_^;)
10月20日はヨコミー奥様のおリュウさんに逃げられ、昼食をどうするか思案していました(>_<)
そういえば三連休に、中止となってしまいましたが福島のイベントに向かう際の準備で、大変なモノを見つけていました。
いつものように、食料としてパックご飯やカップ麺等を準備していたのですが、長年使っている紙の皿等が入ったダンボール箱ではちょっと荷物になるので、主要なモノだけ紙袋に移していたら、なんと最近忘れられていた食べ物が見つかりました。なので、これを食べる事にしました(^_^;)
アルファー米の「きのこご飯」です。
裏面を見て、驚き(>_<) まあ、ちょっとだけ。賞味期限から5年余り経過(^_^;)
どうしたのでしょう。多分、2009年の夏にでも買い求め、山やイベント時に持って行くつもりだったのでしょうけれど、何かの都合で食べかねていたか。
そして2010年に車を替えてしまったら車中泊に向かない事が判明し(>_<)、以後出る機会が減り、更にあの震災(>_<) 震災時の非常食としても思い出されず、押し入れの中で眠っていました(^_^;)
まあまあ、ヨコミーは五感で行動する人なので(緻密な計算は出来ない(>_<)、食べられないなんて考えず、とりあえず作る事に(^_^;)
開けてみたら特に異臭は感じられません。スプーンを取り出し、ヤカンから熱湯を注ぎ、口を閉じてしばし待ちます(^_^)v
お湯を入れたとたん、用が込める来客があり、不本意にも倍近く置いてしまいました(>_<)
でも、開封したら、香りも見た目も美味しそう(^_^)v ヨコミーはグルメではないです。なので、普通に美味しいです。5年も賞味期限を過ぎた...感じはしません。
まあ表示は、あくまでも「賞味」の期限であり、「その時まで必ず消費してね」という消費期限ではありませんから(^_^)v
ただ、保管場所も大切かと。窓からの日射しも当たらない、暖房機等の近くじゃなく、シンクの下みたく湿気っぽくない、地震で上からモノが落ちてきても袋に穴が空かないような環境....かな(^_^;)
そして、毎年月日を決め、これら非常食・レジャー食の更新をしたいですね。賞味期限が切れそうなモノから、毎年作って食べる事で訓練にも成りますし、アイディアも浮かびます。
今回の「きのこご飯」、中に入っているスプーンがやや短めでした。皿に空けて食べるなら構わないのですが、非常時には食器が揃えられない事も。そんなときはこの袋のままで食べるのですが、底は深いので、出来れば大きなスプーンかプラ箸や塗り箸も一緒に保存したいですね。
ハサミが有れば袋を輪切りにして短くしたり、袋を裂いても良いでしょう。
そういえば、東日本大震災前、「気仙沼ほてい」が作っていた缶詰の団子三兄弟が有りました。当時、同じ職場に勤めていたiちゃんのお世話で買っていたのですが、先日、最後の1個を見つけてしまいました。既に、既に賞味期限切れ(^_^;)
この缶詰は以前のブログでも紹介しましたが、震災後の製造は、そこまで達していないよう...(>_<)
非常時、甘くて多少お腹に貯まるモノは、身体と心に安心を与えてくれます。長期間保存できるし、是非生産を再開して欲しいですね。
静岡の本社さん、団子缶は災害時にも役立つので、気仙沼工場のお尻を叩いてください(^_^)v
でも賞味期限、やはり注意しましょうね(^_^;)
おしまい<(_ _)>
台風19号 災害覚え書き 20191019 [東日本大震災]
こんにちは、ヨコミーです。
ここは気仙沼市本吉町風の丘。
今日10月19日は、未明からの雨が夕方まで降り続きました。時折ちょっと強い風雨となりましたが、大雨洪水警報などが出る程度では無く、ホッとしました。
大きな災害となった地域の方々は、更なる被害は無かったでしょうか。捜索や復旧作業に支障が出ない事を祈ります。
昨日、所用で県北(内陸)部の栗原市まで行きましたが、大きな沼に近い所も通ったのですが、細い道路でも冠水は既に有りませんでした。
前回の冒頭で紹介した水田は、かなり水が引いていました。その様子は、別な機会に。
が、もっと南の方は、まだまだのようです(>_<)
台風19号について、先週末からテレビやラジオで情報がいろいろと入って来るのですが、被災された方々やお世話をするNPO、これからの災害に備える必要がある地域に住む方々等に、是非考えて欲しいと思った事がありますので書き連ねます。検討頂ければ幸いですm(_ _)m もちろん、笑い飛ばして頂いても結構です(>_<)
でも、折角なので続きの写真も(^_^;)
写真は前回の10月13日一連の撮影した中から、最初から3枚めを撮って100m程進んだ所。登米市東和町に在る道の駅・林林館(りんりんかん)のちょっと手前です。渋滞なので撮影できました(^_^;)
11時過ぎです。水は結構引いているようですが、真ん中の小さな建物は何でしょうか。倉庫かと思ったら、前にポストが。入口の上に有るのは文字が消えた看板?? 中を見れば板を渡して作った長椅子のようなモノも見えます。バスの待合所でしょうか。付着しているゴミを見れば、高さはコンクリートブロック4つ程の浸水でした。
左隣のお宅は床下浸水かと。どちらかといえば、更なる内陸部や県南より降水量は少ないと思うのですが、それでもこれです(>_<)
いつも振り返り撮影が多いので、今回も(^_^;)
更に300m程進んだら、道の駅前の国道346号が冠水していて、迂回(>_<) 市役所の支所前を通り、道の駅の通路を通って、再び国道へ戻りました。そのときにぱちり。ヨコミーは奥から来たのです。
これでも水は引いたのでしょうけれど、これを教訓に、国道は嵩上げされるのでしょうか。されないのでしょうか(>_<) まあ単に嵩上げすれば、左手の建物がもっと浸水するかも知れないし...(>_<)
道の駅の駐車場です。冠水しています。奥の建物はトイレなので、長靴じゃないと、用を足せません(>_<) 左端に見える道の駅本館内部にもトイレは有るのですが、夜間は玄関に鍵が掛かっていたかと。
台風の大雨が真っ盛りな未明までに、どうしても仕方無く立ち寄った人は? そしてこの夜に立ち寄る人は?? 早く水が引いてくれれば良いのですが(>_<)
ここのトイレ、本館に並んだやや高い土地が在るので、そちらへの設置が良かったかも。まあ、足腰の悪い方々に配慮したのかも知れませんが、いずれにせよ、本館の利用もして頂きたいのでしょうから、基本は同じ高さかと。後はどのようにして足腰の弱い方に配慮するか、だと思うのです。
単なるお飾り的な、状況説明写真のつもりが、なーんか、いろんな心配を書いてしまいました(>_<)
今回の台風にかかわらず、気がついた事を以下に綴ります。
1.給食は何でもいいから出すべ!
被災地の学校で、給食が出来ないために午前中で授業を打ち切ったとの報道が今夜有りました。今日は土曜日なので、昨日の事でしょうね。直後は休校したと思われるのに、給食が理由で授業時間を確保出来ないなんて、何とも残念です(>_<)
給食センターが被災したのでしょうね。でも何か出せなかったのでしょうか。ヨコミーの、その昔の給食は、調理をしないパンと牛乳というときもありました。そこは、多分食材は事前に発注しているのでしょうけれど、そのお店では納品も出来なかったのでしょうね。だったら急遽メニューを代え、パンと牛乳の類でも調達できなかったのでしょうか。被災していない市内のパン屋を探すとか、数量をこなせなければ近隣の市、更には県内、中央の山崎製パンとかいろいろ在るかと。
適切な大きさのパンが無ければ、2個でも3個でも良いかと。飲み物も牛乳、ロングライフ牛乳、お茶の類等々探せば有るはず。
児童生徒の家庭では、そんな子等を待っててお昼を出せるのでしょうか。こんな時に(>_<) 避難所のお昼に間に合うのでしょうか。家庭まで被災しているなら、子ども達の昼食だけでも、従来通り学校で面倒を見て頂ければ、大変有り難いと思うのです。
ヨコミー家では、子等が小さな時は爺婆が元気で、なんか喰わせてくれるのでしょうけれど、爺婆や母親が家に居る家庭ばかりではないでしょう。東日本大震災で会社や工場が被災したとき、両親は職場の後片付けに出ている家庭も多々ありました。遅くまで(>_<)
市や教育委員会の手配空しく...とは報道されていませんでした。気が回らなかったのかな? 期待したいです(^_^)v
2.炊き出しのメニューに配慮を!
①これも今宵の報道ですが、モツ鍋が振る舞われたと。ヨコミーは娘にご馳走した事は無いのですが、娘は食堂に行けば食べています。でも、ヨコミーは最近までは食べませんでした。ヨコミー奥様のおリュウさんは余り好みません。我が老母(ろうはは=ヨコミー語)なら、トン汁でも全くダメ。
東日本大震災の時、ヨコミーが手伝っていた避難所の或る夜のおかずは、NPOが提供した豚の角煮。豪華と思われるでしょうけれど、単品のそれのみ。お年寄りの中には肉類を食べない方も居ます。何か代わりのモノの配慮を頂きたかったです。それとも事前に調べ、こちらには何人の肉を食べない方が居ます!と、どーんと玄関に張り出しておけば良かったかな。それも申し訳なくて....(>_<)
②ヨコミーが居たその避難所に、いつか本場のカレーが炊き出しでやって来ました。ところがその後、何人もがゲーリークーパー状態に(^_^;) 食中毒じゃなく、油が身体に合わなかった方も多数居ました(^_^;) まあ、便秘になっていた方には....(^_^;)
3.ボランティア募集の範囲など
ボランティアの募集で、近隣市町村に限る自治体と、限定の無い自治体がありました。まあボランティアの業務内容に大きな違いがあるのかどうかは分かりませんが、ヨコミーが手伝っていた避難所では、関西から来ていてる方も居ました。感謝<(_ _)>
作業には泥まみれになる事もあり、その泥を流すお風呂もシャワーも有りませんよ、帰宅して入ってね...という事なのでしょうか。もう自衛隊さんの風呂は各地に転開されているようだし、やっているプールや日帰り温泉まで各自行って頂ければ入れますよ...てな感じでも良いのでは。また、0泊3日などという弾丸ボランティアツアーも有った事だし、限る事は無いかと(^_^)v
泊まる所が無いのなら、寝袋持参で来れば近くの自治会館で素泊まりできますよ...なんて出来ないのかな。地理不案内だろうし、何なら1食につき大きなおにぎり1個提供出来ますよ、飲み物は各自持参してね...ぐらいでもいいのかも。社協経由、自治体から(^_^;)
ボランティアは自己完結といわれますが、些少でも、そこは人情と感謝かと(*^_^*)
ヨコミーが避難所を手伝っていた当時の当初、停電でした。携帯充電ボランティアが来たのですが、ボランティアの人手が足りず、ヨコミーが並ぶ人を整理していたら、避難所のお偉いさんから「ヨコミー、ボランティアを手伝ってどうする!? ボランティアは自己完結だぞっ!!」と大きな声でご注意を受けました(>_<) そんなものなのでしょうか。ヨコミーは、避難している方々がその時点で大きく必要としている内の一つである携帯の充電にも、配慮すべきと思うのです。避難所でその欲求を満たす事は出来なかったのですから。決して大衆迎合ではありませんし、他に最優先すべき事は無いはずでした。ヨコミーの一人や二人ぐらい...。
いやヨコミーを千手観音のようにいっぱい手を持っている、欠かす事が出来ない重要人物だと思っているのでしょうか? あっ、この感じ、いつかも有ったなぁ...(^_^;)
4.給水車の稼働時間
昨年の西日本豪雨災害でもありましたが、断水対策の給水車による給水の終了時間を17時としているところが今回も多いですね。
東日本大震災の時、ヨコミーが手伝っている避難所に、広島から多くの方々が支援に来てくれました。感謝<(_ _)> その時に来られた方から、昨年、断水で苦労している...とお聴きしました。夫婦とも働きに出ると、当時は災害の跡片付け等で帰宅が遅くなり、給水車に間に合わなかったと。お店に行っても水は無く食料品も少ないし...と、こぼしていました。まあ早く帰る子供さんの仕事になったのでしょうか(>_<) 職場が離れていれば、18時でも間に合いません。
給水車は、21時か22時まででもやれないものでしょうか。災害対策本部が有る市役所等、避難所、自衛隊さんのお風呂、駅前等々。避難所なら、避難されている方々から当番で水番して頂いても良いでしょう。共助(^_^)v
5.防犯対策
東日本大震災では、直後に泥棒も居たのですね。先日、初めて聞いたのですが、300tもの魚運搬船が打ち上げられた市内鹿折地区に有った事務所の耐火金庫が、何日かして気仙沼駅の西側数百mの所に有る小さな川で見つかったと。届けられたのは、金庫の棚に会社のゴム印?が入っていた為とか。
前日の夕方から津波が来るまでの間に稼いだ売上金が、金庫の扉がこじ開けられ、すっかり無くなっていたそうです。小さな金庫ですが、耐火仕様なので重いのです。それがいくら大津波とはいえ、海に流され、気仙沼の大川河口に辿り着き、そして遡上し、国道下の小さな川に重い身体を運んでもらったのでしょうか。鮭でも出来ないかと(^_^)v
泥棒が昼間に見当を付け、暗闇に紛れて忍び込み、山中か車内でこじ開け、金だけ取って金庫を捨てて行ったとみるのが自然(>_<)
被災されたお宅や事業所においては、出来る限り夜間の戸締まりをお願いします。材料が無ければ瓦礫を打ち付けてでも。広く壊れて出来ないかも、遅いかも知れないけど(>_<)
それが無理なら、お金や預金通帳、株券、権利書、印鑑、指輪、刀剣等々貴重品だけでも持ち出すか、信頼できる人に預けるのも手。工夫してみてください。地元の防犯協会等で巡回できれば良いのですが(>_<)
6.避難対策
昨夜のテレビで、12日の内に毎戸を回り避難を消防団が呼びかけたのに、「2階に居るから」とかの理由で、避難しない方が何人も居たと。「強制力は無いからねぇ...」と消防団の方が嘆いていました。そして洪水(>_<)
翌日救助されたお年寄りは、「ここまで水が来るとは思わなかった...」と話していました(>_<) 地元のお年寄りなのに(>_<) 離れた土地に住むヨコミーでも分かりますが、この辺り一帯はこれまで、何処かで何度も水害があった水田地帯。下流では元禄時代から排水対策工事が行われていた所。お年寄りは認識不足でした。
各自治体はハザードマップを作る事も仕事ですが、住民一人ひとりが十分理解できるよう、手を尽くさなければならないようです。説明会良し、立て札良し。工夫を(^_^)v
「仮定の質問には答えられない」とアイムソーリは言うけど、仮定・想定に対応したくない国政運営をアイムソーリ時代の前からずーっと続けてきたため、東日本大震災による福島の原発事故や大きな津波災害等が起きたと思うのです。全部がそうでなくても、多くは(*^_^*) (また言う(^_^;)
それとも、口汚く罵る彼一流の詭弁の類か? それに比べれば、いつかの大平正芳総理大臣は何枚も上手だと思うのです。劇場型でもないしね(^_^;)
災害は、いろいろと仮定・想定をして未然に防ぐ事が大切で、それが無理なら最低限の被害でくい止める対応が必要かと。いつの時代にも(^_^)v
おしまいm(_ _)m
ここは気仙沼市本吉町風の丘。
今日10月19日は、未明からの雨が夕方まで降り続きました。時折ちょっと強い風雨となりましたが、大雨洪水警報などが出る程度では無く、ホッとしました。
大きな災害となった地域の方々は、更なる被害は無かったでしょうか。捜索や復旧作業に支障が出ない事を祈ります。
昨日、所用で県北(内陸)部の栗原市まで行きましたが、大きな沼に近い所も通ったのですが、細い道路でも冠水は既に有りませんでした。
前回の冒頭で紹介した水田は、かなり水が引いていました。その様子は、別な機会に。
が、もっと南の方は、まだまだのようです(>_<)
台風19号について、先週末からテレビやラジオで情報がいろいろと入って来るのですが、被災された方々やお世話をするNPO、これからの災害に備える必要がある地域に住む方々等に、是非考えて欲しいと思った事がありますので書き連ねます。検討頂ければ幸いですm(_ _)m もちろん、笑い飛ばして頂いても結構です(>_<)
でも、折角なので続きの写真も(^_^;)
写真は前回の10月13日一連の撮影した中から、最初から3枚めを撮って100m程進んだ所。登米市東和町に在る道の駅・林林館(りんりんかん)のちょっと手前です。渋滞なので撮影できました(^_^;)
11時過ぎです。水は結構引いているようですが、真ん中の小さな建物は何でしょうか。倉庫かと思ったら、前にポストが。入口の上に有るのは文字が消えた看板?? 中を見れば板を渡して作った長椅子のようなモノも見えます。バスの待合所でしょうか。付着しているゴミを見れば、高さはコンクリートブロック4つ程の浸水でした。
左隣のお宅は床下浸水かと。どちらかといえば、更なる内陸部や県南より降水量は少ないと思うのですが、それでもこれです(>_<)
いつも振り返り撮影が多いので、今回も(^_^;)
更に300m程進んだら、道の駅前の国道346号が冠水していて、迂回(>_<) 市役所の支所前を通り、道の駅の通路を通って、再び国道へ戻りました。そのときにぱちり。ヨコミーは奥から来たのです。
これでも水は引いたのでしょうけれど、これを教訓に、国道は嵩上げされるのでしょうか。されないのでしょうか(>_<) まあ単に嵩上げすれば、左手の建物がもっと浸水するかも知れないし...(>_<)
道の駅の駐車場です。冠水しています。奥の建物はトイレなので、長靴じゃないと、用を足せません(>_<) 左端に見える道の駅本館内部にもトイレは有るのですが、夜間は玄関に鍵が掛かっていたかと。
台風の大雨が真っ盛りな未明までに、どうしても仕方無く立ち寄った人は? そしてこの夜に立ち寄る人は?? 早く水が引いてくれれば良いのですが(>_<)
ここのトイレ、本館に並んだやや高い土地が在るので、そちらへの設置が良かったかも。まあ、足腰の悪い方々に配慮したのかも知れませんが、いずれにせよ、本館の利用もして頂きたいのでしょうから、基本は同じ高さかと。後はどのようにして足腰の弱い方に配慮するか、だと思うのです。
単なるお飾り的な、状況説明写真のつもりが、なーんか、いろんな心配を書いてしまいました(>_<)
今回の台風にかかわらず、気がついた事を以下に綴ります。
1.給食は何でもいいから出すべ!
被災地の学校で、給食が出来ないために午前中で授業を打ち切ったとの報道が今夜有りました。今日は土曜日なので、昨日の事でしょうね。直後は休校したと思われるのに、給食が理由で授業時間を確保出来ないなんて、何とも残念です(>_<)
給食センターが被災したのでしょうね。でも何か出せなかったのでしょうか。ヨコミーの、その昔の給食は、調理をしないパンと牛乳というときもありました。そこは、多分食材は事前に発注しているのでしょうけれど、そのお店では納品も出来なかったのでしょうね。だったら急遽メニューを代え、パンと牛乳の類でも調達できなかったのでしょうか。被災していない市内のパン屋を探すとか、数量をこなせなければ近隣の市、更には県内、中央の山崎製パンとかいろいろ在るかと。
適切な大きさのパンが無ければ、2個でも3個でも良いかと。飲み物も牛乳、ロングライフ牛乳、お茶の類等々探せば有るはず。
児童生徒の家庭では、そんな子等を待っててお昼を出せるのでしょうか。こんな時に(>_<) 避難所のお昼に間に合うのでしょうか。家庭まで被災しているなら、子ども達の昼食だけでも、従来通り学校で面倒を見て頂ければ、大変有り難いと思うのです。
ヨコミー家では、子等が小さな時は爺婆が元気で、なんか喰わせてくれるのでしょうけれど、爺婆や母親が家に居る家庭ばかりではないでしょう。東日本大震災で会社や工場が被災したとき、両親は職場の後片付けに出ている家庭も多々ありました。遅くまで(>_<)
市や教育委員会の手配空しく...とは報道されていませんでした。気が回らなかったのかな? 期待したいです(^_^)v
2.炊き出しのメニューに配慮を!
①これも今宵の報道ですが、モツ鍋が振る舞われたと。ヨコミーは娘にご馳走した事は無いのですが、娘は食堂に行けば食べています。でも、ヨコミーは最近までは食べませんでした。ヨコミー奥様のおリュウさんは余り好みません。我が老母(ろうはは=ヨコミー語)なら、トン汁でも全くダメ。
東日本大震災の時、ヨコミーが手伝っていた避難所の或る夜のおかずは、NPOが提供した豚の角煮。豪華と思われるでしょうけれど、単品のそれのみ。お年寄りの中には肉類を食べない方も居ます。何か代わりのモノの配慮を頂きたかったです。それとも事前に調べ、こちらには何人の肉を食べない方が居ます!と、どーんと玄関に張り出しておけば良かったかな。それも申し訳なくて....(>_<)
②ヨコミーが居たその避難所に、いつか本場のカレーが炊き出しでやって来ました。ところがその後、何人もがゲーリークーパー状態に(^_^;) 食中毒じゃなく、油が身体に合わなかった方も多数居ました(^_^;) まあ、便秘になっていた方には....(^_^;)
3.ボランティア募集の範囲など
ボランティアの募集で、近隣市町村に限る自治体と、限定の無い自治体がありました。まあボランティアの業務内容に大きな違いがあるのかどうかは分かりませんが、ヨコミーが手伝っていた避難所では、関西から来ていてる方も居ました。感謝<(_ _)>
作業には泥まみれになる事もあり、その泥を流すお風呂もシャワーも有りませんよ、帰宅して入ってね...という事なのでしょうか。もう自衛隊さんの風呂は各地に転開されているようだし、やっているプールや日帰り温泉まで各自行って頂ければ入れますよ...てな感じでも良いのでは。また、0泊3日などという弾丸ボランティアツアーも有った事だし、限る事は無いかと(^_^)v
泊まる所が無いのなら、寝袋持参で来れば近くの自治会館で素泊まりできますよ...なんて出来ないのかな。地理不案内だろうし、何なら1食につき大きなおにぎり1個提供出来ますよ、飲み物は各自持参してね...ぐらいでもいいのかも。社協経由、自治体から(^_^;)
ボランティアは自己完結といわれますが、些少でも、そこは人情と感謝かと(*^_^*)
ヨコミーが避難所を手伝っていた当時の当初、停電でした。携帯充電ボランティアが来たのですが、ボランティアの人手が足りず、ヨコミーが並ぶ人を整理していたら、避難所のお偉いさんから「ヨコミー、ボランティアを手伝ってどうする!? ボランティアは自己完結だぞっ!!」と大きな声でご注意を受けました(>_<) そんなものなのでしょうか。ヨコミーは、避難している方々がその時点で大きく必要としている内の一つである携帯の充電にも、配慮すべきと思うのです。避難所でその欲求を満たす事は出来なかったのですから。決して大衆迎合ではありませんし、他に最優先すべき事は無いはずでした。ヨコミーの一人や二人ぐらい...。
いやヨコミーを千手観音のようにいっぱい手を持っている、欠かす事が出来ない重要人物だと思っているのでしょうか? あっ、この感じ、いつかも有ったなぁ...(^_^;)
4.給水車の稼働時間
昨年の西日本豪雨災害でもありましたが、断水対策の給水車による給水の終了時間を17時としているところが今回も多いですね。
東日本大震災の時、ヨコミーが手伝っている避難所に、広島から多くの方々が支援に来てくれました。感謝<(_ _)> その時に来られた方から、昨年、断水で苦労している...とお聴きしました。夫婦とも働きに出ると、当時は災害の跡片付け等で帰宅が遅くなり、給水車に間に合わなかったと。お店に行っても水は無く食料品も少ないし...と、こぼしていました。まあ早く帰る子供さんの仕事になったのでしょうか(>_<) 職場が離れていれば、18時でも間に合いません。
給水車は、21時か22時まででもやれないものでしょうか。災害対策本部が有る市役所等、避難所、自衛隊さんのお風呂、駅前等々。避難所なら、避難されている方々から当番で水番して頂いても良いでしょう。共助(^_^)v
5.防犯対策
東日本大震災では、直後に泥棒も居たのですね。先日、初めて聞いたのですが、300tもの魚運搬船が打ち上げられた市内鹿折地区に有った事務所の耐火金庫が、何日かして気仙沼駅の西側数百mの所に有る小さな川で見つかったと。届けられたのは、金庫の棚に会社のゴム印?が入っていた為とか。
前日の夕方から津波が来るまでの間に稼いだ売上金が、金庫の扉がこじ開けられ、すっかり無くなっていたそうです。小さな金庫ですが、耐火仕様なので重いのです。それがいくら大津波とはいえ、海に流され、気仙沼の大川河口に辿り着き、そして遡上し、国道下の小さな川に重い身体を運んでもらったのでしょうか。鮭でも出来ないかと(^_^)v
泥棒が昼間に見当を付け、暗闇に紛れて忍び込み、山中か車内でこじ開け、金だけ取って金庫を捨てて行ったとみるのが自然(>_<)
被災されたお宅や事業所においては、出来る限り夜間の戸締まりをお願いします。材料が無ければ瓦礫を打ち付けてでも。広く壊れて出来ないかも、遅いかも知れないけど(>_<)
それが無理なら、お金や預金通帳、株券、権利書、印鑑、指輪、刀剣等々貴重品だけでも持ち出すか、信頼できる人に預けるのも手。工夫してみてください。地元の防犯協会等で巡回できれば良いのですが(>_<)
6.避難対策
昨夜のテレビで、12日の内に毎戸を回り避難を消防団が呼びかけたのに、「2階に居るから」とかの理由で、避難しない方が何人も居たと。「強制力は無いからねぇ...」と消防団の方が嘆いていました。そして洪水(>_<)
翌日救助されたお年寄りは、「ここまで水が来るとは思わなかった...」と話していました(>_<) 地元のお年寄りなのに(>_<) 離れた土地に住むヨコミーでも分かりますが、この辺り一帯はこれまで、何処かで何度も水害があった水田地帯。下流では元禄時代から排水対策工事が行われていた所。お年寄りは認識不足でした。
各自治体はハザードマップを作る事も仕事ですが、住民一人ひとりが十分理解できるよう、手を尽くさなければならないようです。説明会良し、立て札良し。工夫を(^_^)v
「仮定の質問には答えられない」とアイムソーリは言うけど、仮定・想定に対応したくない国政運営をアイムソーリ時代の前からずーっと続けてきたため、東日本大震災による福島の原発事故や大きな津波災害等が起きたと思うのです。全部がそうでなくても、多くは(*^_^*) (また言う(^_^;)
それとも、口汚く罵る彼一流の詭弁の類か? それに比べれば、いつかの大平正芳総理大臣は何枚も上手だと思うのです。劇場型でもないしね(^_^;)
災害は、いろいろと仮定・想定をして未然に防ぐ事が大切で、それが無理なら最低限の被害でくい止める対応が必要かと。いつの時代にも(^_^)v
おしまいm(_ _)m
復旧工事進む大谷海岸 東端からの風景 20190807 [東日本大震災]
こんにちは、ヨコミーです。
ここは気仙沼市本吉町風の丘。
今夜は少し冷えています。今夏も、良い天気には恵まれず、終わりました。来年の夏も、好天が期待出来ない夏になるのでしょうか....。
8月7日、所用で気仙沼の街まで出掛けた帰路、東日本大震災で、海水浴場の砂が流失したり、道の駅や付近の民家等に大きな被害を受けた大谷海岸を、いつもとは違った方向から見たくて、大谷の通称「街」を抜けて左折し、旧・JR気仙沼線の踏切を渡り、いったん中華高橋水産方向へ進み、間もなく右折して少し進んだ辺りでパチリ。
以前というか3年前か、地元のネギ生産組合がネギを植えていた辺りからの撮影です。ほぼ正面奥に見える小さな森(舘鼻崎)から右手が大谷海岸です。裏側から(^_^;)
ここから左へ進み、画面左奥に見える防潮堤にぶつかったら右に進み、小さな森の右下に見える坂道を登って行きます(^_^)v
それにしても、手前には震災後、多分補助金という税金も頂いて整備された畑ですが、この日も、2か月くらい前に来た時も、ネギの姿は有りませんでした。ネギ生産が始まる直前、人伝えに、組合の方が「これから忙しくなる...」と言っていたとか。なのに現況は???
向こうに見えていた坂道を上ると、まもなく開け、海が見えてきました。大谷海岸は凡そ南向きで、その東端は小さな漁港になっています。
左奥に霞む山、山頂が手前の森から出ている枝に隠れていますが(^_^;)、南三陸町境のツツジ山・田束山(たつがねさん)です。
右手に見える電柱の少し左、左右に伸びる防波堤の向こう岸に、小さくてすみませんが、日門漁港を守る灰色の防波堤が見えます。防波堤は左から右へ伸びていて、右端に白い小さなトゲのような灯台が見えています。まっ、灯台は先端なんですが、直ぐ右に岩だらけの小島が在り、先端じゃない!!!風に見えているのが残念。
なので、今年1月に、向こう岸から撮った写真がこれ!!
今年1月13日撮影です。この並びの写真から、1月辺りのブログに載せています。もっと右から撮ったカットにしたかったのですが、この日もそのようなカットは無く、未整理なもので....(>_<)
手前は日門海岸の防波堤で、右は漁港、左は海水浴をしている砂浜。先端に岩だらけの小島があり、ウミネコが生息しています。
問題は更に奥。やや右手に岩山の上から白い姿を見せているのが日門漁港の灯台。この灯台は、右奥から伸びる防波堤の先端に在ります。
が、左奥に見える大谷海岸防潮堤の工事現場から見れば、日門漁港の防波堤先端に白い灯台が見えるものの、途切れたはずの防波堤先端には、この岩山が続いているように見えるワケ。
今回ブログに使った写真は、その多くを一部完成した防潮堤の右手、土色の坂道のような所から撮影しました。黒っぽい杉か松の木の下側です。
小さく写っている対象に、時間を掛けすぎました。すみませんm(_ _)m まあそれにしても、このウミネコたちは、とても可愛いですよ。手で触れるくらい近づいて、漸くよちよちと逃げて行きます(^_^)v
漁港から西側です。大谷海岸の砂浜は、漁港から奥の白い色の建物付近まで続きます。
白い色の建物から少し右に離れて、白い色の線が見え、更に少し離れた右にもやや太い白い色の線が見えますが、これらは仮設の、新旧の道の駅です。
因みに、左端から伸びる防波堤の先端、その直ぐ上に見えるのが、プライベートビーチみたいな九多丸の砂浜。以前も紹介しましたが、海水浴場の設定は無く、トイレやシャワーも無く、監視員もいません。なのに今夏も何人か来ていましたが、ここでの海水浴はやめましょう。
これが九多丸の浜。今年、初日の出直後に撮影。奥の正面から左は大谷海岸、奥の右端が舘鼻崎です。
地元のカッパが若い頃、日門から大谷海水浴場を目指したのですが、九多丸の浜は離岸流が早く、慌てたと(>_<)
君子危うしに近寄らず...ですよ(^_^)v
カメラは更に右続きへ。この防潮堤の一部が、日門漁港から見えていました。防潮堤工事は未だ始まったばかり。
でも、こんな緩い傾斜の防潮堤で、万が一の時は大丈夫なのでしょうか。先月に開かれた、日門海岸防潮堤の説明会で、顔見知りから仕入れた情報によれば、この先の防潮堤は階段状になり、腰掛けることが出来るとか。
こんな緩い傾斜じゃ、万が一の際は津波が登ってくると思うのですが、なんで岸壁みたいな、出来ればお城に有る石垣の「忍び返し」みたいな作りにしなかったのか....(>_<) 同じ高さでも、効果的な作りが大切と思うのですが。
因みに、数百m離れた「大谷の街」の東側に在る防潮堤は絶壁タイプです。そちらは県工事の防潮堤で、こちらは国。皆さんが津波なら、どちらが登り易いですか?と聞くまでもない事だと思うのですが(^_^)v
工事現場の拡大です。
漁港の背後地は、余り知られていませんが、砂丘でした。大谷海岸はほぼ東西に延びる砂浜で、気仙沼は一般的には北西の風が強いので、普通に考えれば海岸の砂は全て海に戻されるような気がします。
しかし、ヨコミー家でもですが結構西風が強く、時には南西からも強い風が吹くのです。
こんなことを考えれば、砂浜の東に砂丘が作られることは不思議ではありません(^_^)v
海が荒れている時、ホテルからこちらを見ると、立てた鉄板に大波が当たり、凄い高さの飛沫を上げていました。昨年秋頃の当ブログに有ります。
中央やや上の、民家の並びの下端辺りに、左右に伸びる白っぽい線が見えます。これは、防潮堤工事に伴って付け替えられた、仮に設けられた国道45号のガードレールです。以前の国道はその下、白い何台かの車輌が見える辺り。
左端、黄色い重機の左にちょっとだけ見える建物が、従来から在る道の駅のトイレです。そんな高さでした。
真ん中を左右に伸びるのが付け替えられた国道です。その下右端が旧・道の駅のトイレ。より白っぽい左隣の建物が、加工と物販、食堂の建物。
左端、国道の上に見えるのが新しい道の駅ですが、「仮設」と聞きます。本当でしょうか? どうせあの辺りに作るのですから、支障となる建物も無いし、先に盛土等の工事を進め、道の駅の建物は直ぐ本設とすべきじゃなかったのかなぁ...と。「仮設」の真偽の程をもっと掘り下げてみます。
道の駅の上に小さなトンネルが見えますが、三陸道の下を抜ける通い道です。その左側は、東日本大震災による大津波で、日本家屋の2階部分が2つも運ばれてきたところです。
今三陸沿岸各地で大きな防潮堤が作られていますが、残念ながら再び東日本大震災級の津波が来たら、十分に対応出来る防潮堤ではないのです。レベル1津波(通常L1=「エルワン」といいます)という、津波高はより低いものの発生頻度が高い津波に合わせた高さとか。因みに東日本大震災級はより大きなL2(エルツー)。
ヨコミーにすれば低くて残念ですが、発生頻度は低く、税金もより多くなるだろうし、第一、沿岸に平地が少ない三陸では、全部とは物理的にも不可能かと(^_^;) 対応は避難併用だと。仕方無いなぁ(>_<)
海辺の小高い丘に建つホテル・海洋館。国道は、計画では大谷海岸防潮堤の上を走り、ほぼ水平でホテル右側の交差点に繋がります。
直ぐ下はJR気仙沼線の鉄路跡地を経て砂浜に(^_^)v ホテルと砂浜の間に見える黒い階段状の物は、大きな土嚢(どのう)。
土嚢は、大津波でそれまでの防潮堤や砂浜、松林までも流されたので、海岸保全のため、置かれています。これらも近々、防潮堤に代わります。
ホテル右上に民家がちょっと見えますが、ここが風の丘。台風の時など、波飛沫が遠くまで飛ばされ、風の丘に建つ民家の外壁や扉に付くことも(>_<) なのでこの辺は、車庫に車を仕舞う家が多いです(^_^;)
左端やや下に左右に伸びる白い線は、三陸道のガードレールかと。インター付近です。
ヨコミー、出来ることなら防潮堤は作りたくないのですが、守るべき命、生活、自然環境がある限り、作らなくてはならないと、先月、意とする防潮堤の姿ではありませんでしたが、賛成票を投じ、地元としても推進することとなりました。
反対の方の中には、「子や孫達にまで借金を残すのか!」「将来まで補修費が掛かるのでダメだ」と言う方も居ました。
でも、私だって震災後の一時期、所得税に上乗せさせられて、お金を拠出しました。覚えていますか? 多分サラリーマンだけじゃなく、納税している多くの方々も。
ヨコミーから言わせれば、なんで今の世代だけが負担しなければならないのか!!!ということ。
受ける恩恵は続くのですから、いや、続けさせなければならないと思うので、今回の大地震は1000年に一度というなら、1000年のローンを組んで各世代に負担してもらいたいのです。もちろんメンテナンス費用も含めて(^_^;)
でもまあ、費用を負担し、子や孫、子々孫々まで、津波被害から守ってあげたいのですよ(^_^)v
あの津波の恐ろしさを、私は、わ、す、れ、な、い。
老母(ろうはは=ヨコミー語)は今日はデーサービスでした。夕方戻ってきたら、送ってきた方が、「今日は2回でした」と。どうりで持たせたズボンじゃ無く、施設のズボンを穿いていました(>_<)
夕食を終え、ベッドから22時に定時のトイレへ。車椅子へ移す前から臭い、トイレで開けたらなんとごしゃごしゃ(>_<)
先週金曜日は、朝、デーに行くために着替えていたら、なんと臭く、開けて見たら大(>_<) 夕方デーから戻ってベッドに移そうとしたら、なんと臭い。開けて見たらまたまた大(>_<)
なんとも、施設に迷惑を掛けないよう、息子夫婦に手間を掛けさせてくれました(T_T)
老母は、こんな暮らしをどう思っているんでしょうか。苦労して子ども達を育て、そしてちょっとはささやかな幸福感を味わったかも知れないけど、間近で見てきたし、いろんな話も聞いたことによれば、その人生の多くは、苦難の連続だったと思うのです。
こんな今の老母に、幸せを与える神様は居ないようですね。といってヨコミーが神様に代わって役目を果たすことが出来るかといえば、それには修行が足らない(>_<)
もし今の老母にヨコミーが幸せを届けることが出来るなら、ヨコミーは教祖様になろうかなっ(^_^)v
老母は今夜も静かに眠っています。でも、明朝はちゃーんと起きてね(^_^;)
おしまい。
ここは気仙沼市本吉町風の丘。
今夜は少し冷えています。今夏も、良い天気には恵まれず、終わりました。来年の夏も、好天が期待出来ない夏になるのでしょうか....。
8月7日、所用で気仙沼の街まで出掛けた帰路、東日本大震災で、海水浴場の砂が流失したり、道の駅や付近の民家等に大きな被害を受けた大谷海岸を、いつもとは違った方向から見たくて、大谷の通称「街」を抜けて左折し、旧・JR気仙沼線の踏切を渡り、いったん中華高橋水産方向へ進み、間もなく右折して少し進んだ辺りでパチリ。
以前というか3年前か、地元のネギ生産組合がネギを植えていた辺りからの撮影です。ほぼ正面奥に見える小さな森(舘鼻崎)から右手が大谷海岸です。裏側から(^_^;)
ここから左へ進み、画面左奥に見える防潮堤にぶつかったら右に進み、小さな森の右下に見える坂道を登って行きます(^_^)v
それにしても、手前には震災後、多分補助金という税金も頂いて整備された畑ですが、この日も、2か月くらい前に来た時も、ネギの姿は有りませんでした。ネギ生産が始まる直前、人伝えに、組合の方が「これから忙しくなる...」と言っていたとか。なのに現況は???
向こうに見えていた坂道を上ると、まもなく開け、海が見えてきました。大谷海岸は凡そ南向きで、その東端は小さな漁港になっています。
左奥に霞む山、山頂が手前の森から出ている枝に隠れていますが(^_^;)、南三陸町境のツツジ山・田束山(たつがねさん)です。
右手に見える電柱の少し左、左右に伸びる防波堤の向こう岸に、小さくてすみませんが、日門漁港を守る灰色の防波堤が見えます。防波堤は左から右へ伸びていて、右端に白い小さなトゲのような灯台が見えています。まっ、灯台は先端なんですが、直ぐ右に岩だらけの小島が在り、先端じゃない!!!風に見えているのが残念。
なので、今年1月に、向こう岸から撮った写真がこれ!!
今年1月13日撮影です。この並びの写真から、1月辺りのブログに載せています。もっと右から撮ったカットにしたかったのですが、この日もそのようなカットは無く、未整理なもので....(>_<)
手前は日門海岸の防波堤で、右は漁港、左は海水浴をしている砂浜。先端に岩だらけの小島があり、ウミネコが生息しています。
問題は更に奥。やや右手に岩山の上から白い姿を見せているのが日門漁港の灯台。この灯台は、右奥から伸びる防波堤の先端に在ります。
が、左奥に見える大谷海岸防潮堤の工事現場から見れば、日門漁港の防波堤先端に白い灯台が見えるものの、途切れたはずの防波堤先端には、この岩山が続いているように見えるワケ。
今回ブログに使った写真は、その多くを一部完成した防潮堤の右手、土色の坂道のような所から撮影しました。黒っぽい杉か松の木の下側です。
小さく写っている対象に、時間を掛けすぎました。すみませんm(_ _)m まあそれにしても、このウミネコたちは、とても可愛いですよ。手で触れるくらい近づいて、漸くよちよちと逃げて行きます(^_^)v
漁港から西側です。大谷海岸の砂浜は、漁港から奥の白い色の建物付近まで続きます。
白い色の建物から少し右に離れて、白い色の線が見え、更に少し離れた右にもやや太い白い色の線が見えますが、これらは仮設の、新旧の道の駅です。
因みに、左端から伸びる防波堤の先端、その直ぐ上に見えるのが、プライベートビーチみたいな九多丸の砂浜。以前も紹介しましたが、海水浴場の設定は無く、トイレやシャワーも無く、監視員もいません。なのに今夏も何人か来ていましたが、ここでの海水浴はやめましょう。
これが九多丸の浜。今年、初日の出直後に撮影。奥の正面から左は大谷海岸、奥の右端が舘鼻崎です。
地元のカッパが若い頃、日門から大谷海水浴場を目指したのですが、九多丸の浜は離岸流が早く、慌てたと(>_<)
君子危うしに近寄らず...ですよ(^_^)v
カメラは更に右続きへ。この防潮堤の一部が、日門漁港から見えていました。防潮堤工事は未だ始まったばかり。
でも、こんな緩い傾斜の防潮堤で、万が一の時は大丈夫なのでしょうか。先月に開かれた、日門海岸防潮堤の説明会で、顔見知りから仕入れた情報によれば、この先の防潮堤は階段状になり、腰掛けることが出来るとか。
こんな緩い傾斜じゃ、万が一の際は津波が登ってくると思うのですが、なんで岸壁みたいな、出来ればお城に有る石垣の「忍び返し」みたいな作りにしなかったのか....(>_<) 同じ高さでも、効果的な作りが大切と思うのですが。
因みに、数百m離れた「大谷の街」の東側に在る防潮堤は絶壁タイプです。そちらは県工事の防潮堤で、こちらは国。皆さんが津波なら、どちらが登り易いですか?と聞くまでもない事だと思うのですが(^_^)v
工事現場の拡大です。
漁港の背後地は、余り知られていませんが、砂丘でした。大谷海岸はほぼ東西に延びる砂浜で、気仙沼は一般的には北西の風が強いので、普通に考えれば海岸の砂は全て海に戻されるような気がします。
しかし、ヨコミー家でもですが結構西風が強く、時には南西からも強い風が吹くのです。
こんなことを考えれば、砂浜の東に砂丘が作られることは不思議ではありません(^_^)v
海が荒れている時、ホテルからこちらを見ると、立てた鉄板に大波が当たり、凄い高さの飛沫を上げていました。昨年秋頃の当ブログに有ります。
中央やや上の、民家の並びの下端辺りに、左右に伸びる白っぽい線が見えます。これは、防潮堤工事に伴って付け替えられた、仮に設けられた国道45号のガードレールです。以前の国道はその下、白い何台かの車輌が見える辺り。
左端、黄色い重機の左にちょっとだけ見える建物が、従来から在る道の駅のトイレです。そんな高さでした。
真ん中を左右に伸びるのが付け替えられた国道です。その下右端が旧・道の駅のトイレ。より白っぽい左隣の建物が、加工と物販、食堂の建物。
左端、国道の上に見えるのが新しい道の駅ですが、「仮設」と聞きます。本当でしょうか? どうせあの辺りに作るのですから、支障となる建物も無いし、先に盛土等の工事を進め、道の駅の建物は直ぐ本設とすべきじゃなかったのかなぁ...と。「仮設」の真偽の程をもっと掘り下げてみます。
道の駅の上に小さなトンネルが見えますが、三陸道の下を抜ける通い道です。その左側は、東日本大震災による大津波で、日本家屋の2階部分が2つも運ばれてきたところです。
今三陸沿岸各地で大きな防潮堤が作られていますが、残念ながら再び東日本大震災級の津波が来たら、十分に対応出来る防潮堤ではないのです。レベル1津波(通常L1=「エルワン」といいます)という、津波高はより低いものの発生頻度が高い津波に合わせた高さとか。因みに東日本大震災級はより大きなL2(エルツー)。
ヨコミーにすれば低くて残念ですが、発生頻度は低く、税金もより多くなるだろうし、第一、沿岸に平地が少ない三陸では、全部とは物理的にも不可能かと(^_^;) 対応は避難併用だと。仕方無いなぁ(>_<)
海辺の小高い丘に建つホテル・海洋館。国道は、計画では大谷海岸防潮堤の上を走り、ほぼ水平でホテル右側の交差点に繋がります。
直ぐ下はJR気仙沼線の鉄路跡地を経て砂浜に(^_^)v ホテルと砂浜の間に見える黒い階段状の物は、大きな土嚢(どのう)。
土嚢は、大津波でそれまでの防潮堤や砂浜、松林までも流されたので、海岸保全のため、置かれています。これらも近々、防潮堤に代わります。
ホテル右上に民家がちょっと見えますが、ここが風の丘。台風の時など、波飛沫が遠くまで飛ばされ、風の丘に建つ民家の外壁や扉に付くことも(>_<) なのでこの辺は、車庫に車を仕舞う家が多いです(^_^;)
左端やや下に左右に伸びる白い線は、三陸道のガードレールかと。インター付近です。
ヨコミー、出来ることなら防潮堤は作りたくないのですが、守るべき命、生活、自然環境がある限り、作らなくてはならないと、先月、意とする防潮堤の姿ではありませんでしたが、賛成票を投じ、地元としても推進することとなりました。
反対の方の中には、「子や孫達にまで借金を残すのか!」「将来まで補修費が掛かるのでダメだ」と言う方も居ました。
でも、私だって震災後の一時期、所得税に上乗せさせられて、お金を拠出しました。覚えていますか? 多分サラリーマンだけじゃなく、納税している多くの方々も。
ヨコミーから言わせれば、なんで今の世代だけが負担しなければならないのか!!!ということ。
受ける恩恵は続くのですから、いや、続けさせなければならないと思うので、今回の大地震は1000年に一度というなら、1000年のローンを組んで各世代に負担してもらいたいのです。もちろんメンテナンス費用も含めて(^_^;)
でもまあ、費用を負担し、子や孫、子々孫々まで、津波被害から守ってあげたいのですよ(^_^)v
あの津波の恐ろしさを、私は、わ、す、れ、な、い。
老母(ろうはは=ヨコミー語)は今日はデーサービスでした。夕方戻ってきたら、送ってきた方が、「今日は2回でした」と。どうりで持たせたズボンじゃ無く、施設のズボンを穿いていました(>_<)
夕食を終え、ベッドから22時に定時のトイレへ。車椅子へ移す前から臭い、トイレで開けたらなんとごしゃごしゃ(>_<)
先週金曜日は、朝、デーに行くために着替えていたら、なんと臭く、開けて見たら大(>_<) 夕方デーから戻ってベッドに移そうとしたら、なんと臭い。開けて見たらまたまた大(>_<)
なんとも、施設に迷惑を掛けないよう、息子夫婦に手間を掛けさせてくれました(T_T)
老母は、こんな暮らしをどう思っているんでしょうか。苦労して子ども達を育て、そしてちょっとはささやかな幸福感を味わったかも知れないけど、間近で見てきたし、いろんな話も聞いたことによれば、その人生の多くは、苦難の連続だったと思うのです。
こんな今の老母に、幸せを与える神様は居ないようですね。といってヨコミーが神様に代わって役目を果たすことが出来るかといえば、それには修行が足らない(>_<)
もし今の老母にヨコミーが幸せを届けることが出来るなら、ヨコミーは教祖様になろうかなっ(^_^)v
老母は今夜も静かに眠っています。でも、明朝はちゃーんと起きてね(^_^;)
おしまい。