気仙沼の今 三坂~太田~魚町 20171230 [東日本大震災]
こんにちはヨコミーです。
ここは気仙沼市本吉町風の丘。
一昨日の夕方辺りから、気仙沼も割と寒くなりました。
1月12日、今朝、気仙沼のアメダスは午前7時に-5.3℃を記録しました。
そこは、室根おろしという冷たい風が当たる、気仙沼駅向かいの水道山ですけど(^_^;)
でも、平地を見ると、殆ど雪はありません。
12月30日、鹿折地区へ行った折、帰路、JRのトンネルを越える栄町の三坂(さんさか)を上り、太田(おおた)を下ってきました。
三坂と太田の境となる峠は、以前紹介した復興祈念公園が出来る陣山の天辺へ行く道があります。
三坂も狭い道ですが、今回は峠から狭い道の太田一丁目を下り、魚町へ至ります。
※写真はクリックすると大きくなります。
峠から下り始めた辺り。トンネルの上。
お得意の振り返り撮影(^_^;)
トンネルが見えます。太田から入沢へ抜けるJR大船渡線の。気仙沼駅へ至ります。
震災以前は鉄路でしたが、今ではBRTという代替バス(>_<)
JR大船渡線は、陸前高田駅付近は大きな被害でしたが、2駅手前の陸前矢作駅から気仙沼駅までを見ると、鹿折駅付近の被害だけ。
小さな駅舎を建て、津波で少し傷んだ土手やレールを整備するだけで、鉄路は県境を引き続き結んだはず....。
トンネルの手前には、二丁目へ登る踏切があります。
そこまで下り、左へ。
踏切の角を曲がって、下手をパチリ。
左角は酒屋さんだったか....。その右隣は魚屋さん。
通りの奥に見えるのは、内湾を隔てた気仙沼プラザホテル。
見ての通り、狭い道幅。避難路整備の名で拡幅するのでしょうけれど、津波被害に遭わなかった家々も、その家を追われることに....(>_<)
下ります。
中央から左は「両国」という酒造メーカー。
気仙沼にも両国があります(^_^)v
太田は飲み屋街でした。昔は赤線もあったとか。
漁船漁業が衰退しつつあり、飲み屋は数えるほどしかありません。ヨコミー、その昔、月イチで各店他を回っていました。お仕事(^_^;)
この辺り、普通車は楽にすれ違えますが....。
下手はちょっとだけ曲がっているので、道の先を魚町・入沢の災害公営住宅がふさぐ感じで建っています。
駐車場が目立つのは、大津波後、家が再建されてないため。
工事中(中断?)の建物までが太田一丁目。
更に下ります。
亀の湯は魚町一丁目。ここも東日本大震災による大津波で、大きな被害を受けたのですが、修繕して営業を再開していました。
でも昨春、惜しまれながら廃業に(>_<)
ヨコミー小さい頃、鹿折から三坂を越え、1回か入りに来ました。鹿折は浜の湯でしたが、何の都合だったか....。
亀の湯の海側には、県道に面する薬局が在りました。
ここに勤めていた元気なお姉さんが、当時の職場にも来て、注文を引き出していました(^_^;)
営業はかくあるべき....を実践したお姉さん、今は何処で何をしているのか....。
奥に見えるのは大島の亀山。
手前、黄色い重機の運転席辺りから左に伸びる灰色の構造物は、内湾の防潮堤らしいです。その下、横に伸びる白は、日陰に残っている雪でしょう。
因みに、ホテルの下の白は内湾の海(^_^)
内湾手前にはぎっしりと建物が在りましたのに、まだまだ。
次は右手へ。
県道の信号待ちなので、右角もパチリ。
ここには時計屋さんが在りました。
電柱の右には、南町の災害公営住宅が見えます。
右上の小山には気仙沼小学校が在ります。
大津波以前は家々が建ち並び、ここからは小山が見えなかったのですがねぇ。
復旧さえこんな感じ。復興なんてまだまだ、いつのことなんでしょうか(>_<)
さて、そろそろ信号が変わります。
車が動き出すので、本日はここまで(^_^)v
ここは気仙沼市本吉町風の丘。
一昨日の夕方辺りから、気仙沼も割と寒くなりました。
1月12日、今朝、気仙沼のアメダスは午前7時に-5.3℃を記録しました。
そこは、室根おろしという冷たい風が当たる、気仙沼駅向かいの水道山ですけど(^_^;)
でも、平地を見ると、殆ど雪はありません。
12月30日、鹿折地区へ行った折、帰路、JRのトンネルを越える栄町の三坂(さんさか)を上り、太田(おおた)を下ってきました。
三坂と太田の境となる峠は、以前紹介した復興祈念公園が出来る陣山の天辺へ行く道があります。
三坂も狭い道ですが、今回は峠から狭い道の太田一丁目を下り、魚町へ至ります。
※写真はクリックすると大きくなります。
峠から下り始めた辺り。トンネルの上。
お得意の振り返り撮影(^_^;)
トンネルが見えます。太田から入沢へ抜けるJR大船渡線の。気仙沼駅へ至ります。
震災以前は鉄路でしたが、今ではBRTという代替バス(>_<)
JR大船渡線は、陸前高田駅付近は大きな被害でしたが、2駅手前の陸前矢作駅から気仙沼駅までを見ると、鹿折駅付近の被害だけ。
小さな駅舎を建て、津波で少し傷んだ土手やレールを整備するだけで、鉄路は県境を引き続き結んだはず....。
トンネルの手前には、二丁目へ登る踏切があります。
そこまで下り、左へ。
踏切の角を曲がって、下手をパチリ。
左角は酒屋さんだったか....。その右隣は魚屋さん。
通りの奥に見えるのは、内湾を隔てた気仙沼プラザホテル。
見ての通り、狭い道幅。避難路整備の名で拡幅するのでしょうけれど、津波被害に遭わなかった家々も、その家を追われることに....(>_<)
下ります。
中央から左は「両国」という酒造メーカー。
気仙沼にも両国があります(^_^)v
太田は飲み屋街でした。昔は赤線もあったとか。
漁船漁業が衰退しつつあり、飲み屋は数えるほどしかありません。ヨコミー、その昔、月イチで各店他を回っていました。お仕事(^_^;)
この辺り、普通車は楽にすれ違えますが....。
下手はちょっとだけ曲がっているので、道の先を魚町・入沢の災害公営住宅がふさぐ感じで建っています。
駐車場が目立つのは、大津波後、家が再建されてないため。
工事中(中断?)の建物までが太田一丁目。
更に下ります。
亀の湯は魚町一丁目。ここも東日本大震災による大津波で、大きな被害を受けたのですが、修繕して営業を再開していました。
でも昨春、惜しまれながら廃業に(>_<)
ヨコミー小さい頃、鹿折から三坂を越え、1回か入りに来ました。鹿折は浜の湯でしたが、何の都合だったか....。
亀の湯の海側には、県道に面する薬局が在りました。
ここに勤めていた元気なお姉さんが、当時の職場にも来て、注文を引き出していました(^_^;)
営業はかくあるべき....を実践したお姉さん、今は何処で何をしているのか....。
奥に見えるのは大島の亀山。
手前、黄色い重機の運転席辺りから左に伸びる灰色の構造物は、内湾の防潮堤らしいです。その下、横に伸びる白は、日陰に残っている雪でしょう。
因みに、ホテルの下の白は内湾の海(^_^)
内湾手前にはぎっしりと建物が在りましたのに、まだまだ。
次は右手へ。
県道の信号待ちなので、右角もパチリ。
ここには時計屋さんが在りました。
電柱の右には、南町の災害公営住宅が見えます。
右上の小山には気仙沼小学校が在ります。
大津波以前は家々が建ち並び、ここからは小山が見えなかったのですがねぇ。
復旧さえこんな感じ。復興なんてまだまだ、いつのことなんでしょうか(>_<)
さて、そろそろ信号が変わります。
車が動き出すので、本日はここまで(^_^)v
気仙沼の今 打ち上げられた300t船の下手界隈 20171230 [東日本大震災]
こんにちは、ヨコミーです。
ここは気仙沼市本吉町風の丘。
今日1月6日は朝から余り陽が射さないなぁ....と思っていたら、青空が南にまで広がり、段々と晴れてきました。
それでも午後からは雲が多くなり、午後3時頃は小雨がぱらつきました。そう、雪じゃなかったのでした。
そんな中、午前中から家庭菜園の土を起こしたり、今頃ですがニンニクも植えました(^_^;)
ニンニクは秋蒔きのはずですが、今頃でも春でも、それなりに育ってくれます。
もちろん、黒マルチと呼ばれるビニールシートの中に。
これで地温がいくらかでも上がり、より育ってくれるのでしょう(^_^)v
12月30日、所用で生まれ故郷の市内鹿折(ししおり)地区へ行きました。
車を停めたのは、工事でしばらく立ち入りが難しかった新浜町一丁目5番と7番の間に在る市道。
別な方向から言えば、東日本大震災による大津波で、300tもの船が打ち上げられましたが、そこから南南西に150m近く離れた所。(船は今は在りません)
ここ。
https://www.google.co.jp/maps/@38.9142209,141.5812485,18z
※写真はクリックすると大きくなります。
まず西方向から。
左手前には池田塗装店が在りました。
左右の端に伸びる白いガードレールは、以前は鉄路のJR大船渡線が走っていました。
しかし大津波後、JRはBRTという専用道を走るバス路線にしてしまいました(T_T)
大津波は小高い土手の線路を越え、特に右側は乗用車まで乗り越えるほどの水嵩でしたが、土手自体、大きな傷みは無かったはず。
右手少し先に在る鹿折駅辺りまで津波は越しましたが、以北は越すことは無く、県境を越え、陸前高田市の陸前矢作駅まで被害は無いと思います。(参考:陸前高田市浸水区域図)
ヨコミー、被災地の復旧復興に、それまで在ったJRの鉄路は、即時復旧が必要だと思うのですよ(^_^)v
鹿折の小さな駅舎を建て、前後の錆びた線路を敷き代える等の整備で、とりあえず気仙沼駅から陸前高田駅の2つ手前・陸前矢作(りくぜんやはぎ)駅まで、列車が走ったはず。既に。
陸前高田の旧・市街地は、まだまだ整備の途中で、今後どうなるのかヨコミーには分かりませんが、気仙沼以南のBRT関連工事を見ていると、JRがやる気なら、陸前矢作駅までは、既に開通していたと思える期間が経過しちゃったのですよ。
JR大船渡線は、JR気仙沼線と同様、鉄路は見捨てられるのでしょうか(>_<)
よーく、「1票の格差、1票の格差」と騒いでいる都会の弁護士さん等は、こんな地方の、更に地方の状況を、知らないだろうし、見る暇も無いのでしょうね(*^_^*)
力を発揮出来ない代議士は不要で差し上げてもいいのですが、その「枠」だけは、どうかそのまま置いててくれませんかねぇ(^_^;)
鉄路の復旧に金が掛かるので、地元に大枚の負担を求めたJR(>_<)
国に陳情すれば、利益を出している民間企業のJRに、鉄路復旧の補助金は出せぬと(>_<)
なのに、アイムソーリは、同じく被災したJR常磐線については「国が責任を持って復旧させます」とテレビで言っていた。国が気仙沼に言う、「民間企業」にですよ!!
JRは、昨年流行の忖度をしたのだろうか??? 圧力があった!?? こっそりと補助金を頂いた???
常磐線の宮城県側は、既に1年余り前に開通しました。福島県側を含めて、31
年度末には全線鉄路で開通の予定です。
その鉄路での全線開通ですが、気仙沼線は首の皮一枚も繋がっていないよう...(T_T)
因みに、宮城のJR仙石線は既に復旧して全通しています。
大船渡線はどうなるのだろう.....(>_<)
自民党を飛び出したO沢大先生が居残りしていたなら、今頃は矢作駅に止まらず、より先の竹駒駅、いやいや陸前高田駅まで開通させていたかも(^_^;) 好きじゃない先生ですが(^_^)v
あっ、道草しちゃった(^_^;)
左奥の山は、旧・気仙沼町と鹿折町(多分白山小学区と浦島小学区を除く)のシンボル的山の安波山(あんばさん、あんばやま)。
中央上の小山の天辺は、「ご飯9(21。喰う)時」の現場(^_^;) 我が父は、何も言わずに頑張りましたm(_ _)m
左隣の南西方向です。BRT専用道のガードレールがずーっと.....。
ヨコミーが立っているのは以前からの道ですが、どうやら南側にちょっとずれて付け替えられるようです。
左のピンクリボンの奥にトンネルが在り、その上を三坂という坂が通っていて、旧・気仙沼町の太田という飲み屋街を経て、市街地へ行くことが出来ます。
南方向です。以前は住宅や小さな事業所が建ち並び....。
左上の小山は陣山。先日紹介した復興公園が予定されている所。計画では駐車場は数十台だと(>_<) 狭いです。通じる道も狭いです。
被災して市が買い上げたものの、まだ使い道が決まっていない土地が沢山在ると地元紙が報じていますのに.....。なんでだす???????????????????????????????
陣山と今立っている所の中間辺りに、以前は仮設の商店街が在りました。それ以前は、300tの船が打ち上げられた所よりも上手に在ったのです。
ヨコミーのお知り合い、2つの仮設商店街を経たものの、結局復旧出来ないでしまいました。古いお店でしたのに、とても残念です(T_T)
南東方向です。右手前には塗装屋さん、左には梶原電気という小さな電気工事屋さんが、真ん中の向こうには藤喜というプロパン屋さんが在りました。住宅もいっぱい在ったのですが....。
大津波後、大島の亀山が見えていたはず。黄色い看板の右下に、ちょっと霞んで手前の尾根と重なっている山が、そうかもしれません。
東方向です。正面の山の向こうは旧・唐桑町。
左奥に、(これでも市内では)高層の災害公営住宅が見えてきました。
赤い車の左、仮設のトイレが建っている手前辺りには、その昔、森山燃料店の倉庫が在り、その後、「まるかわ」という飲食屋さんに替わり、繁盛していましたのに....。
仮設トイレが有る建物の向こうは旧国道で、渡ると気仙沼商会のガソリンスタンドが在りました。
大津波は火の海も伴ったのですが、それで大爆発が起きたとは聞きません。地元の人に聞いてみたいです。
北東方向です。
災害公営住宅は3棟しか見えませんが、確か全部で10棟近く在ったはず。
個人の住宅が、ゆっくりですが、建ちつつあります。
3棟見える災害公営住宅の、左に見える2階建ての白い建物は床屋さん。
以前は、より海に近い「かもめ通り商店街」の北入口に在りました。
大津波のときは、身体が弱いお年寄りも居て連れ出せず、3階に避難していたそうですが、とても怖かったと。
1階2階と大きく壊れ、小学校近くの仮店舗で営業していましたが、昨年、ここに新築移転しました。お客さんが戻って来てくれるといいですね(^_^)v
北方向です。大津波で打ち上げられた300tもの船は、右の通りを150m近く進んだ所に在りました。
JR鹿折駅は写真左上、建築中の家の裏方向。300tの船は駅前に鎮座していたのです(>_<)
手前には、既に仕事は辞めていましたが、山崎漁網店が在ったのです。その向こう隣は細谷大工さん。
実はこの土地、昭和35年のチリ地震津波以前は水田でした。
それが海水が入ったため稲作が出来なくなり、そのまま沼となっていました。
そしていつしか埋め立てられ、宅地となってしまったのです(>_<)
大工さんは、まだまだ忙しいようです。
北西方向です。鹿折駅は建築中の家の裏方向。
真ん中から左に伸びる白いガードレールはJRのバス代替路線。大津波はこの上を越えて乗用車を流しました。
奥の赤い瓦のお宅は、辛うじて大津波の難を逃れ、直後からしばらくの間、避難所となった民家でした。この家のおばあちゃん、元気かなっ?
手前の空き地は、2年くらい前まで、工事の進み具合を見せるための、見晴台が在りました。
そういえば、そこからこのようにグルッと撮影していたのですが、紹介しなかったかなぁ.....(^_^;)
工事現場は正月休みを終えて、来週辺りから本格的に再開するようです。
気仙沼も、復旧はまだまだです。しかし、ゆっくりとではありますが着実に進んでいます。
長い目で関心を持って頂ければ幸いですm(_ _)m
ならば、観光に来て頂けると、とても有り難いのですが(^_^;)
ここは気仙沼市本吉町風の丘。
今日1月6日は朝から余り陽が射さないなぁ....と思っていたら、青空が南にまで広がり、段々と晴れてきました。
それでも午後からは雲が多くなり、午後3時頃は小雨がぱらつきました。そう、雪じゃなかったのでした。
そんな中、午前中から家庭菜園の土を起こしたり、今頃ですがニンニクも植えました(^_^;)
ニンニクは秋蒔きのはずですが、今頃でも春でも、それなりに育ってくれます。
もちろん、黒マルチと呼ばれるビニールシートの中に。
これで地温がいくらかでも上がり、より育ってくれるのでしょう(^_^)v
12月30日、所用で生まれ故郷の市内鹿折(ししおり)地区へ行きました。
車を停めたのは、工事でしばらく立ち入りが難しかった新浜町一丁目5番と7番の間に在る市道。
別な方向から言えば、東日本大震災による大津波で、300tもの船が打ち上げられましたが、そこから南南西に150m近く離れた所。(船は今は在りません)
ここ。
https://www.google.co.jp/maps/@38.9142209,141.5812485,18z
※写真はクリックすると大きくなります。
まず西方向から。
左手前には池田塗装店が在りました。
左右の端に伸びる白いガードレールは、以前は鉄路のJR大船渡線が走っていました。
しかし大津波後、JRはBRTという専用道を走るバス路線にしてしまいました(T_T)
大津波は小高い土手の線路を越え、特に右側は乗用車まで乗り越えるほどの水嵩でしたが、土手自体、大きな傷みは無かったはず。
右手少し先に在る鹿折駅辺りまで津波は越しましたが、以北は越すことは無く、県境を越え、陸前高田市の陸前矢作駅まで被害は無いと思います。(参考:陸前高田市浸水区域図)
ヨコミー、被災地の復旧復興に、それまで在ったJRの鉄路は、即時復旧が必要だと思うのですよ(^_^)v
鹿折の小さな駅舎を建て、前後の錆びた線路を敷き代える等の整備で、とりあえず気仙沼駅から陸前高田駅の2つ手前・陸前矢作(りくぜんやはぎ)駅まで、列車が走ったはず。既に。
陸前高田の旧・市街地は、まだまだ整備の途中で、今後どうなるのかヨコミーには分かりませんが、気仙沼以南のBRT関連工事を見ていると、JRがやる気なら、陸前矢作駅までは、既に開通していたと思える期間が経過しちゃったのですよ。
JR大船渡線は、JR気仙沼線と同様、鉄路は見捨てられるのでしょうか(>_<)
よーく、「1票の格差、1票の格差」と騒いでいる都会の弁護士さん等は、こんな地方の、更に地方の状況を、知らないだろうし、見る暇も無いのでしょうね(*^_^*)
力を発揮出来ない代議士は不要で差し上げてもいいのですが、その「枠」だけは、どうかそのまま置いててくれませんかねぇ(^_^;)
鉄路の復旧に金が掛かるので、地元に大枚の負担を求めたJR(>_<)
国に陳情すれば、利益を出している民間企業のJRに、鉄路復旧の補助金は出せぬと(>_<)
なのに、アイムソーリは、同じく被災したJR常磐線については「国が責任を持って復旧させます」とテレビで言っていた。国が気仙沼に言う、「民間企業」にですよ!!
JRは、昨年流行の忖度をしたのだろうか??? 圧力があった!?? こっそりと補助金を頂いた???
常磐線の宮城県側は、既に1年余り前に開通しました。福島県側を含めて、31
年度末には全線鉄路で開通の予定です。
その鉄路での全線開通ですが、気仙沼線は首の皮一枚も繋がっていないよう...(T_T)
因みに、宮城のJR仙石線は既に復旧して全通しています。
大船渡線はどうなるのだろう.....(>_<)
自民党を飛び出したO沢大先生が居残りしていたなら、今頃は矢作駅に止まらず、より先の竹駒駅、いやいや陸前高田駅まで開通させていたかも(^_^;) 好きじゃない先生ですが(^_^)v
あっ、道草しちゃった(^_^;)
左奥の山は、旧・気仙沼町と鹿折町(多分白山小学区と浦島小学区を除く)のシンボル的山の安波山(あんばさん、あんばやま)。
中央上の小山の天辺は、「ご飯9(21。喰う)時」の現場(^_^;) 我が父は、何も言わずに頑張りましたm(_ _)m
左隣の南西方向です。BRT専用道のガードレールがずーっと.....。
ヨコミーが立っているのは以前からの道ですが、どうやら南側にちょっとずれて付け替えられるようです。
左のピンクリボンの奥にトンネルが在り、その上を三坂という坂が通っていて、旧・気仙沼町の太田という飲み屋街を経て、市街地へ行くことが出来ます。
南方向です。以前は住宅や小さな事業所が建ち並び....。
左上の小山は陣山。先日紹介した復興公園が予定されている所。計画では駐車場は数十台だと(>_<) 狭いです。通じる道も狭いです。
被災して市が買い上げたものの、まだ使い道が決まっていない土地が沢山在ると地元紙が報じていますのに.....。なんでだす???????????????????????????????
陣山と今立っている所の中間辺りに、以前は仮設の商店街が在りました。それ以前は、300tの船が打ち上げられた所よりも上手に在ったのです。
ヨコミーのお知り合い、2つの仮設商店街を経たものの、結局復旧出来ないでしまいました。古いお店でしたのに、とても残念です(T_T)
南東方向です。右手前には塗装屋さん、左には梶原電気という小さな電気工事屋さんが、真ん中の向こうには藤喜というプロパン屋さんが在りました。住宅もいっぱい在ったのですが....。
大津波後、大島の亀山が見えていたはず。黄色い看板の右下に、ちょっと霞んで手前の尾根と重なっている山が、そうかもしれません。
東方向です。正面の山の向こうは旧・唐桑町。
左奥に、(これでも市内では)高層の災害公営住宅が見えてきました。
赤い車の左、仮設のトイレが建っている手前辺りには、その昔、森山燃料店の倉庫が在り、その後、「まるかわ」という飲食屋さんに替わり、繁盛していましたのに....。
仮設トイレが有る建物の向こうは旧国道で、渡ると気仙沼商会のガソリンスタンドが在りました。
大津波は火の海も伴ったのですが、それで大爆発が起きたとは聞きません。地元の人に聞いてみたいです。
北東方向です。
災害公営住宅は3棟しか見えませんが、確か全部で10棟近く在ったはず。
個人の住宅が、ゆっくりですが、建ちつつあります。
3棟見える災害公営住宅の、左に見える2階建ての白い建物は床屋さん。
以前は、より海に近い「かもめ通り商店街」の北入口に在りました。
大津波のときは、身体が弱いお年寄りも居て連れ出せず、3階に避難していたそうですが、とても怖かったと。
1階2階と大きく壊れ、小学校近くの仮店舗で営業していましたが、昨年、ここに新築移転しました。お客さんが戻って来てくれるといいですね(^_^)v
北方向です。大津波で打ち上げられた300tもの船は、右の通りを150m近く進んだ所に在りました。
JR鹿折駅は写真左上、建築中の家の裏方向。300tの船は駅前に鎮座していたのです(>_<)
手前には、既に仕事は辞めていましたが、山崎漁網店が在ったのです。その向こう隣は細谷大工さん。
実はこの土地、昭和35年のチリ地震津波以前は水田でした。
それが海水が入ったため稲作が出来なくなり、そのまま沼となっていました。
そしていつしか埋め立てられ、宅地となってしまったのです(>_<)
大工さんは、まだまだ忙しいようです。
北西方向です。鹿折駅は建築中の家の裏方向。
真ん中から左に伸びる白いガードレールはJRのバス代替路線。大津波はこの上を越えて乗用車を流しました。
奥の赤い瓦のお宅は、辛うじて大津波の難を逃れ、直後からしばらくの間、避難所となった民家でした。この家のおばあちゃん、元気かなっ?
手前の空き地は、2年くらい前まで、工事の進み具合を見せるための、見晴台が在りました。
そういえば、そこからこのようにグルッと撮影していたのですが、紹介しなかったかなぁ.....(^_^;)
工事現場は正月休みを終えて、来週辺りから本格的に再開するようです。
気仙沼も、復旧はまだまだです。しかし、ゆっくりとではありますが着実に進んでいます。
長い目で関心を持って頂ければ幸いですm(_ _)m
ならば、観光に来て頂けると、とても有り難いのですが(^_^;)
気仙沼の今 内湾界隈 20171222 [東日本大震災]
こんにちは、ヨコミーです。
ここは気仙沼市本吉町風の丘。
今日12月24日は朝にちょっとだけ青空が見えたものの、雲が多く、午後遅くからは小雨が降り出しました。
小さなお食事会が有り、正午に旧市立病院奥の上田中(かみたなか)に在る某所へ。
帰路、下手のお店に寄り、知り合いへ差し上げるお土産として、1500円ほどの商品を買いました。
このお店は、1000円以上買うと、地域商店会のスタンプか(と?)市内商店街連合会の福引き補助券をくれるはずでしたが、貰わなかったことに店を出てから気付き....。
再度入店するのも嫌なので、そのまま車のエンジンを掛け....(>_<)
今日はクリスマスイブでレジも忙しいのでしょうけれど、素敵な企画でお客さんを多く呼びたいんだ!!という意気込みが感じられない、残念なお店でした。
こんなんだったら、律儀に地元商店を利用することなく、その手の企画が無い外来大型商業施設の方が良かったなぁ....と反省(>_<)
12月22日、所用で市内南町へ行ったので、帰路、旧・鰹鮪(かつおまぐろ)会館前で内湾の風景を撮影してみました。
https://www.google.co.jp/maps/@38.9046197,141.5766233,18z
この辺一帯は、あの東日本大震災による大津波で多くの被害が出た所。
復旧はまだまだです。
※写真はクリックすると大きくなります。
大きな岩の上に建つのは気仙沼プラザホテル。手前の塔はホテル下の駐車場と結ぶエレベーター。
その左は鮮魚等の土産物屋さん。共に南三陸町から進出してきた企業に買収されました(>_<)
左隣です。奥の山は旧・唐桑町との境の山。麓の海岸に見えるクレーン群は、鹿折地区浪板(なみいた)の造船地帯です。
左奥の白い船はサンマ船です。
造船地帯の拡大です。
ヨコミーは鹿折育ちなので、同級生に家業が造船業の子も居ました。
写真がちょっと変です?? 真ん中の船の下を見てください。やや広い線が左右に伸びでいます。
左側は割と違和感は無いのですが、右側は溺れそうな感じ(^_^;) そして鏡面のような反射。
蜃気楼の一種、逃げ水みたいな現象でしょう。
サンマ船の拡大です。斜めに沢山突き出ているのは集魚灯です。
既に漁は終わったので、これからサンマ用の設備を下ろすのでしょう。
来年は大きなサンマを沢山水揚げしてくださいね(^_^)v
更に左隣です。
中央右の岬は五十鈴神社が在る神明崎。震災前は朱塗りの浮御堂が在りました。
中央の白っぽい小山は、防潮堤?工事用の採石でしょうか。
その左上、ちょっとだけ見える白い建物は、今年辺りで営業を終了した、老舗のホテル望洋。昔は望洋館という名で、長い間親しまれてきたのですが、残念です。
お神明さんの拡大です。いつになったら朱塗りの浮御堂が再建されるのやら(>_<)
更に左へ続きます。
湾の奥には漁船漁業会社や仕込み屋さん等がズラリと並んでいて、大津波の前は山の麓がこんなには見えませんでした。
真ん中上に見える明るい草色の屋根は、教会風の結婚式場。
右端に在るホテル望洋の左の小山は陣山。山の向こう側は、300tもの船が打ち上げられた鹿折地区。
市はこの山の上に復興祈念公園を計画していますが、ヨコミーは心配(>_<)
地元紙によれば、計画している駐車場はなんと数十台分だけとか。
この場所は狭いので、当然なのでしょうけれど、公の大きなイベントは絶対に企画しないのでしょうか。単なる都市公園ではなく、「復興祈念」公園なのですが。
市内の公共施設は、一般的に駐車場が狭いのです。
大きな催事があると、駐車場から車が溢れます。離れた駐車場からシャトルバスを出す事も有るようですが、お金が有る事業だけ。
同じ苦労を強いるのでしょうか。
一方、大津波で被災した、南気仙沼や観光地・岩井崎の手前等々は、まだまだ建物が建っていない土地が在ります。未利用地が多いとも、地元紙にありました。
そんな所ならば、公園自体は同程度としても、駐車場は何倍も広く取ることが出来ると思うのです。
このことを、知り合いの市議と話したのですが、なんか認識が足らないようで....(>_<)
新しく出来る中央公民館(浸水地に盛土して建設予定)に隣接させてもいいし、震災前に在った南運動広場も作るのでしょうから、そこに隣接させてもいいんだけれど(^_^)v
陣山の拡大です。計画されている公園へは、左奥の裏側から車は入ります。
しかし、そこに続く坂道はとても狭く、被災していない所の両脇には人家がぎっしり。普通車でもすれ違いは大変です。
バスは内湾側からは無理。鹿折側とて道は狭く、すれ違いには民家を壊して待避所を作るか拡幅するか.....。
選定理由として、一説には、この場所なら復旧が進む内湾地域と鹿折地区が一望に出来るということらしいですが、このこんもりしている林をハゲ山にしなければなりません。
見通しが良いことでここを優位とする理由なら、民家の裏ぎりぎりまで買収して伐採し、また民家脇の木についても、高さを未来永劫規制しないといけません(>_<)
なぜ自然を壊してまで、見通しを確保する必要があるのでしょうか。
ヨコミーなら浸水地の未利用地を再調整して、もちろん盛土し、そこに作ります(^_^)v
結婚式場付近の拡大です。
その下の赤い屋根に白く文字が見えるのは、「気仙沼第二保育所」。市が直営する保育所ではありませんが、興味深い名称です。
左下に見える斜面のような草地の下は、確か相沢病院があった所。
岸壁では、防潮堤工事が進められているようです。
更に左隣です。
奥にどーんと立つ建物は、魚町と入沢の災害公営住宅。
住宅の上に見える山は安波山(あんばやま、あんばさん。238m)
気仙沼地区と鹿折地区のシンボルです。
災害公営住宅の拡大です。1号棟は県道沿いの山側。小高い所に見える2号棟3号棟は、生徒数の減少で廃校となった、畠山学園の気仙沼女子高等学校跡地付近に建てられました。
震災前なら、丁度2号棟3号棟の位置に、最上階にカマボコ屋根の屋内体育館を備えた同校が在り、内湾のシンボルでもありましたのに、残念です。
それにしても、人口統計を見れば、20年30年も前から人口減少が予測出来たのに、国政は無策に近いものでしたね。
人口が減れば消費が減り、生産を少なくしなければならず、経済は小さくなります。
地方の、更に地方などは、尚更大変。まだ十分に使えたり、立派な学校まで廃校にしなければなりません(>_<)
1号棟の直ぐ右隣です。
今春に営業をやめた「亀の湯」です。右端に煙突、水色のダンプカー左上に看板が見えます。
ヨコミーが鹿折に住んでいた頃、1号棟の辺りに「はしもと菓子店」があり、夏の帰路はそこが関所。かき氷でした(^_^;)
ここの氷は歯触りが良く、何度も立ち寄りました。
ある夜に寄って食べていると、怖そうな船員さんが入ってきて、なんとかき氷を注文するのです(>_<)
そう、亀の湯の帰りでした(^_^;)
岸壁に船を泊め、亀の湯で汗を流し、更にかき氷を食べて....、幸せそうでした(*^_^*)
今はそんな姿を見ることは出来ません(>_<)
因みに、大谷に引っ越してからは、家族分のかき氷を買い、マイカーの常備品となっている発泡スチロールの箱に入れ、持ち帰ったものです。
さすがに氷で、解けることなく家族に届けられました(^_^)v
あの美味しいかき氷、亡き父とも食べたあのかき氷は、もう食べられません(T_T)
更に左隣の汽船発着所方面です。
その拡大です。昔は2階建てのレストハウスが、その後改築されて3階建てのエースポートが在りました。
大島汽船の事務所や土産物屋さん、美味しいイタリアンのレストラン、観光協会等が入ってました。
なのに大津波は.....(>_<)
正面奥右側は魚町二丁目の災害公営住宅で、左は新築された気仙沼信用金庫本店です。
汽船発着所の左手には、3階建ての市営駐車場がありました。
白く続く壁は防潮堤のようです。
中央やや左上の波形は、南町二丁目に在る災害公営住宅の大通り側に隣接する商業施設です。
更に左です。
赤いダンプカーの奥と右に見えるのは、南町一丁目の災害公営住宅です。
信号機がある交差点の左角に大きな交番が在りましたが、内陸部に移転しました。
この辺りが手薄になった気がするのはヨコミーだけ???
その交番のあちら向かいに南町消防署がありましたが、これは気仙沼駅前に移転(>_<)
赤い営業中看板の向こうには、仮設商店街が在りました。ここを去ったお店は、全てが本設のお店を持てた訳ではないようです(>_<)
左の鉄塔は、市民会館下に在るNTTのアンテナです。
更に左です。
右側の黒い大きな建物は、市営駐車場向かいの南町二丁目にも在った魚屋さん。ここに来ていました。
ヨコミー小さい頃、鹿折の駅近くから母と歩いてきて、そこで魚を買い、近くのバス案内所は通り過ぎ、煎餅坂を登り、河原田の通を下り、南気仙沼駅から伸びる通で曲がり、駅に向かいました。
小さい頃、歩くのは大変でした。まあ母は乗り物酔いが有り、しかもバス料金は高く、節約したかったのでしょう。
でも母の実家へ行くことが出来るので、数少ない楽しみでもありました。
真ん中の黒いお店は喫茶店。K-port (ケイポート)という小洒落た店らしいのですが、ヨコミーには尚更足が遠くなります(^_^;)
左端は、以前はエースポート前に在った「かもめ食堂」。でも、経営者は別な方。
大島や近くの方々から長く愛されていたお店でしたが、ヨコミー残念ながら縁は有りませんでした。
ヨコミーが一時割と食べたのは、直ぐ近くの「箸膳(はしぜん)」(^_^;)
その箸膳も過日市内神山で見掛けましたが、その後はどうしたのか....。
でも、「かもめ食堂」近々に行ってみましょう(^_^)v
おっと忘れていました。この角に大津波前は鰹鮪会館が在って、お金の関係だったか、漁船員さんの保険のことだったかで、その昔訪問しました。でも、しばらくご無沙汰でした。
やっと一周です。お疲れ様でしたm(_ _)m
ちょっと思い出が多くなりました(>_<)
うーん、ヨコミーもそろそろ回帰する支度をしなければならない、そんなお歳に近づいてきたのかな(^_^;)
ここは気仙沼市本吉町風の丘。
今日12月24日は朝にちょっとだけ青空が見えたものの、雲が多く、午後遅くからは小雨が降り出しました。
小さなお食事会が有り、正午に旧市立病院奥の上田中(かみたなか)に在る某所へ。
帰路、下手のお店に寄り、知り合いへ差し上げるお土産として、1500円ほどの商品を買いました。
このお店は、1000円以上買うと、地域商店会のスタンプか(と?)市内商店街連合会の福引き補助券をくれるはずでしたが、貰わなかったことに店を出てから気付き....。
再度入店するのも嫌なので、そのまま車のエンジンを掛け....(>_<)
今日はクリスマスイブでレジも忙しいのでしょうけれど、素敵な企画でお客さんを多く呼びたいんだ!!という意気込みが感じられない、残念なお店でした。
こんなんだったら、律儀に地元商店を利用することなく、その手の企画が無い外来大型商業施設の方が良かったなぁ....と反省(>_<)
12月22日、所用で市内南町へ行ったので、帰路、旧・鰹鮪(かつおまぐろ)会館前で内湾の風景を撮影してみました。
https://www.google.co.jp/maps/@38.9046197,141.5766233,18z
この辺一帯は、あの東日本大震災による大津波で多くの被害が出た所。
復旧はまだまだです。
※写真はクリックすると大きくなります。
大きな岩の上に建つのは気仙沼プラザホテル。手前の塔はホテル下の駐車場と結ぶエレベーター。
その左は鮮魚等の土産物屋さん。共に南三陸町から進出してきた企業に買収されました(>_<)
左隣です。奥の山は旧・唐桑町との境の山。麓の海岸に見えるクレーン群は、鹿折地区浪板(なみいた)の造船地帯です。
左奥の白い船はサンマ船です。
造船地帯の拡大です。
ヨコミーは鹿折育ちなので、同級生に家業が造船業の子も居ました。
写真がちょっと変です?? 真ん中の船の下を見てください。やや広い線が左右に伸びでいます。
左側は割と違和感は無いのですが、右側は溺れそうな感じ(^_^;) そして鏡面のような反射。
蜃気楼の一種、逃げ水みたいな現象でしょう。
サンマ船の拡大です。斜めに沢山突き出ているのは集魚灯です。
既に漁は終わったので、これからサンマ用の設備を下ろすのでしょう。
来年は大きなサンマを沢山水揚げしてくださいね(^_^)v
更に左隣です。
中央右の岬は五十鈴神社が在る神明崎。震災前は朱塗りの浮御堂が在りました。
中央の白っぽい小山は、防潮堤?工事用の採石でしょうか。
その左上、ちょっとだけ見える白い建物は、今年辺りで営業を終了した、老舗のホテル望洋。昔は望洋館という名で、長い間親しまれてきたのですが、残念です。
お神明さんの拡大です。いつになったら朱塗りの浮御堂が再建されるのやら(>_<)
更に左へ続きます。
湾の奥には漁船漁業会社や仕込み屋さん等がズラリと並んでいて、大津波の前は山の麓がこんなには見えませんでした。
真ん中上に見える明るい草色の屋根は、教会風の結婚式場。
右端に在るホテル望洋の左の小山は陣山。山の向こう側は、300tもの船が打ち上げられた鹿折地区。
市はこの山の上に復興祈念公園を計画していますが、ヨコミーは心配(>_<)
地元紙によれば、計画している駐車場はなんと数十台分だけとか。
この場所は狭いので、当然なのでしょうけれど、公の大きなイベントは絶対に企画しないのでしょうか。単なる都市公園ではなく、「復興祈念」公園なのですが。
市内の公共施設は、一般的に駐車場が狭いのです。
大きな催事があると、駐車場から車が溢れます。離れた駐車場からシャトルバスを出す事も有るようですが、お金が有る事業だけ。
同じ苦労を強いるのでしょうか。
一方、大津波で被災した、南気仙沼や観光地・岩井崎の手前等々は、まだまだ建物が建っていない土地が在ります。未利用地が多いとも、地元紙にありました。
そんな所ならば、公園自体は同程度としても、駐車場は何倍も広く取ることが出来ると思うのです。
このことを、知り合いの市議と話したのですが、なんか認識が足らないようで....(>_<)
新しく出来る中央公民館(浸水地に盛土して建設予定)に隣接させてもいいし、震災前に在った南運動広場も作るのでしょうから、そこに隣接させてもいいんだけれど(^_^)v
陣山の拡大です。計画されている公園へは、左奥の裏側から車は入ります。
しかし、そこに続く坂道はとても狭く、被災していない所の両脇には人家がぎっしり。普通車でもすれ違いは大変です。
バスは内湾側からは無理。鹿折側とて道は狭く、すれ違いには民家を壊して待避所を作るか拡幅するか.....。
選定理由として、一説には、この場所なら復旧が進む内湾地域と鹿折地区が一望に出来るということらしいですが、このこんもりしている林をハゲ山にしなければなりません。
見通しが良いことでここを優位とする理由なら、民家の裏ぎりぎりまで買収して伐採し、また民家脇の木についても、高さを未来永劫規制しないといけません(>_<)
なぜ自然を壊してまで、見通しを確保する必要があるのでしょうか。
ヨコミーなら浸水地の未利用地を再調整して、もちろん盛土し、そこに作ります(^_^)v
結婚式場付近の拡大です。
その下の赤い屋根に白く文字が見えるのは、「気仙沼第二保育所」。市が直営する保育所ではありませんが、興味深い名称です。
左下に見える斜面のような草地の下は、確か相沢病院があった所。
岸壁では、防潮堤工事が進められているようです。
更に左隣です。
奥にどーんと立つ建物は、魚町と入沢の災害公営住宅。
住宅の上に見える山は安波山(あんばやま、あんばさん。238m)
気仙沼地区と鹿折地区のシンボルです。
災害公営住宅の拡大です。1号棟は県道沿いの山側。小高い所に見える2号棟3号棟は、生徒数の減少で廃校となった、畠山学園の気仙沼女子高等学校跡地付近に建てられました。
震災前なら、丁度2号棟3号棟の位置に、最上階にカマボコ屋根の屋内体育館を備えた同校が在り、内湾のシンボルでもありましたのに、残念です。
それにしても、人口統計を見れば、20年30年も前から人口減少が予測出来たのに、国政は無策に近いものでしたね。
人口が減れば消費が減り、生産を少なくしなければならず、経済は小さくなります。
地方の、更に地方などは、尚更大変。まだ十分に使えたり、立派な学校まで廃校にしなければなりません(>_<)
1号棟の直ぐ右隣です。
今春に営業をやめた「亀の湯」です。右端に煙突、水色のダンプカー左上に看板が見えます。
ヨコミーが鹿折に住んでいた頃、1号棟の辺りに「はしもと菓子店」があり、夏の帰路はそこが関所。かき氷でした(^_^;)
ここの氷は歯触りが良く、何度も立ち寄りました。
ある夜に寄って食べていると、怖そうな船員さんが入ってきて、なんとかき氷を注文するのです(>_<)
そう、亀の湯の帰りでした(^_^;)
岸壁に船を泊め、亀の湯で汗を流し、更にかき氷を食べて....、幸せそうでした(*^_^*)
今はそんな姿を見ることは出来ません(>_<)
因みに、大谷に引っ越してからは、家族分のかき氷を買い、マイカーの常備品となっている発泡スチロールの箱に入れ、持ち帰ったものです。
さすがに氷で、解けることなく家族に届けられました(^_^)v
あの美味しいかき氷、亡き父とも食べたあのかき氷は、もう食べられません(T_T)
更に左隣の汽船発着所方面です。
その拡大です。昔は2階建てのレストハウスが、その後改築されて3階建てのエースポートが在りました。
大島汽船の事務所や土産物屋さん、美味しいイタリアンのレストラン、観光協会等が入ってました。
なのに大津波は.....(>_<)
正面奥右側は魚町二丁目の災害公営住宅で、左は新築された気仙沼信用金庫本店です。
汽船発着所の左手には、3階建ての市営駐車場がありました。
白く続く壁は防潮堤のようです。
中央やや左上の波形は、南町二丁目に在る災害公営住宅の大通り側に隣接する商業施設です。
更に左です。
赤いダンプカーの奥と右に見えるのは、南町一丁目の災害公営住宅です。
信号機がある交差点の左角に大きな交番が在りましたが、内陸部に移転しました。
この辺りが手薄になった気がするのはヨコミーだけ???
その交番のあちら向かいに南町消防署がありましたが、これは気仙沼駅前に移転(>_<)
赤い営業中看板の向こうには、仮設商店街が在りました。ここを去ったお店は、全てが本設のお店を持てた訳ではないようです(>_<)
左の鉄塔は、市民会館下に在るNTTのアンテナです。
更に左です。
右側の黒い大きな建物は、市営駐車場向かいの南町二丁目にも在った魚屋さん。ここに来ていました。
ヨコミー小さい頃、鹿折の駅近くから母と歩いてきて、そこで魚を買い、近くのバス案内所は通り過ぎ、煎餅坂を登り、河原田の通を下り、南気仙沼駅から伸びる通で曲がり、駅に向かいました。
小さい頃、歩くのは大変でした。まあ母は乗り物酔いが有り、しかもバス料金は高く、節約したかったのでしょう。
でも母の実家へ行くことが出来るので、数少ない楽しみでもありました。
真ん中の黒いお店は喫茶店。K-port (ケイポート)という小洒落た店らしいのですが、ヨコミーには尚更足が遠くなります(^_^;)
左端は、以前はエースポート前に在った「かもめ食堂」。でも、経営者は別な方。
大島や近くの方々から長く愛されていたお店でしたが、ヨコミー残念ながら縁は有りませんでした。
ヨコミーが一時割と食べたのは、直ぐ近くの「箸膳(はしぜん)」(^_^;)
その箸膳も過日市内神山で見掛けましたが、その後はどうしたのか....。
でも、「かもめ食堂」近々に行ってみましょう(^_^)v
おっと忘れていました。この角に大津波前は鰹鮪会館が在って、お金の関係だったか、漁船員さんの保険のことだったかで、その昔訪問しました。でも、しばらくご無沙汰でした。
やっと一周です。お疲れ様でしたm(_ _)m
ちょっと思い出が多くなりました(>_<)
うーん、ヨコミーもそろそろ回帰する支度をしなければならない、そんなお歳に近づいてきたのかな(^_^;)
気仙沼の今 小泉・新町橋界隈 20171128 [東日本大震災]
こんにちは、ヨコミーです。
ここは気仙沼市本吉町風の丘。
今日12月18日は、朝にちょっとだけ陽が射しただけで、殆ど曇り空でした。
風の冷たさはまあまあ。
厳しい寒さではないのですが、夜にはちょっと小雪が舞いました。
12月も半分過ぎたのですが、11月の話ですみませんm(_ _)m
11月28日、老母の希望があり、市内本吉町小泉のパーマ屋さんへ行ってきました。
小泉地区は、東日本大震災による大津波で大きな被害を受けた所です。規模は小さいですが、中心部が壊滅的な被害を受けた南三陸町や陸前高田市と同様の被害です。
老母生家の近くに在ったパーマ屋さんでしたが、すっかりと流され、今は小高い丘の上に。
送迎は2度。だってパーマが終わるまで、待っていられません(^_^;)
送り届けた帰路、定点撮影している外尾(そでお)川に架かる新町(しんまち)橋からパチリ。
※写真はクリックすると大きくなります。
橋から下流側を見てみました。凡そ東北東です。
向こうに見える一番上の橋は、国道45号の新橋。その下で途切れていたり一段ズレているのは、JR気仙沼線の高架橋ですが、残念ながら、ここを鉄道が走ることはないようです。
高架の下で、川の奥の両側に見えるのは小泉(津谷)川の堤防工事らしいです。
その右隣。川の隣にはコンクリート製品がぎっしりと積まれていました。
多分、防潮堤や川の堤防工事に使われるのでしょう。
小高い丘の上、真ん中辺りは小学校。左端に被災して移転新築した公民館、そして奥には保育所があります。写真では屋根だけでも見えるかな!??
更に右隣。通りの左右には、新町(しんまち)の家々が並んでいました。
右上の丘の上に見える、三角の塔屋を持つ建物は、今春統合で閉校となった小泉中学校。
建物はまだまだ立派でしたのに、児童数の減少には勝てませんでした。
建設費用の借金は、もう全部返済したのでしょうか?
市内唐桑の小原木(こはらぎ)中学校もそう、とても立派。
同じ今春に閉校した市内本吉町の馬籠(まごめ)小学校は、以前、若い世代の定住を誘導するために割安な宅地を分譲しましたが、結果として役に立たなかったようです。
大阪でも人口減と聞きましたが、地方の更に地方では、より深刻です。閉校になったからって、借金を棒引きしてくれる所は、何処にも在りませんし....。
手前の整地された所も草ボウボウな所も、民家が建ち並んでいました。
左の2階建ては工事関係の。正面奥の、やや小高い位置にある民家は、以前見た気がします。
正面やや右が西北西です。奥の小高い丘に在る建物は老人介護施設です。
今春廃校となった中学校は、以前はそこに在って、結構ボロイ校舎だったと聞いています。
その跡地に老人施設が建てられて10年程。
その施設左下に同じ規格で並ぶプレハブ3棟の建物は、復旧工事で働く人たちの作業員宿舎。
橋の西側に立つ丘です。この上は大津波の難を逃れたようです。
このずーっと奥に、小泉の町(まち)3行政区が移った防災集団移転の団地が出来ました。
多分以後津波は決して来ないような山の高台。津波は来ないけど、近くに高速道路が来ます。
ん、先に高速道路の計画が有ったので、後から団地がやって来た....。
この辺りにも民家が軒を連ねていました。メインストリートの西端付近です。
向こうへ伸びる道は北北西方向。中程から左斜め上に伸びる白いガードレールは、被災した小泉地区公民館があった所へ登る坂道。上には車が2台停まっています。
その上のお宅は大丈夫だったようです。
右奥は工事関係の建物です。
道の先に見えるダンプカー右手には、工事が進められている三陸道の橋脚が白く小さく見えます。
写真右には、前回撮影の前からもですが、コンクリート製品が置かれています。
真ん中辺りに交通整理のおじさんが立っているのは、そこから右に通りがあるから。
以前は下(しも)町と仲(なか)町に挟まれた、小泉のメインストリート(まあ片田舎の)でしたが、今では工事車両専用道路と化しています。
更に右隣です。コンクリート製品がいっぱい。向こうの建物も建設関係。
奥の杉林はちょっと変な感じです。歯が抜けたみたい(^_^;)
上に載せた写真もでしたが、あの大津波で根が海水に浸った杉は枯れたようです。
ここもそうかと。
以前は、遠くの山が見えるか見えないか位に民家が建ち並んでいたのですが、その面影は全くありません。
黄色い重機の奥では、河川堤防の改修工事が行われていて、高い盛土が見えます。
沢山のコンクリート製品、草はボウボウ、遠くには巨大な堤防や国道の高架....。
東日本大震災による大津波は、ここが以前はどんな所だったのか、想像さえ出来ないように変えてしまいました。
ここに在った多くの民家は高台へ移転したり、地区外へも行ったと聞きます。
そんななかで、この土地に再び賑わいが戻ることがあるのでしょうか(>_<)
これでやっと一周です。
いつかも見たように、橋から川下側をのぞいてみました。
水量が少ないです。2年ほど前は、少ない水量の中で、鮭が泳いでいましたが、その姿は見えません。
南西に見えた介護施設付近を拡大してみました。10年ほど前、中学校跡地に出来ました。
施設の右手、杉林の陰には仮設住宅がありましたが、今はどうなっているか...。
真ん中の建物は事業所風。新しく建てられたようです。
左の2棟は作業員宿舎。もう1棟は写真の外。
大津波の押し波で、施設の下に瓦礫が集まったと。もちろん、引き波にさらわれた瓦礫は太平洋へ流出し、思い出の回収は全く出来ないことに....(>_<)
公民館跡地方向の拡大です。
各種震災復旧関連工事に加え、三陸道の工事も重なり、ダンプカーなどで混雑しています。土煙を舞い上げながら(>_<)
外尾川右岸(上流側から見て右の岸)の市道です。
震災の被害を残しつつ、復旧名目の巨大建造物が作られて行く違和感....。
この被災した土地に、どんな明るい未来が待っているのでしょうか、教えてください(>_<)
※JR様、この先の高架橋を全部とは欲張りませんので、その2~3スパンを、また陸前小泉駅の残骸を、JRが受けた被害、つまり震災遺構として残して欲しいのです。残すと高架橋の所は通れなくなるので、新たな経路は作らず、立派な国道の橋を利用しては如何でしょうか。高速道も間もなく開通するので、渋滞は無いかと。既に離れた所では改修が進んでいるようですが、国道の橋利用で経費が削減出来、株主にも喜ばれます。また消えゆく気仙沼の震災遺構が残るので、気仙沼のためにも良いかと。どうかひと肌脱いでください(^_^)v
ここは気仙沼市本吉町風の丘。
今日12月18日は、朝にちょっとだけ陽が射しただけで、殆ど曇り空でした。
風の冷たさはまあまあ。
厳しい寒さではないのですが、夜にはちょっと小雪が舞いました。
12月も半分過ぎたのですが、11月の話ですみませんm(_ _)m
11月28日、老母の希望があり、市内本吉町小泉のパーマ屋さんへ行ってきました。
小泉地区は、東日本大震災による大津波で大きな被害を受けた所です。規模は小さいですが、中心部が壊滅的な被害を受けた南三陸町や陸前高田市と同様の被害です。
老母生家の近くに在ったパーマ屋さんでしたが、すっかりと流され、今は小高い丘の上に。
送迎は2度。だってパーマが終わるまで、待っていられません(^_^;)
送り届けた帰路、定点撮影している外尾(そでお)川に架かる新町(しんまち)橋からパチリ。
※写真はクリックすると大きくなります。
橋から下流側を見てみました。凡そ東北東です。
向こうに見える一番上の橋は、国道45号の新橋。その下で途切れていたり一段ズレているのは、JR気仙沼線の高架橋ですが、残念ながら、ここを鉄道が走ることはないようです。
高架の下で、川の奥の両側に見えるのは小泉(津谷)川の堤防工事らしいです。
その右隣。川の隣にはコンクリート製品がぎっしりと積まれていました。
多分、防潮堤や川の堤防工事に使われるのでしょう。
小高い丘の上、真ん中辺りは小学校。左端に被災して移転新築した公民館、そして奥には保育所があります。写真では屋根だけでも見えるかな!??
更に右隣。通りの左右には、新町(しんまち)の家々が並んでいました。
右上の丘の上に見える、三角の塔屋を持つ建物は、今春統合で閉校となった小泉中学校。
建物はまだまだ立派でしたのに、児童数の減少には勝てませんでした。
建設費用の借金は、もう全部返済したのでしょうか?
市内唐桑の小原木(こはらぎ)中学校もそう、とても立派。
同じ今春に閉校した市内本吉町の馬籠(まごめ)小学校は、以前、若い世代の定住を誘導するために割安な宅地を分譲しましたが、結果として役に立たなかったようです。
大阪でも人口減と聞きましたが、地方の更に地方では、より深刻です。閉校になったからって、借金を棒引きしてくれる所は、何処にも在りませんし....。
手前の整地された所も草ボウボウな所も、民家が建ち並んでいました。
左の2階建ては工事関係の。正面奥の、やや小高い位置にある民家は、以前見た気がします。
正面やや右が西北西です。奥の小高い丘に在る建物は老人介護施設です。
今春廃校となった中学校は、以前はそこに在って、結構ボロイ校舎だったと聞いています。
その跡地に老人施設が建てられて10年程。
その施設左下に同じ規格で並ぶプレハブ3棟の建物は、復旧工事で働く人たちの作業員宿舎。
橋の西側に立つ丘です。この上は大津波の難を逃れたようです。
このずーっと奥に、小泉の町(まち)3行政区が移った防災集団移転の団地が出来ました。
多分以後津波は決して来ないような山の高台。津波は来ないけど、近くに高速道路が来ます。
ん、先に高速道路の計画が有ったので、後から団地がやって来た....。
この辺りにも民家が軒を連ねていました。メインストリートの西端付近です。
向こうへ伸びる道は北北西方向。中程から左斜め上に伸びる白いガードレールは、被災した小泉地区公民館があった所へ登る坂道。上には車が2台停まっています。
その上のお宅は大丈夫だったようです。
右奥は工事関係の建物です。
道の先に見えるダンプカー右手には、工事が進められている三陸道の橋脚が白く小さく見えます。
写真右には、前回撮影の前からもですが、コンクリート製品が置かれています。
真ん中辺りに交通整理のおじさんが立っているのは、そこから右に通りがあるから。
以前は下(しも)町と仲(なか)町に挟まれた、小泉のメインストリート(まあ片田舎の)でしたが、今では工事車両専用道路と化しています。
更に右隣です。コンクリート製品がいっぱい。向こうの建物も建設関係。
奥の杉林はちょっと変な感じです。歯が抜けたみたい(^_^;)
上に載せた写真もでしたが、あの大津波で根が海水に浸った杉は枯れたようです。
ここもそうかと。
以前は、遠くの山が見えるか見えないか位に民家が建ち並んでいたのですが、その面影は全くありません。
黄色い重機の奥では、河川堤防の改修工事が行われていて、高い盛土が見えます。
沢山のコンクリート製品、草はボウボウ、遠くには巨大な堤防や国道の高架....。
東日本大震災による大津波は、ここが以前はどんな所だったのか、想像さえ出来ないように変えてしまいました。
ここに在った多くの民家は高台へ移転したり、地区外へも行ったと聞きます。
そんななかで、この土地に再び賑わいが戻ることがあるのでしょうか(>_<)
これでやっと一周です。
いつかも見たように、橋から川下側をのぞいてみました。
水量が少ないです。2年ほど前は、少ない水量の中で、鮭が泳いでいましたが、その姿は見えません。
南西に見えた介護施設付近を拡大してみました。10年ほど前、中学校跡地に出来ました。
施設の右手、杉林の陰には仮設住宅がありましたが、今はどうなっているか...。
真ん中の建物は事業所風。新しく建てられたようです。
左の2棟は作業員宿舎。もう1棟は写真の外。
大津波の押し波で、施設の下に瓦礫が集まったと。もちろん、引き波にさらわれた瓦礫は太平洋へ流出し、思い出の回収は全く出来ないことに....(>_<)
公民館跡地方向の拡大です。
各種震災復旧関連工事に加え、三陸道の工事も重なり、ダンプカーなどで混雑しています。土煙を舞い上げながら(>_<)
外尾川右岸(上流側から見て右の岸)の市道です。
震災の被害を残しつつ、復旧名目の巨大建造物が作られて行く違和感....。
この被災した土地に、どんな明るい未来が待っているのでしょうか、教えてください(>_<)
※JR様、この先の高架橋を全部とは欲張りませんので、その2~3スパンを、また陸前小泉駅の残骸を、JRが受けた被害、つまり震災遺構として残して欲しいのです。残すと高架橋の所は通れなくなるので、新たな経路は作らず、立派な国道の橋を利用しては如何でしょうか。高速道も間もなく開通するので、渋滞は無いかと。既に離れた所では改修が進んでいるようですが、国道の橋利用で経費が削減出来、株主にも喜ばれます。また消えゆく気仙沼の震災遺構が残るので、気仙沼のためにも良いかと。どうかひと肌脱いでください(^_^)v
気仙沼の今 魚市場前・海の市界隈 20171027 [東日本大震災]
こんにちは、ヨコミーです。
ここは気仙沼市本吉町風の丘。
夕べ11月12日は遅くなってすっかり曇ったのに、今朝4時半に目が覚めたら下弦を過ぎた細い月とオリオン座が見えていました。
深夜にちょっとした天文現象があったのですが、すっかり曇ったのでこたつで仮眠を取っていたら、寝過ぎてしまいました(>_<)
その後布団に入りましたがなかなか寝付かれず、記憶が無くなったのは5時半頃か。
目覚めてカーテンを開けたら、とても色が良い、青い空が広がっていました。
一般の方には素晴らしい青空なのでしょうけれど、ヨコミーにとっては悔しい青空でした。
まあ、天気予報を見たら、零時は湿雪の予報でした。
そして、旧・市立病院が在る田中の少し奥では、今朝、初霜が有ったと人伝えに聞きました。
うーん、ちょっと違うような気がしますけど、天文現象の時は天気が悪かったのでしょう、きっと(^_^;)
晩秋休みを頂いてしまいました。すみませんm(_ _)m
昨日のイベントは、だいぶ痛い目に遭いましたが、それ以外は無事に済みました(^_^;)
ヨコミー、イレギュラーなものにはどうも弱いです。
心に余裕が無くなると、イレギュラーなのもをイレギュラーだと認識できなくなる....。
残りは少なくなりましたが、これからの人生に活かして行ければと反省(>_<)
そんなイベントに向けて汗をかいていた10月27日、所用で魚市場に隣接する「海の市(うみのいち)」に寄りました。
確か「海の市」は公設民営の施設で、気仙沼の食を楽しみ、気仙沼の土産が買える所。
その昔、市役所の魹ケンさんという方が構想を担当していた頃、ヨコミーも呼ばれ、数階建てのプラネタリウムも備えた観光施設の案が出来たのですが、残念ながらその後は案が萎みに萎み、一部3階建ての建物に....(>_<)
※写真はクリックすると大きくなります(^_^)v
ここは河原田一丁目の最も海に近い....と書こうとしたら、違っていました。市内港町の南端でした(^_^;)
これで出るかな?
https://www.google.co.jp/maps/dir//Unnamed+Road,+%E6%B8%AF%E7%94%BA+%E6%B0%97%E4%BB%99%E6%B2%BC%E5%B8%82+%E5%AE%AE%E5%9F%8E%E7%9C%8C+988-0021/@38.9000195,141.5783918,17z/data=!4m8!4m7!1m0!1m5!1m1!1s0x5f88948c63f2eb7f:0x399e2ae6705ec32!2m2!1d141.5783019!2d38.8999093
なかなか難しいです....(>_<)
その昔、路地の左側に千葉電気という小さなお店が在り、船関係の仕事をしていました。
旦那さんはアマチュア無線をやっていて、通称JA7ゴリラチンパンと呼ばれていました。
そのゴリラチンパンさんの所へ、少ない小遣いを持って、アンテナ線等を買いに行ったものです。
しばらくして旦那さんは亡くなり、この路地を通ることは殆ど無くなりました。
言葉は悪いのですが、ゴミゴミとした路地に、あまり立派とは言えない飲み屋さんなどが軒を連ねていました。
それがあの震災による大津波で、以前の姿を残すものは何も無くなってしまいました(>_<)
奥に見える茶色い建物が「海の市」です。
お得意の、振り返っての撮影です。
奥の小高い所は南が丘。
路地の向こうで車が走っているのは、河原田(かわらだ)大通り。
そう「大通り」。酒屋さん、お菓子屋さん、お茶屋さん、寿司屋さん、八百屋さん、紙屋さん、本屋さん、保険屋さん、家具屋さん、鞄屋さん、自転車屋さん、米屋さん、飲み屋さん等々。
でしたが、年々とシャッター通り化していました。
それでも、ヨコミーが出入りしていた市民会館避難所で、班長の一人として活躍していたスーさんの酒屋さんとか、頑張っていた方々も居られたのですが、東日本大震災による大津波は、無情にもそれらの店々をことごとく壊してしまいました。
この世に神様は居たのでしょうか? 何処の神様にでも問いたい!! なぜ?? どうして???
おおっと、この件はいつかのネタにしましょう(^_^)v
右の石垣は、ホテル観洋やプラザホテルに続く丘の南端です。この石垣、下半分が黒ずんでいます。ひょっとして津波の名残??
石垣の左、黒く、やや傾いた屋根の向こうに、白くちょっとだけ見える建物は市民会館です。
交差点の青信号で進みます。奥に見えるのは気仙沼魚市場。
魚市場は画面左の外側から始まり、海の市裏の左奥で折れ曲がって正面へ続きます。昔は東洋一の長い(大きい)魚市場だったそうな(*^_^*)
海の市へ着きました。
ヨコミーは階段の左側奥から来たのです。
平日なので、マイカーのお客さんは少ないようです。
バスは青森から。有り難いですm(_ _)m
1階は海産物等の販売や飲食店。氷の水族館も(^_^)v 2階は寿司やシャークミュージアム、各種事務所等が入っています。
入口の右側に大津波の水位を表示しています。
一見低そうに見えますが、これでも結構多大な被害を受けました。
昔から天然の良港と言われる気仙沼だから、水位はこの程度で済んだのかもしれません。
隣接する南三陸町や陸前高田市などは、この建物を越える水位でした。
市内南部の小泉でも、この建物が隠れるくらいだとみました。
もし大島が無かったら、唐桑半島が短かったなら、市役所は浸水し、鹿折小学校、条南中学校は水没、津波は上田中や新城沖まで行っていたのでは....と思うと、更にぞっとします(>_<)
海の市の右側です。裏は魚市場の北桟橋です。右側の隙間から、市内港町の岩壁に係留されている漁船が見えました(^_^)v
市場の上ではお休みが出来ます。
上の写真の右隣です。
市場の中心っぽいです。が、広い事務室や買受人の事務所はもっと右だったような....。
えっ??? ヨコミー、「気仙沼魚市場」だとばっかり思っていましたが、なんと、名前には「市」が入っていたのですね。うーん、本当?? うーん、不覚.....(>_<)
魚市場の屋上は駐車場にもなっていて、やや右の赤白棒のゲートから登ります。
魚市場にも、浸水高を示す表示が有りました。上の写真中、「仙」の文字の下です。
でも、なんか目立ちません。もっと明るい色で、はっきり、クックリ描いた方が目に付きやすいです。気仙沼の人は控えめだがらねぇ(^_^;)
海の市の階段を上ります。
階段を上ると、そこは雪国ではなく、回転寿司です(^_^)v
ヨコミー、お小遣いが少なくてちょっと足が遠くなっていましたが、残念ながら(!?)、遠野で有名な空想の生き物の名前を付けたお店や、土蔵や食通の名前を冠したお店の類とは違います。
ホンモノが食べられます(*^_^*)
回転寿司の右手は観光コンベンション協会。入ってみると....
こんな展示も。いつか紹介した、大島と本土を結ぶ通称・鶴亀大橋の模型や写真が展示してありました。もちろん、観光案内もします。
観光コンベンションの右手です。下からの階段を上っての右手でもあります。いろんな事務所が入居しています。某国防衛大臣の事務所も(^_^;)
左の奥上に見えるのは、北桟橋の西端。左の階段から進むことが出来ます。
市場の屋上で、海風に吹かれてみるのもいいでしょう。ただし、冬を除いて(^_^;)
振り返って、後ろ側を撮影してみました。先ほど右側からやって来た道路。先ほど上ってきた階段。
右端ちょっとだけ見えるのは、今は市の教育委員会や中央公民館が入っている、旧・河北ビル。
震災前は建物がぎっしりと建ち並んでいたのに、まだ、こんな感じ。
よーく「復興してきましたね」と外の方々が言いますが、「こんなんで復興してきたと言うんですかぁ~?」と声を荒げたい、もどかしい気もちょっと有ります。
正解は「復旧が始まりましたね~」じゃないかな(*^_^*)
ところで右手のお店ですが、確か漁具の専門店です。
一般人には縁遠いように思えるのですが、あなたのお部屋を更に素敵にするグッズが有るかもしれませんよ。まがって見でけらい(見ていってください)(^_^)v
更に左側です。大きく空いているのは小野好工業(製作所?)とかいった所だったか...。更に奥も空いています。
奥の薄い茶色の建物は、魚市場前のパークホテルらしいです。
左の、小野寺鉄工所第二工場の上には、大島の亀山が見えます。
更に左側です。
魚市場屋上駐車場へと続く坂道が見えます。
この屋上、8月のみなとまつりの夜には駐車が規制され、花火見物客に開放していました。
花火に近く、ドォーンという響きが、お腹の底まで響き、臨場感満点(*^_^*)
来年のみなとまつりでも解放されるか、要チェックですよ(^_^)v
魚市場に近いこの辺りは、これでも建物の復旧が進んでいますが、旧・JR気仙沼線の南気仙沼駅付近はまだまだまだ....。
残念ながら、時に解決を委ねざるを得ないようです(>_<)
ここは気仙沼市本吉町風の丘。
夕べ11月12日は遅くなってすっかり曇ったのに、今朝4時半に目が覚めたら下弦を過ぎた細い月とオリオン座が見えていました。
深夜にちょっとした天文現象があったのですが、すっかり曇ったのでこたつで仮眠を取っていたら、寝過ぎてしまいました(>_<)
その後布団に入りましたがなかなか寝付かれず、記憶が無くなったのは5時半頃か。
目覚めてカーテンを開けたら、とても色が良い、青い空が広がっていました。
一般の方には素晴らしい青空なのでしょうけれど、ヨコミーにとっては悔しい青空でした。
まあ、天気予報を見たら、零時は湿雪の予報でした。
そして、旧・市立病院が在る田中の少し奥では、今朝、初霜が有ったと人伝えに聞きました。
うーん、ちょっと違うような気がしますけど、天文現象の時は天気が悪かったのでしょう、きっと(^_^;)
晩秋休みを頂いてしまいました。すみませんm(_ _)m
昨日のイベントは、だいぶ痛い目に遭いましたが、それ以外は無事に済みました(^_^;)
ヨコミー、イレギュラーなものにはどうも弱いです。
心に余裕が無くなると、イレギュラーなのもをイレギュラーだと認識できなくなる....。
残りは少なくなりましたが、これからの人生に活かして行ければと反省(>_<)
そんなイベントに向けて汗をかいていた10月27日、所用で魚市場に隣接する「海の市(うみのいち)」に寄りました。
確か「海の市」は公設民営の施設で、気仙沼の食を楽しみ、気仙沼の土産が買える所。
その昔、市役所の魹ケンさんという方が構想を担当していた頃、ヨコミーも呼ばれ、数階建てのプラネタリウムも備えた観光施設の案が出来たのですが、残念ながらその後は案が萎みに萎み、一部3階建ての建物に....(>_<)
※写真はクリックすると大きくなります(^_^)v
ここは河原田一丁目の最も海に近い....と書こうとしたら、違っていました。市内港町の南端でした(^_^;)
これで出るかな?
https://www.google.co.jp/maps/dir//Unnamed+Road,+%E6%B8%AF%E7%94%BA+%E6%B0%97%E4%BB%99%E6%B2%BC%E5%B8%82+%E5%AE%AE%E5%9F%8E%E7%9C%8C+988-0021/@38.9000195,141.5783918,17z/data=!4m8!4m7!1m0!1m5!1m1!1s0x5f88948c63f2eb7f:0x399e2ae6705ec32!2m2!1d141.5783019!2d38.8999093
なかなか難しいです....(>_<)
その昔、路地の左側に千葉電気という小さなお店が在り、船関係の仕事をしていました。
旦那さんはアマチュア無線をやっていて、通称JA7ゴリラチンパンと呼ばれていました。
そのゴリラチンパンさんの所へ、少ない小遣いを持って、アンテナ線等を買いに行ったものです。
しばらくして旦那さんは亡くなり、この路地を通ることは殆ど無くなりました。
言葉は悪いのですが、ゴミゴミとした路地に、あまり立派とは言えない飲み屋さんなどが軒を連ねていました。
それがあの震災による大津波で、以前の姿を残すものは何も無くなってしまいました(>_<)
奥に見える茶色い建物が「海の市」です。
お得意の、振り返っての撮影です。
奥の小高い所は南が丘。
路地の向こうで車が走っているのは、河原田(かわらだ)大通り。
そう「大通り」。酒屋さん、お菓子屋さん、お茶屋さん、寿司屋さん、八百屋さん、紙屋さん、本屋さん、保険屋さん、家具屋さん、鞄屋さん、自転車屋さん、米屋さん、飲み屋さん等々。
でしたが、年々とシャッター通り化していました。
それでも、ヨコミーが出入りしていた市民会館避難所で、班長の一人として活躍していたスーさんの酒屋さんとか、頑張っていた方々も居られたのですが、東日本大震災による大津波は、無情にもそれらの店々をことごとく壊してしまいました。
この世に神様は居たのでしょうか? 何処の神様にでも問いたい!! なぜ?? どうして???
おおっと、この件はいつかのネタにしましょう(^_^)v
右の石垣は、ホテル観洋やプラザホテルに続く丘の南端です。この石垣、下半分が黒ずんでいます。ひょっとして津波の名残??
石垣の左、黒く、やや傾いた屋根の向こうに、白くちょっとだけ見える建物は市民会館です。
交差点の青信号で進みます。奥に見えるのは気仙沼魚市場。
魚市場は画面左の外側から始まり、海の市裏の左奥で折れ曲がって正面へ続きます。昔は東洋一の長い(大きい)魚市場だったそうな(*^_^*)
海の市へ着きました。
ヨコミーは階段の左側奥から来たのです。
平日なので、マイカーのお客さんは少ないようです。
バスは青森から。有り難いですm(_ _)m
1階は海産物等の販売や飲食店。氷の水族館も(^_^)v 2階は寿司やシャークミュージアム、各種事務所等が入っています。
入口の右側に大津波の水位を表示しています。
一見低そうに見えますが、これでも結構多大な被害を受けました。
昔から天然の良港と言われる気仙沼だから、水位はこの程度で済んだのかもしれません。
隣接する南三陸町や陸前高田市などは、この建物を越える水位でした。
市内南部の小泉でも、この建物が隠れるくらいだとみました。
もし大島が無かったら、唐桑半島が短かったなら、市役所は浸水し、鹿折小学校、条南中学校は水没、津波は上田中や新城沖まで行っていたのでは....と思うと、更にぞっとします(>_<)
海の市の右側です。裏は魚市場の北桟橋です。右側の隙間から、市内港町の岩壁に係留されている漁船が見えました(^_^)v
市場の上ではお休みが出来ます。
上の写真の右隣です。
市場の中心っぽいです。が、広い事務室や買受人の事務所はもっと右だったような....。
えっ??? ヨコミー、「気仙沼魚市場」だとばっかり思っていましたが、なんと、名前には「市」が入っていたのですね。うーん、本当?? うーん、不覚.....(>_<)
魚市場の屋上は駐車場にもなっていて、やや右の赤白棒のゲートから登ります。
魚市場にも、浸水高を示す表示が有りました。上の写真中、「仙」の文字の下です。
でも、なんか目立ちません。もっと明るい色で、はっきり、クックリ描いた方が目に付きやすいです。気仙沼の人は控えめだがらねぇ(^_^;)
海の市の階段を上ります。
階段を上ると、そこは雪国ではなく、回転寿司です(^_^)v
ヨコミー、お小遣いが少なくてちょっと足が遠くなっていましたが、残念ながら(!?)、遠野で有名な空想の生き物の名前を付けたお店や、土蔵や食通の名前を冠したお店の類とは違います。
ホンモノが食べられます(*^_^*)
回転寿司の右手は観光コンベンション協会。入ってみると....
こんな展示も。いつか紹介した、大島と本土を結ぶ通称・鶴亀大橋の模型や写真が展示してありました。もちろん、観光案内もします。
観光コンベンションの右手です。下からの階段を上っての右手でもあります。いろんな事務所が入居しています。某国防衛大臣の事務所も(^_^;)
左の奥上に見えるのは、北桟橋の西端。左の階段から進むことが出来ます。
市場の屋上で、海風に吹かれてみるのもいいでしょう。ただし、冬を除いて(^_^;)
振り返って、後ろ側を撮影してみました。先ほど右側からやって来た道路。先ほど上ってきた階段。
右端ちょっとだけ見えるのは、今は市の教育委員会や中央公民館が入っている、旧・河北ビル。
震災前は建物がぎっしりと建ち並んでいたのに、まだ、こんな感じ。
よーく「復興してきましたね」と外の方々が言いますが、「こんなんで復興してきたと言うんですかぁ~?」と声を荒げたい、もどかしい気もちょっと有ります。
正解は「復旧が始まりましたね~」じゃないかな(*^_^*)
ところで右手のお店ですが、確か漁具の専門店です。
一般人には縁遠いように思えるのですが、あなたのお部屋を更に素敵にするグッズが有るかもしれませんよ。まがって見でけらい(見ていってください)(^_^)v
更に左側です。大きく空いているのは小野好工業(製作所?)とかいった所だったか...。更に奥も空いています。
奥の薄い茶色の建物は、魚市場前のパークホテルらしいです。
左の、小野寺鉄工所第二工場の上には、大島の亀山が見えます。
更に左側です。
魚市場屋上駐車場へと続く坂道が見えます。
この屋上、8月のみなとまつりの夜には駐車が規制され、花火見物客に開放していました。
花火に近く、ドォーンという響きが、お腹の底まで響き、臨場感満点(*^_^*)
来年のみなとまつりでも解放されるか、要チェックですよ(^_^)v
魚市場に近いこの辺りは、これでも建物の復旧が進んでいますが、旧・JR気仙沼線の南気仙沼駅付近はまだまだまだ....。
残念ながら、時に解決を委ねざるを得ないようです(>_<)
気仙沼の今 幸町界隈 20171015 [東日本大震災]
こんにちは、ヨコミーです。
ここは気仙沼市本吉町風の丘。
今日で10月も終わりです。
2週続けて来た台風は、美味しい日曜日をダメにしてしまいました。特に先の台風は風がとても強く、ヨコミー家の庭は緑色した杉の葉の絨毯に(>_<)
近隣の秋景色を紹介したいところですが、某お遊び協会のボランティア事務が忙しく、見にも行けません(>_<)
おかげで、ちょこっと撮った写真の整理もままならず.....(>_<)
今年はこれがいろいろと足を引っ張りました。家庭菜園、星の撮影、旅行、無線、部屋の片付け等々、いろいろと滞ってしまいました。あっ、無理にこじつけた訳ではありませんよ(^_^;)
そんな、気持ちもご多忙なヨコミー、10月15日に所用で市民会館へ行って来ました。
その帰路、いつか撮りたいと思っていた辺りを通りましたので、撮影してきました。
あの東日本大震災による大津波で、大きな被害を受けた所です。
昨夜、お遊び協会の事務をしていましたが、10月も終わるのでそろそろ....と、そのときの写真整理に取りかかっていたら、日本語変換中にパソコンか凍り付きました(>_<)
原因は多分、使っている流行超小型社のウィルス対策ソフトを、少し前にアップグレードしたのですが、そのときのフォルダーがなんとデスクトップに貼ってありました。割と大きなやつでした。なので重くなり、何かの処理が重なってしまったのでしょう。
初期設定でデスクトップに設定しているのでしょうか、こんなんじゃ安心して頼めません(>_<)
期限が切れたら更新しないこととしました。
という訳で、10月15日の幸町四丁目辺りで道路脇の盛り土に登って撮影です。
※写真はクリックすると大きくなります。
先ずは右端に薄緑色をした、ガス工場のタンクを置いた構図から。
もう殆ど以前の姿はとどめていないので、どこがどこやら。
撮影場所は一見、高台商店西側の交差点からガス工場方面へ行く左側かなぁと思ったら、左上に見えるコナカの看板と気仙沼大橋が重なって見えていることから、撮影地は幸町四丁目と判断しました。佐々木風呂屋の裏、菅哲会館付近だと思います。
正面の丘の上に気仙沼高校の校舎がちょっと見えます。その左にNHKラジオのアンテナ(中継所)、更に左下に広がる大きな建物は、月曜日から入院患者が消えた市立病院(^_^;) ここはあとで。
右続きです。天理教や市民会館への登り口は、タンクの直ぐ右側から。
その辺りには、大規模半壊の家が何軒か在り、修理して暮らしていました。ガス工場向かい付近では新築の家も在ったのですが、道路拡張のためか、全て取り壊されました(>_<)
ヨコミーが手伝っていた市民会館避難所で、班長さんを務めていた方のお宅も在ったのですが、班長さんはここに戻ってこられるのでしょうか、気になります(>_<)
その右隣です。丘の上は南が丘。上の左に市民会館の白い建物がちょっと、上の少し右にはNTTのアンテナが見えます。
嵩上げが終わり、家が建ち始めました。
更に右隣です。右手に見えてきたのは幸町の災害公営住宅です。
更に右です。災害公営住宅は向こう側にも在り、5棟。右奥の山は旧・唐桑町との境となる山々。
更に右隣です。魚市場は左奥です。復旧はいいのですが、電柱はなんとかならなかったのか、残念です。
右に見えてきたのは大島の亀山。島には、国民休暇村気仙沼大島が在ります。
亀山の下、手前に白い塀が続きますが、塀の上にちょっとだけ、黒っぽい茶色の建物が顔を出しています。ミヤコーバスの営業所が、元の場所に再建されました。
ということは、走っている車と塀の間が南駅前の通りなのでしょう。写真では薄くて分かりづらいですが。
更に右隣。
右端上の高層建築は、大川向かいに在る南郷災害公営住宅で、真ん中右上の2棟は内ノ脇の災害公営住宅です。
JR気仙沼線の南気仙沼駅が左手に在ったのですよね。でも鉄路は永遠に流されたままなのでしょうか。
いつも思うのですが、当時の鯉住総理大臣は「民間に出来ることは民間にやらせます」と声高々に叫び、劇場で喝采を浴びていましたが、実際は「民間に出来ないことは政府もしません」だったのですよね。みーんな騙されちゃった(^_^;) ヨコミーも(>_<)
同じ震災被害でも、仙石線は鉄路で復旧したし、常磐線も鉄路で進んでいます。なぜ、気仙沼線だけが、民間からも、国政からも流されてしまったのでしょうか。
都会の弁護士とかは、1票の格差、1票の格差と騒いでいますが、こちらの格差の是正には、どなたが取り組んでくれるのでしょうか。
弁護士さん等は、地方から国会議員を取り上げるのがお仕事のようですが、この辺の方はご立派な方なので、我田引水的な成果は得られていません。
なので、もう一人、国会議員さんが欲しいのです。昔、岩手県南を地盤とし、JR大船渡線を大きく迂回させたようなお方を(^_^)v
更に右隣です。右上にコナカの赤い看板が見えます。一周しました。
コナカの看板から左、真ん中上に見えるクレーンは、少し下手に掛け替えられる気仙沼大橋の工事現場です。
その左奥の丘に見える大きな建物が、11月2日にオープンする新市立病院です。
その新市立病院です。ヨコミー、いつも向こう側のバイパスを通るので、この、東側から見る病院は初めてです。遠くからは見ていましたが、こんなにアップではありませんでした。
玄関は裏のバイパス側。これから大きく発展する予定は???なのに、ずいぶんと郊外に作ったものです。まあ、市街地に近い県有地の県立女子校跡地が得られれば最善でしたがね。
県の施設、以前は市街地から離れていたための反動でしょうか(^_^;) 多くの市民にとって、より近くに在って欲しいのは病院だと思うのですが(>_<)
あっ、この新病院、10月29日の雨の中、入院患者の移送が無事に行われました。
その数が結構少なかったのでその筋に聞いたら、ある程度の入院患者さんを少し前に現病院から自宅へ外泊させ、その後新病院へ戻ってきて貰うんじゃないかと。うーん、上手い手(^_^)v
外来診療は11月2日から。
こちらは現市立病院。でも、入院患者は既に居らず、少し前から外来も休んでいます。確か救急外来は個人病院へと書かれてありました。
でも、その後の利用はどうなるのでしょうね。左(南病棟、西病棟)は確か50年も前の建物。右は新しい建物なので、市役所の移転先に利用したら....との話も聞きます。
左を壊し、増築や駐車場にすれば、今の市役所より利便が増すことでしょう。
でも、今在る八日町や三日町を始め、近くに在る南町や魚町の方々は、不便になる、通りが寂れる....と反対するのでしょうね。
先ほど見えた大島の亀山です。山頂右下に白いレストハウスが見えます。昔はリフトで登り、そばやうどんを食べたものですが、いつからか食堂は無くなり、そのうちに売店まで無くなっていました。
震災でリフトも被災し、そのまま。レストハウスは開いているのでしょうか(>_<)
ヨコミー、また行ってみなきゃ(^_^;)
真ん中、薄緑色の建物は魚の冷凍倉庫。右隣の白い建物は、猪瀬元都知事が副知事時代、大津波で孤立した人々を救おうと、救出のヘリコプターを向かわせた中央公民館で、その跡地に立てられたもの。
更に右手には、本土と大島を結ぶ通称鶴亀大橋が見えます。この位置からだと、島と並行に架けられているように見えますが、間の湾をぐるっと左に大きく巻き、橋を経て写真右側の島内に接続します。
確かにぐるっと大きく巻くのですが、そのうち、今工事が進められている三陸道では、右手前の本土側からあの橋の手前を通って左の、そう鶴亀大橋の本土側に近い所へ通じるので、ちょっとジグザグにはなりますが、救急車は行く行くはそんなコースを辿って国道バイパスから新市立病院へ行くのかなぁ...と。
でも、鶴亀大橋の島側から西へ架けた方が、橋の工費は嵩むけど1つの橋で済むし、救急車や観光客にもシンプルで分かり易いと思うんだけんとね(^_^)v
まあ、今じゃ遅いけど(>_<)
既に、鶴亀大橋は地元や子ども達がイベントで渡っていますが、正式開通にはまだ1年半近くかかりそうです。
完成したら、遊びに来てけらいん(^_^;)
大島に嫁いだ「気仙沼ちゃん」も元気なようだがらっサ(^_^)v
ここは気仙沼市本吉町風の丘。
今日で10月も終わりです。
2週続けて来た台風は、美味しい日曜日をダメにしてしまいました。特に先の台風は風がとても強く、ヨコミー家の庭は緑色した杉の葉の絨毯に(>_<)
近隣の秋景色を紹介したいところですが、某お遊び協会のボランティア事務が忙しく、見にも行けません(>_<)
おかげで、ちょこっと撮った写真の整理もままならず.....(>_<)
今年はこれがいろいろと足を引っ張りました。家庭菜園、星の撮影、旅行、無線、部屋の片付け等々、いろいろと滞ってしまいました。あっ、無理にこじつけた訳ではありませんよ(^_^;)
そんな、気持ちもご多忙なヨコミー、10月15日に所用で市民会館へ行って来ました。
その帰路、いつか撮りたいと思っていた辺りを通りましたので、撮影してきました。
あの東日本大震災による大津波で、大きな被害を受けた所です。
昨夜、お遊び協会の事務をしていましたが、10月も終わるのでそろそろ....と、そのときの写真整理に取りかかっていたら、日本語変換中にパソコンか凍り付きました(>_<)
原因は多分、使っている流行超小型社のウィルス対策ソフトを、少し前にアップグレードしたのですが、そのときのフォルダーがなんとデスクトップに貼ってありました。割と大きなやつでした。なので重くなり、何かの処理が重なってしまったのでしょう。
初期設定でデスクトップに設定しているのでしょうか、こんなんじゃ安心して頼めません(>_<)
期限が切れたら更新しないこととしました。
という訳で、10月15日の幸町四丁目辺りで道路脇の盛り土に登って撮影です。
※写真はクリックすると大きくなります。
先ずは右端に薄緑色をした、ガス工場のタンクを置いた構図から。
もう殆ど以前の姿はとどめていないので、どこがどこやら。
撮影場所は一見、高台商店西側の交差点からガス工場方面へ行く左側かなぁと思ったら、左上に見えるコナカの看板と気仙沼大橋が重なって見えていることから、撮影地は幸町四丁目と判断しました。佐々木風呂屋の裏、菅哲会館付近だと思います。
正面の丘の上に気仙沼高校の校舎がちょっと見えます。その左にNHKラジオのアンテナ(中継所)、更に左下に広がる大きな建物は、月曜日から入院患者が消えた市立病院(^_^;) ここはあとで。
右続きです。天理教や市民会館への登り口は、タンクの直ぐ右側から。
その辺りには、大規模半壊の家が何軒か在り、修理して暮らしていました。ガス工場向かい付近では新築の家も在ったのですが、道路拡張のためか、全て取り壊されました(>_<)
ヨコミーが手伝っていた市民会館避難所で、班長さんを務めていた方のお宅も在ったのですが、班長さんはここに戻ってこられるのでしょうか、気になります(>_<)
その右隣です。丘の上は南が丘。上の左に市民会館の白い建物がちょっと、上の少し右にはNTTのアンテナが見えます。
嵩上げが終わり、家が建ち始めました。
更に右隣です。右手に見えてきたのは幸町の災害公営住宅です。
更に右です。災害公営住宅は向こう側にも在り、5棟。右奥の山は旧・唐桑町との境となる山々。
更に右隣です。魚市場は左奥です。復旧はいいのですが、電柱はなんとかならなかったのか、残念です。
右に見えてきたのは大島の亀山。島には、国民休暇村気仙沼大島が在ります。
亀山の下、手前に白い塀が続きますが、塀の上にちょっとだけ、黒っぽい茶色の建物が顔を出しています。ミヤコーバスの営業所が、元の場所に再建されました。
ということは、走っている車と塀の間が南駅前の通りなのでしょう。写真では薄くて分かりづらいですが。
更に右隣。
右端上の高層建築は、大川向かいに在る南郷災害公営住宅で、真ん中右上の2棟は内ノ脇の災害公営住宅です。
JR気仙沼線の南気仙沼駅が左手に在ったのですよね。でも鉄路は永遠に流されたままなのでしょうか。
いつも思うのですが、当時の鯉住総理大臣は「民間に出来ることは民間にやらせます」と声高々に叫び、劇場で喝采を浴びていましたが、実際は「民間に出来ないことは政府もしません」だったのですよね。みーんな騙されちゃった(^_^;) ヨコミーも(>_<)
同じ震災被害でも、仙石線は鉄路で復旧したし、常磐線も鉄路で進んでいます。なぜ、気仙沼線だけが、民間からも、国政からも流されてしまったのでしょうか。
都会の弁護士とかは、1票の格差、1票の格差と騒いでいますが、こちらの格差の是正には、どなたが取り組んでくれるのでしょうか。
弁護士さん等は、地方から国会議員を取り上げるのがお仕事のようですが、この辺の方はご立派な方なので、我田引水的な成果は得られていません。
なので、もう一人、国会議員さんが欲しいのです。昔、岩手県南を地盤とし、JR大船渡線を大きく迂回させたようなお方を(^_^)v
更に右隣です。右上にコナカの赤い看板が見えます。一周しました。
コナカの看板から左、真ん中上に見えるクレーンは、少し下手に掛け替えられる気仙沼大橋の工事現場です。
その左奥の丘に見える大きな建物が、11月2日にオープンする新市立病院です。
その新市立病院です。ヨコミー、いつも向こう側のバイパスを通るので、この、東側から見る病院は初めてです。遠くからは見ていましたが、こんなにアップではありませんでした。
玄関は裏のバイパス側。これから大きく発展する予定は???なのに、ずいぶんと郊外に作ったものです。まあ、市街地に近い県有地の県立女子校跡地が得られれば最善でしたがね。
県の施設、以前は市街地から離れていたための反動でしょうか(^_^;) 多くの市民にとって、より近くに在って欲しいのは病院だと思うのですが(>_<)
あっ、この新病院、10月29日の雨の中、入院患者の移送が無事に行われました。
その数が結構少なかったのでその筋に聞いたら、ある程度の入院患者さんを少し前に現病院から自宅へ外泊させ、その後新病院へ戻ってきて貰うんじゃないかと。うーん、上手い手(^_^)v
外来診療は11月2日から。
こちらは現市立病院。でも、入院患者は既に居らず、少し前から外来も休んでいます。確か救急外来は個人病院へと書かれてありました。
でも、その後の利用はどうなるのでしょうね。左(南病棟、西病棟)は確か50年も前の建物。右は新しい建物なので、市役所の移転先に利用したら....との話も聞きます。
左を壊し、増築や駐車場にすれば、今の市役所より利便が増すことでしょう。
でも、今在る八日町や三日町を始め、近くに在る南町や魚町の方々は、不便になる、通りが寂れる....と反対するのでしょうね。
先ほど見えた大島の亀山です。山頂右下に白いレストハウスが見えます。昔はリフトで登り、そばやうどんを食べたものですが、いつからか食堂は無くなり、そのうちに売店まで無くなっていました。
震災でリフトも被災し、そのまま。レストハウスは開いているのでしょうか(>_<)
ヨコミー、また行ってみなきゃ(^_^;)
真ん中、薄緑色の建物は魚の冷凍倉庫。右隣の白い建物は、猪瀬元都知事が副知事時代、大津波で孤立した人々を救おうと、救出のヘリコプターを向かわせた中央公民館で、その跡地に立てられたもの。
更に右手には、本土と大島を結ぶ通称鶴亀大橋が見えます。この位置からだと、島と並行に架けられているように見えますが、間の湾をぐるっと左に大きく巻き、橋を経て写真右側の島内に接続します。
確かにぐるっと大きく巻くのですが、そのうち、今工事が進められている三陸道では、右手前の本土側からあの橋の手前を通って左の、そう鶴亀大橋の本土側に近い所へ通じるので、ちょっとジグザグにはなりますが、救急車は行く行くはそんなコースを辿って国道バイパスから新市立病院へ行くのかなぁ...と。
でも、鶴亀大橋の島側から西へ架けた方が、橋の工費は嵩むけど1つの橋で済むし、救急車や観光客にもシンプルで分かり易いと思うんだけんとね(^_^)v
まあ、今じゃ遅いけど(>_<)
既に、鶴亀大橋は地元や子ども達がイベントで渡っていますが、正式開通にはまだ1年半近くかかりそうです。
完成したら、遊びに来てけらいん(^_^;)
大島に嫁いだ「気仙沼ちゃん」も元気なようだがらっサ(^_^)v
気仙沼の今 解体始まっていた大谷中学校仮設住宅 20170911 [東日本大震災]
こんにちは、ヨコミーです。
ここは気仙沼市本吉町風の丘。
今日は、東日本大震災による大津波で亡くなられた方々の、月命日でした。
朝から雲が多く、夕方近くから雨が降ってきました。予報よりちょっと早い降り出しです。
実は昨日、あめ玉を噛んだら歯が壊れました(>_<)
水も湯も染みないので、後から治療...とも思っていましたが、やはり早めが...と思い、近くの歯科へ行ってきました。
以前詰めた所が、取れてしまったようです。最初は変に欠けたなぁ....、歯に節理でも有るのかなぁ...と思ったら、削った跡でした。
その後、大谷公民館北側を通ったら、しばらく振りに大谷中学校校庭仮設住宅が目に入ってきました。
以前は、近くに仮設の大谷郵便局があり、郵便を差し出しにウォーキングしながら来ていたのです。
しかし、郵便局が東のやや遠くへ再建されたので、足は「車」となり、仮設住宅はコースから外れ、足が遠のいていました。
なんと、既に解体が始まっていました。
※写真はクリックすると大きくなります。
仮設住宅群の西端です。大谷公民館前の、やや高い道路の端から撮影しました。
右奥の建物は大谷小学校。
仮設住宅は公民館の北側に在り、名前は大谷中学校仮設住宅となっています。
しかし誰が見ても、校庭を共有している小学校の前にも仮設は建っているのですが、なぜ正確ではないお名前を付けるのか、ヨコミーには理解できません(>_<)
メンツみたいなもの? それとも、共有の校庭みたく見えるけど、行政的には中学校の財産で、実は小学校には校庭が無かったとか.....(>_<) まあ、そんなことは無いとは思うんだけど、不思議(^_^;)
右隣です。この校庭にも、津波が押し寄せたと。
更に右隣。
小さな札がぶら下がっていました。
立ち入り禁止。
なんと、目隠しシートかと思ったら、防音シートだったのですね。
面白い(興味深い)です(^_^)v
このシート、どういう作りになっているのでしょうか。構造や成分を知りたいです(^_^;)
でも、防音だけなら、透明なシートでも良いはず。
そういえば、よーく、工事現場はいろいろなもので囲っていますが、なぜか透明なもので囲っている現場は見たことがありません。これも不思議(*^_^*)
更に右です。
右奥は大谷中学校。
見掛け上、中学校の前、最前列に見える所に、サポートセンターがありました。
更に右です。
右奥は中学校の体育館。
因みに、右奥端のブルーシートは、仮設住宅ではありません。関連施設かな!?? もう少し先では、水道工事や道路拡幅工事をしていましたが。
よーく見たら、解体の現場が見えました。
右下の表示を拡大してみました。
なんと工事の開始は6月で、11月末までの予定とあります。
うーん、ちょっとご無沙汰してしまいました(>_<)
でも、市の健診で公民館に来たときはどうだったか....。確か雨で、それにばかり注意が向いてしまったのかもしれません。
市内では、防災集団移転団地の敷地造成や災害公営住宅の完成などで、多くの方が仮設住宅から退去しました。
仮設住宅は、解体の計画が立てられましたが、市民会館西側にある気仙沼公園仮設みたく、まだ転居出来ない方が何人も入居しています。
解体のために集約され、仮設から仮設へ移らなければならない方も居る(居た?)とか。
ヨコミーは今日、某お遊び協会の会議等で、被災した南気仙沼地区を計4回通りました。
震災後、仮設に居たお婆さんが、前に住んでいた土地が嵩上げされたら、是非そこに自宅を再建したいと言っていた土地には、ようやく前の道路も含めて、土が高く盛られました。
後は上下水道の、市道への配管が必要でしょう。
でも、お婆さんは、いつまで待つようなのでしょうか。
以前住んでいた場所に自宅を再建したいというお婆さんの願いは、いつ、かなえられるのでしょうか。
あれからもう6年半も過ぎているのに....(>_<)
ここは気仙沼市本吉町風の丘。
今日は、東日本大震災による大津波で亡くなられた方々の、月命日でした。
朝から雲が多く、夕方近くから雨が降ってきました。予報よりちょっと早い降り出しです。
実は昨日、あめ玉を噛んだら歯が壊れました(>_<)
水も湯も染みないので、後から治療...とも思っていましたが、やはり早めが...と思い、近くの歯科へ行ってきました。
以前詰めた所が、取れてしまったようです。最初は変に欠けたなぁ....、歯に節理でも有るのかなぁ...と思ったら、削った跡でした。
その後、大谷公民館北側を通ったら、しばらく振りに大谷中学校校庭仮設住宅が目に入ってきました。
以前は、近くに仮設の大谷郵便局があり、郵便を差し出しにウォーキングしながら来ていたのです。
しかし、郵便局が東のやや遠くへ再建されたので、足は「車」となり、仮設住宅はコースから外れ、足が遠のいていました。
なんと、既に解体が始まっていました。
※写真はクリックすると大きくなります。
仮設住宅群の西端です。大谷公民館前の、やや高い道路の端から撮影しました。
右奥の建物は大谷小学校。
仮設住宅は公民館の北側に在り、名前は大谷中学校仮設住宅となっています。
しかし誰が見ても、校庭を共有している小学校の前にも仮設は建っているのですが、なぜ正確ではないお名前を付けるのか、ヨコミーには理解できません(>_<)
メンツみたいなもの? それとも、共有の校庭みたく見えるけど、行政的には中学校の財産で、実は小学校には校庭が無かったとか.....(>_<) まあ、そんなことは無いとは思うんだけど、不思議(^_^;)
右隣です。この校庭にも、津波が押し寄せたと。
更に右隣。
小さな札がぶら下がっていました。
立ち入り禁止。
なんと、目隠しシートかと思ったら、防音シートだったのですね。
面白い(興味深い)です(^_^)v
このシート、どういう作りになっているのでしょうか。構造や成分を知りたいです(^_^;)
でも、防音だけなら、透明なシートでも良いはず。
そういえば、よーく、工事現場はいろいろなもので囲っていますが、なぜか透明なもので囲っている現場は見たことがありません。これも不思議(*^_^*)
更に右です。
右奥は大谷中学校。
見掛け上、中学校の前、最前列に見える所に、サポートセンターがありました。
更に右です。
右奥は中学校の体育館。
因みに、右奥端のブルーシートは、仮設住宅ではありません。関連施設かな!?? もう少し先では、水道工事や道路拡幅工事をしていましたが。
よーく見たら、解体の現場が見えました。
右下の表示を拡大してみました。
なんと工事の開始は6月で、11月末までの予定とあります。
うーん、ちょっとご無沙汰してしまいました(>_<)
でも、市の健診で公民館に来たときはどうだったか....。確か雨で、それにばかり注意が向いてしまったのかもしれません。
市内では、防災集団移転団地の敷地造成や災害公営住宅の完成などで、多くの方が仮設住宅から退去しました。
仮設住宅は、解体の計画が立てられましたが、市民会館西側にある気仙沼公園仮設みたく、まだ転居出来ない方が何人も入居しています。
解体のために集約され、仮設から仮設へ移らなければならない方も居る(居た?)とか。
ヨコミーは今日、某お遊び協会の会議等で、被災した南気仙沼地区を計4回通りました。
震災後、仮設に居たお婆さんが、前に住んでいた土地が嵩上げされたら、是非そこに自宅を再建したいと言っていた土地には、ようやく前の道路も含めて、土が高く盛られました。
後は上下水道の、市道への配管が必要でしょう。
でも、お婆さんは、いつまで待つようなのでしょうか。
以前住んでいた場所に自宅を再建したいというお婆さんの願いは、いつ、かなえられるのでしょうか。
あれからもう6年半も過ぎているのに....(>_<)
気仙沼の今 南町三丁目界隈 20070904 [東日本大震災]
こんにちは、ヨコミーです。
ここは気仙沼市本吉町風の丘。
季節は、やはり変わりつつあります。
時々、北西の風が強く吹くことがあります。
昨日までの好天は去り、今日は曇りがちでした。
気温も低めで、長袖を着ることも。
昼間、小雨がぱらつき、一時はカメラを身体で覆わなくてはならないほどの降りに(>_<)
でも、アメダスには反映していませんでした。アメダスがある水道山には降らなかったのかな?
それでも天気は回復傾向で、先程、雲越しに月が見えていました。
この頃、気仙沼の市街地へ行くことが多いのです。
そう、お遊び団体の諸用で。
当然、車のガソリンは減り、大した収入も無いので、当たり前のことですが、お小遣いが減ります(>_<)
ヨコミー、キツキツの中で遊んでいます(^_^;)
営業している方々なら良いのですが、我が遊びは非営業。
諸用が多いと、アルバイト先を探すのに、支障が出ます。
アルバイトに、いっぱいお休みを呉れる職場も無いでしょうし(>_<)
そんな諸用をこなしている9月4日、気仙沼市民会館東側の通り・河原田大通りを市役所方面へ進み、南町四丁目の煎餅坂を下っていました。
旧・南町消防署の前で赤信号。
(写真はクリックすると大きくなります)
折角なので、右手をパチリ。右側の角はマンモス交番が在りました。
自転車に乗ったおっちゃんの左側は、南町の公設市場が在った所。
その奥に見える白いコンクリートは、内湾の防潮堤らしいです。
フェリーの下が隠れています。海面が見えません。
この内湾、ヨコミーは以前、フェリーの向こう側から内湾の道路へ回っていたのですが、復旧工事が行われていて通れないので、チェックが疎かになっていました(>_<)
更に左続きです。
盛土は分かるのですが、白い壁が延びています。
中央奥の、やや薄暗い高層?住宅は、太田入口西側の魚町一丁目に建った災害公営住宅。
その左上は、入沢の災害公営住宅。一番高い所の住宅は、旧・気仙沼女子高等学校の校庭かな?
そういえば以前、この辺をブログで紹介していました。いつかその移り変わりを紹介したいです。
以前の、市営駐車場の辺りに、フェリー乗り場が移ってきたのですね。
それにしても防潮堤が高いです。
ヨコミー、これは仕方ないかなぁ....と。陸側の工夫で乗り切りたいところです。
これでも、高さは不足かも(>_<)
津波は単なる波ではありません。
いってみれば、「動く海水台地」。
浸水した沿岸の各所で、津波を防ぐための防潮堤を作っています。
もし同じような津波が来たら、とりあえず津波を防いでくれることでしょう。
でも、防潮堤で跳ね返された海水は、「失礼しました....」と素直に沖へ帰ってくれるでしょうか?
津波はザブーンと来る波ではありません。「動く海水台地」。
津波の先頭が行く手を阻まれても、後から次々に海水の台地がやってきます。
すると、行き場を失った海水は、防潮堤の外側で水位を上げるのではと、ヨコミーは考えます。
あの、東日本大震災による大津波が来たときは、防潮堤は多くは小さなものでした。
その結果、海水は陸地に浸水したので、海岸線は、あの浸水高で済んだと思うのです。
同じ水量の津波が来たら、当時の浸水高を大きく上回るのでは.....と心配しています。
まあ、海水も「水」。
後から押し寄せる津波の圧力もあり、海水は水面の低い所を求めて、内湾に来る心配もあります。
そうなると、以前の津波を防ぐ高さでは、防潮堤の高さは不足するんじゃないかなぁと思うのです。
いつか、その筋の方から、正否をお聞きしましょう(^_^)v
ところで、フェリーの右奥にちょっとだけ見えているのは、鹿折に近いホテル望洋。
その昔は望洋館という、気仙沼一の旅館でしたが、残念ながら今年に入って、閉鎖となりました。
ここには、復興(復旧)景気という光が届かなかったのですね。
またひとつ、地元資本のホテルが消えました。
右手に連絡船の上部らしきものが見えています。教会風の建物の右下です。
その教会風の建物は結婚式場。
右上の小山は「陣山」。
市はこのてっぺんに慰霊の公園を作るそうですが、ヨコミーは心配しているのです。
ここは狭く、駐車場は多くは取れない計画です。
道は狭いので、バスで行くときは魚町・太田経由じゃ無く、鹿折の栄町(三坂)経由になると。
それでも狭いのです。
これで納得している市議さんもいて、ヨコミーはがっかり(>_<)
内湾・魚町の、旦那衆は近くで良いでしょうけれど、市を代表する慰霊の公園としては、駐車場が狭過ぎます。
「シャトルバスを出せば...」なんて言う人も居ますが、だったらバスが出発する、多くの車を置く所に、慰霊の公園を作ったら良いと思うのです(^_^)v
市は、またまた駐車場が狭い施設を作るのでしょうか、市民の利便も考えずに。
駐車場が狭いのは、市役所、市民会館、市立病院....。
市内の浸水地では、市に買い上げられたものの、未利用地が沢山有り、草刈りもままならないとか。
場所は南気仙沼でも、松岩でも、階上でも良いじゃないですか。
そんな土地を集約し、全部、または一部に土を盛り、駐車場不足を心配することが無い、広い駐車場を備えた慰霊の公園にして欲しいのです。
この右端は、以前、七十七銀行気仙沼支店が在った所。中央辺りには、陸前高田?から進出してきた、寝具等の丸平が在りました。
通りの奥に、酒造会社・男山本店の古い建物、大津波で1階が壊れ、2階部分が地面に着いて見えていたのですが、移転したのかな....。ヨコミー、行動力が不足しています(>_<)
左に見える蔵作りは、これまた酒造会社・両国の建物。立派に再建されました。
ヨコミー若いとき、この2社の工場へ、毎月顔を出していました。仕事(^_^;)
それにしても右手の盛土です。なんと高いこと(>_<)
両国の入口を考えると、2段重ねの土嚢(どのう)の下でも高い感じ。
店舗建設時に、両国では調べたと思うのですが、なんか気になります。
ちょっと見ないうちに、被災地は次々と変わって行きます。
誰か写真の名手も記録していることでしょうけれど、芸術性よりは記録性を重視して、ヨコミーは撮影を続けたいと思います(^_^)v
あっ、アルバイト探しもしながら....(*^_^*)
うーん、お遊び団体のボランティア事務は、辞めてからアルバイトを探すか、見つけてから辞めるか、それが問題(>_<)
困ったな...(^_^;)
ここは気仙沼市本吉町風の丘。
季節は、やはり変わりつつあります。
時々、北西の風が強く吹くことがあります。
昨日までの好天は去り、今日は曇りがちでした。
気温も低めで、長袖を着ることも。
昼間、小雨がぱらつき、一時はカメラを身体で覆わなくてはならないほどの降りに(>_<)
でも、アメダスには反映していませんでした。アメダスがある水道山には降らなかったのかな?
それでも天気は回復傾向で、先程、雲越しに月が見えていました。
この頃、気仙沼の市街地へ行くことが多いのです。
そう、お遊び団体の諸用で。
当然、車のガソリンは減り、大した収入も無いので、当たり前のことですが、お小遣いが減ります(>_<)
ヨコミー、キツキツの中で遊んでいます(^_^;)
営業している方々なら良いのですが、我が遊びは非営業。
諸用が多いと、アルバイト先を探すのに、支障が出ます。
アルバイトに、いっぱいお休みを呉れる職場も無いでしょうし(>_<)
そんな諸用をこなしている9月4日、気仙沼市民会館東側の通り・河原田大通りを市役所方面へ進み、南町四丁目の煎餅坂を下っていました。
旧・南町消防署の前で赤信号。
(写真はクリックすると大きくなります)
折角なので、右手をパチリ。右側の角はマンモス交番が在りました。
自転車に乗ったおっちゃんの左側は、南町の公設市場が在った所。
その奥に見える白いコンクリートは、内湾の防潮堤らしいです。
フェリーの下が隠れています。海面が見えません。
この内湾、ヨコミーは以前、フェリーの向こう側から内湾の道路へ回っていたのですが、復旧工事が行われていて通れないので、チェックが疎かになっていました(>_<)
更に左続きです。
盛土は分かるのですが、白い壁が延びています。
中央奥の、やや薄暗い高層?住宅は、太田入口西側の魚町一丁目に建った災害公営住宅。
その左上は、入沢の災害公営住宅。一番高い所の住宅は、旧・気仙沼女子高等学校の校庭かな?
そういえば以前、この辺をブログで紹介していました。いつかその移り変わりを紹介したいです。
以前の、市営駐車場の辺りに、フェリー乗り場が移ってきたのですね。
それにしても防潮堤が高いです。
ヨコミー、これは仕方ないかなぁ....と。陸側の工夫で乗り切りたいところです。
これでも、高さは不足かも(>_<)
津波は単なる波ではありません。
いってみれば、「動く海水台地」。
浸水した沿岸の各所で、津波を防ぐための防潮堤を作っています。
もし同じような津波が来たら、とりあえず津波を防いでくれることでしょう。
でも、防潮堤で跳ね返された海水は、「失礼しました....」と素直に沖へ帰ってくれるでしょうか?
津波はザブーンと来る波ではありません。「動く海水台地」。
津波の先頭が行く手を阻まれても、後から次々に海水の台地がやってきます。
すると、行き場を失った海水は、防潮堤の外側で水位を上げるのではと、ヨコミーは考えます。
あの、東日本大震災による大津波が来たときは、防潮堤は多くは小さなものでした。
その結果、海水は陸地に浸水したので、海岸線は、あの浸水高で済んだと思うのです。
同じ水量の津波が来たら、当時の浸水高を大きく上回るのでは.....と心配しています。
まあ、海水も「水」。
後から押し寄せる津波の圧力もあり、海水は水面の低い所を求めて、内湾に来る心配もあります。
そうなると、以前の津波を防ぐ高さでは、防潮堤の高さは不足するんじゃないかなぁと思うのです。
いつか、その筋の方から、正否をお聞きしましょう(^_^)v
ところで、フェリーの右奥にちょっとだけ見えているのは、鹿折に近いホテル望洋。
その昔は望洋館という、気仙沼一の旅館でしたが、残念ながら今年に入って、閉鎖となりました。
ここには、復興(復旧)景気という光が届かなかったのですね。
またひとつ、地元資本のホテルが消えました。
右手に連絡船の上部らしきものが見えています。教会風の建物の右下です。
その教会風の建物は結婚式場。
右上の小山は「陣山」。
市はこのてっぺんに慰霊の公園を作るそうですが、ヨコミーは心配しているのです。
ここは狭く、駐車場は多くは取れない計画です。
道は狭いので、バスで行くときは魚町・太田経由じゃ無く、鹿折の栄町(三坂)経由になると。
それでも狭いのです。
これで納得している市議さんもいて、ヨコミーはがっかり(>_<)
内湾・魚町の、旦那衆は近くで良いでしょうけれど、市を代表する慰霊の公園としては、駐車場が狭過ぎます。
「シャトルバスを出せば...」なんて言う人も居ますが、だったらバスが出発する、多くの車を置く所に、慰霊の公園を作ったら良いと思うのです(^_^)v
市は、またまた駐車場が狭い施設を作るのでしょうか、市民の利便も考えずに。
駐車場が狭いのは、市役所、市民会館、市立病院....。
市内の浸水地では、市に買い上げられたものの、未利用地が沢山有り、草刈りもままならないとか。
場所は南気仙沼でも、松岩でも、階上でも良いじゃないですか。
そんな土地を集約し、全部、または一部に土を盛り、駐車場不足を心配することが無い、広い駐車場を備えた慰霊の公園にして欲しいのです。
この右端は、以前、七十七銀行気仙沼支店が在った所。中央辺りには、陸前高田?から進出してきた、寝具等の丸平が在りました。
通りの奥に、酒造会社・男山本店の古い建物、大津波で1階が壊れ、2階部分が地面に着いて見えていたのですが、移転したのかな....。ヨコミー、行動力が不足しています(>_<)
左に見える蔵作りは、これまた酒造会社・両国の建物。立派に再建されました。
ヨコミー若いとき、この2社の工場へ、毎月顔を出していました。仕事(^_^;)
それにしても右手の盛土です。なんと高いこと(>_<)
両国の入口を考えると、2段重ねの土嚢(どのう)の下でも高い感じ。
店舗建設時に、両国では調べたと思うのですが、なんか気になります。
ちょっと見ないうちに、被災地は次々と変わって行きます。
誰か写真の名手も記録していることでしょうけれど、芸術性よりは記録性を重視して、ヨコミーは撮影を続けたいと思います(^_^)v
あっ、アルバイト探しもしながら....(*^_^*)
うーん、お遊び団体のボランティア事務は、辞めてからアルバイトを探すか、見つけてから辞めるか、それが問題(>_<)
困ったな...(^_^;)
気仙沼の今 本吉町小泉 浄福寺墓地から 20170815 [東日本大震災]
こんにちは、ヨコミーです。
ここは気仙沼市本吉町風の丘。
ここは風の丘ですが、今は風の「端境期」なのか、今日も風は微風。
朝から薄日が差し、気温がグングンと上がり、蒸し暑く、残暑でしょう。
そんな中、家庭菜園へ出ました。
目的はゴーヤーの収穫、トウモロコシやダイズの世話。
ゴーヤーは5本収穫。他に食べられないほど熟れ過ぎているやつが1本。
トウモロコシは初物を収穫し、受粉がまだらしい実に、遅れて植えた株から雄花の穂を取ってきて、人工授粉。
そう、今年の種は雄花が先に開いているので、雌花から受粉に使うヒゲが伸びてきた頃には、その株の雄花はとても老化したようになっているのです(>_<)
そして遅れて植えた株の根元に追肥し、土寄せ。この土寄せを、母は「きっかげ」といっていました。
ダイズは割と倒れてしまったので、手持ちの支柱で矯正。
2時間余りの作業でしたが、汗だくになりました(>_<)
実は今日、お昼辺りは雨の予報でした。
なので、大矢先輩からお誘いがあった、国際宇宙ステーションの太陽面通過現象を、市内で撮影する予定でしたが、雨予報でしたので、昨夜に断っていました。
ヨコミーにしては早すぎる決断で、失敗(>_<)
午後からは段々と涼しくなってきましたが、午後は某お遊び団体の事務で多忙と成り、やはり蒸し暑く(>_<)
夜になり涼しくなってきたのは良いのですが、21時を過ぎて、雷雨のような大雨が降り出しました。
大雨は20分30分ほどですが、繰り返し降ります。
午前中やった作業の成果、トウモロコシの根元に寄せた土と追肥は、流されたかもしれません(T_T)
なーんて書いていたら、急激に眠くなりました。
そう、午前6時直前のアラートで、早起きしてしまったのです。
「北」の問題が解決しない限り、私たちにも安眠は無いのかもしれません。
そろそろ本題に(^_^;)
8月15日、母実家の墓参りに行きました。市内本吉町小泉の浄福寺です。
出来ればじっくりと時間経過を追いたいのですが、こんなところで今夜はご容赦をm(_ _)m
凡そ東側、今年の8月15日撮影です。すごい盛土です。震災後に急激に進められた高速道路・三陸道の建設です。
毎年3回、ここを訪れてン十年になります。
なので、春の彼岸以外、緑や黄金色に染まった水田を見ることは、至極当然となっていたので、写真を撮る気など無かったのです。
そこに在ってしかるべきもの....、なんか宿のアメニティみたい(^_^;)
そんなヨコミーの常識が崩れたのは、東日本大震災による大津波被害でした。
ヨコミーの常識となっていた景色が既に無くなってしまったけど、でも、そこからでも記録しなくちゃ....と始めたのがこの一連の撮影です。
5年前の2012年9月に、ほぼ同位置を撮影していました。
右奥に海がちょっとだけ見えています。平らな所。
白い建物は、既に廃墟となって久しいシーサイドパレス。
右の岬の左側に、岩礁も見えます。
クレーンが立っている辺りは、トマト栽培工場の建設でしょうか。
その右側の現在です。
中央右に見える白い横長の屋根は、トマトの栽培工場かもしれません。
その左右に見える紺色の構造物は、被災したのにわざわざ海側に掛け替えられている国道45号の小泉大橋。
それにしても、手前に見える高速道路工事の土量の多いこと!!!
2012年のほぼ同位置です。
見えている橋は、被災直後に自衛隊さんが作ってくれた、国道45号の仮橋。現用です。
橋の右側の丘で、今と比べて建物が1棟少ないのが分かるでしょうか。
被災した公民館が、この丘の空いている所に建てられたのです。
でも、右端の白い建物・小泉中学校は今春で閉校して空いたまま。まだ立派です。
タイムラグは2年か3年。なんで公民館建設前に、中学校校舎の活用を考えなかったんだろう....と思っていたら、過日、地元紙も取り上げていました。
公民館の建設費用は税金? であるならば税金も、近々に空いてしまう校舎も、もったいないと思わなかったのでしょうか、残念です。
たとえ、国から全額貰ったとしても、私たちは市民で有り、国に税金を支払っている国民でも有るのです。
仮に、市町村合併時のお約束に有ったとしても、良識までは流されないで居て欲しかったのです。
我が故郷・市内鹿折の公民館は、被災してからまだまだ小学校に間借りですよ(^_^;)
更に右側、現在です。
高速道路の橋脚が異様です。
海の最前線に巨大堤防が有り、そして第二の堤防として国道の盛土が有ります。
なのに高速道路は、高さが高過ぎる気がするのです。左端の斜めに盛られている土より高くなりそう.....(>_<)
ヨコミー、巨大堤防が無いのなら、この高さでも納得ですが.....。
川土手も嵩上げ工事を進めているのに、手前の水田にも土がしっかりと盛られています。
こんなに盛り上げるのなら、川土手の嵩上げは要らないような....!??
それにしてもこの高速道路、この辺では右奥の南西方向へ進んでいますが、奥の森林に入ってから大きく左へ直角に曲がる設計。
左から1本目と2本目の橋脚の間の奥に見える、山肌が露出した辺りを、今度は左に進みます。
なんでもっと、スムーズに行けるように作らないのでしょうか、不思議(>_<)
2012年9月の、ほぼ同位置です。
右に見えるのは、被災したJR気仙沼線の鉄橋の一部。小泉川(津谷川)に掛かっていました。
これなどは、大津波の威力を伝えるのにふさわしい遺構の一つだと思っているのですが、高速道路か川土手の嵩上げ工事で、見えなくなりました。
更に現在の右側です。
中央やや左上の森に、山肌が見えます。高速道路はあちらへ。
更に現在の右側です。
この辺りのお墓も、大津波で倒されました。
更に現在の右側です。
林の向こうに、被災したJR気仙沼線の高架橋が見えます。
アップしてみました。
やや高い位置からなので高さは余り感じませんが、すぐ下から見ると、津波の威力が分かります。
まだ壊されていなくて安心。JRか公で、これを保存して欲しいのですが.....m(_ _)m
2012年の様子です。
これからすると、現在は籠状のものと、上の柵の一部が撤去されています。
東日本大震災からもう6年余り。
大津波の爪痕は段々と消えてしまっています。
早く、しっかりと残さないと、痛ましい震災が忘れ去られそうです。
区画整理された土地や、高速道路の工事を見て、よーく、「復興しましたね」という、余所から来た御仁がいらっしゃいます。
ヨコミー、ある程度知っている方になら、「いやいや、それはまだまだですよ....」と説明するのですが、現実をしっかりとは見てくれない方が多く、ヨコミー困っています。
あっ、そんなことより、東海地震や南海地震が心配な地方の皆様には、もし被災したらどのようなまちづくりをするか、更にはコンパクトなまちづくりを基本に、出来れば具体的な配置(エリア)まで事前に検討し、計画を作った方がいいと思った次第。
事後、バタバタやっていたんじゃ、決して良いまちづくりは出来ないなぁと思ったから(^_^)v
雨はまだ時々、大きな雨音を立てて降っています(>_<)
ここは気仙沼市本吉町風の丘。
ここは風の丘ですが、今は風の「端境期」なのか、今日も風は微風。
朝から薄日が差し、気温がグングンと上がり、蒸し暑く、残暑でしょう。
そんな中、家庭菜園へ出ました。
目的はゴーヤーの収穫、トウモロコシやダイズの世話。
ゴーヤーは5本収穫。他に食べられないほど熟れ過ぎているやつが1本。
トウモロコシは初物を収穫し、受粉がまだらしい実に、遅れて植えた株から雄花の穂を取ってきて、人工授粉。
そう、今年の種は雄花が先に開いているので、雌花から受粉に使うヒゲが伸びてきた頃には、その株の雄花はとても老化したようになっているのです(>_<)
そして遅れて植えた株の根元に追肥し、土寄せ。この土寄せを、母は「きっかげ」といっていました。
ダイズは割と倒れてしまったので、手持ちの支柱で矯正。
2時間余りの作業でしたが、汗だくになりました(>_<)
実は今日、お昼辺りは雨の予報でした。
なので、大矢先輩からお誘いがあった、国際宇宙ステーションの太陽面通過現象を、市内で撮影する予定でしたが、雨予報でしたので、昨夜に断っていました。
ヨコミーにしては早すぎる決断で、失敗(>_<)
午後からは段々と涼しくなってきましたが、午後は某お遊び団体の事務で多忙と成り、やはり蒸し暑く(>_<)
夜になり涼しくなってきたのは良いのですが、21時を過ぎて、雷雨のような大雨が降り出しました。
大雨は20分30分ほどですが、繰り返し降ります。
午前中やった作業の成果、トウモロコシの根元に寄せた土と追肥は、流されたかもしれません(T_T)
なーんて書いていたら、急激に眠くなりました。
そう、午前6時直前のアラートで、早起きしてしまったのです。
「北」の問題が解決しない限り、私たちにも安眠は無いのかもしれません。
そろそろ本題に(^_^;)
8月15日、母実家の墓参りに行きました。市内本吉町小泉の浄福寺です。
出来ればじっくりと時間経過を追いたいのですが、こんなところで今夜はご容赦をm(_ _)m
凡そ東側、今年の8月15日撮影です。すごい盛土です。震災後に急激に進められた高速道路・三陸道の建設です。
毎年3回、ここを訪れてン十年になります。
なので、春の彼岸以外、緑や黄金色に染まった水田を見ることは、至極当然となっていたので、写真を撮る気など無かったのです。
そこに在ってしかるべきもの....、なんか宿のアメニティみたい(^_^;)
そんなヨコミーの常識が崩れたのは、東日本大震災による大津波被害でした。
ヨコミーの常識となっていた景色が既に無くなってしまったけど、でも、そこからでも記録しなくちゃ....と始めたのがこの一連の撮影です。
5年前の2012年9月に、ほぼ同位置を撮影していました。
右奥に海がちょっとだけ見えています。平らな所。
白い建物は、既に廃墟となって久しいシーサイドパレス。
右の岬の左側に、岩礁も見えます。
クレーンが立っている辺りは、トマト栽培工場の建設でしょうか。
その右側の現在です。
中央右に見える白い横長の屋根は、トマトの栽培工場かもしれません。
その左右に見える紺色の構造物は、被災したのにわざわざ海側に掛け替えられている国道45号の小泉大橋。
それにしても、手前に見える高速道路工事の土量の多いこと!!!
2012年のほぼ同位置です。
見えている橋は、被災直後に自衛隊さんが作ってくれた、国道45号の仮橋。現用です。
橋の右側の丘で、今と比べて建物が1棟少ないのが分かるでしょうか。
被災した公民館が、この丘の空いている所に建てられたのです。
でも、右端の白い建物・小泉中学校は今春で閉校して空いたまま。まだ立派です。
タイムラグは2年か3年。なんで公民館建設前に、中学校校舎の活用を考えなかったんだろう....と思っていたら、過日、地元紙も取り上げていました。
公民館の建設費用は税金? であるならば税金も、近々に空いてしまう校舎も、もったいないと思わなかったのでしょうか、残念です。
たとえ、国から全額貰ったとしても、私たちは市民で有り、国に税金を支払っている国民でも有るのです。
仮に、市町村合併時のお約束に有ったとしても、良識までは流されないで居て欲しかったのです。
我が故郷・市内鹿折の公民館は、被災してからまだまだ小学校に間借りですよ(^_^;)
更に右側、現在です。
高速道路の橋脚が異様です。
海の最前線に巨大堤防が有り、そして第二の堤防として国道の盛土が有ります。
なのに高速道路は、高さが高過ぎる気がするのです。左端の斜めに盛られている土より高くなりそう.....(>_<)
ヨコミー、巨大堤防が無いのなら、この高さでも納得ですが.....。
川土手も嵩上げ工事を進めているのに、手前の水田にも土がしっかりと盛られています。
こんなに盛り上げるのなら、川土手の嵩上げは要らないような....!??
それにしてもこの高速道路、この辺では右奥の南西方向へ進んでいますが、奥の森林に入ってから大きく左へ直角に曲がる設計。
左から1本目と2本目の橋脚の間の奥に見える、山肌が露出した辺りを、今度は左に進みます。
なんでもっと、スムーズに行けるように作らないのでしょうか、不思議(>_<)
2012年9月の、ほぼ同位置です。
右に見えるのは、被災したJR気仙沼線の鉄橋の一部。小泉川(津谷川)に掛かっていました。
これなどは、大津波の威力を伝えるのにふさわしい遺構の一つだと思っているのですが、高速道路か川土手の嵩上げ工事で、見えなくなりました。
更に現在の右側です。
中央やや左上の森に、山肌が見えます。高速道路はあちらへ。
更に現在の右側です。
この辺りのお墓も、大津波で倒されました。
更に現在の右側です。
林の向こうに、被災したJR気仙沼線の高架橋が見えます。
アップしてみました。
やや高い位置からなので高さは余り感じませんが、すぐ下から見ると、津波の威力が分かります。
まだ壊されていなくて安心。JRか公で、これを保存して欲しいのですが.....m(_ _)m
2012年の様子です。
これからすると、現在は籠状のものと、上の柵の一部が撤去されています。
東日本大震災からもう6年余り。
大津波の爪痕は段々と消えてしまっています。
早く、しっかりと残さないと、痛ましい震災が忘れ去られそうです。
区画整理された土地や、高速道路の工事を見て、よーく、「復興しましたね」という、余所から来た御仁がいらっしゃいます。
ヨコミー、ある程度知っている方になら、「いやいや、それはまだまだですよ....」と説明するのですが、現実をしっかりとは見てくれない方が多く、ヨコミー困っています。
あっ、そんなことより、東海地震や南海地震が心配な地方の皆様には、もし被災したらどのようなまちづくりをするか、更にはコンパクトなまちづくりを基本に、出来れば具体的な配置(エリア)まで事前に検討し、計画を作った方がいいと思った次第。
事後、バタバタやっていたんじゃ、決して良いまちづくりは出来ないなぁと思ったから(^_^)v
雨はまだ時々、大きな雨音を立てて降っています(>_<)
気仙沼の今 旧・河北ビルから 20170726 [東日本大震災]
こんにちは、ヨコミーです。
ここは気仙沼市本吉町風の丘。
8月2日に梅雨明け宣言が出されましたが、一向に天気は良くなる気配は無く.....。
逆に、梅雨明け宣言したら、天候が悪くなった感じ....(>_<)
下の写真は7月26日ですが、その辺りの方が天気は良かった感じ(^_^;)
今日8月6日までに、東北の梅雨明け宣言が取り消されたとは、まだ聞きません。
どーなってんだか(T_T)
風の丘は、風神さまは夏期休暇中のようで、ムシムシ、ムレムレで大変です(>_<)
最近、南気仙沼方面へ行く機会が多く、折角なので、気仙沼中央公民館等が入っている旧・河北ビルへ、カメラも持って入りました。
そしてすぐ3階のトイレへ、です(>_<)
あっ、男子トイレです。盗撮ではありません(^_^;)
確か3度目位なので、比較の写真を並べられれば良かったのですが、すみませんm(_ _)m
このブログの、最初の辺りにも有ったような.....(^_^;)
旧・河北ビルは、市役所から南東へ1.2km余りの所に在る、3階建ての建物。
1.2kmですが、間には気仙沼小学校や同中学校、気仙沼市民会館等が建つ小山が在り、普通は人も車も東に迂回します。
健脚な方は、市役所隣の隣にある郵便局前の交差点から小学校に登り、市民会館前の狭い道を進むと、ビルの真向かいに下りることが出来ます。
その降り口がオレンジ色の階段です。ここは、東日本大震災による大津波で壊れ、早めに復旧して頂きました。市民会館や小・中学校は右の丘の奥。
中央は幸町三丁目の災害公営住宅です。
中央から左側は、以前は多くの住宅や車の販売店、飲食街、ちょっとした商店、病院等が在りました。
震災後、ハイカラな、気仙沼としては今までに無い高層住宅が出来ました。
でも、スーパーは左の道をずーっと進んで橋を渡り、もう少し行って中谷地交差点から更に北や南へ行かねばなりません。
徒歩では大変。
路線バスは復活したかなぁ....。
あっ、先日、市役所のラジオ担当さんにお会いしたのですが、今はバスの担当と聞いてちょっとがっかりしていたのですが、そのとき聞いておけば良かった....(>_<)
この辺、結構盛土しています。一番低いのは中央下から右に行く道路で、それでも30cm程度は盛っています。
災害公営住宅付近は3mも盛ったかな。
更に左側です。
旧・河北ビルの南隣は小さな丘になっていて、そこを通る小径の端に手摺りが在ります。
1/25000の地図で見たら、オレンジの階段から続くような小径でした。ひょっとしたら赤線かもしれません。つまり、国有歩道(^_^;) うーん、昔はリヤカーや馬車も通っていたことでしょう(*^_^*)
左のプレハブは、2店舗だけの仮設商店。ここは後で。
ちょっと道路が変わったので、具体的な位置は自信ないですが、中央付近はマルキという食堂や、ミート米倉が在った辺り。
中央奥は災害公営住宅。右端は南郷に在った南気仙沼小学校(被災して廃校)の跡地に建てられた、南郷災害公営住宅3棟の内の1棟。写真右から左へ流れる大川の向こう岸。
真ん中と左は内ノ脇の災害公営住宅。川の手前、2棟です。
それらの電柱を隔てた左に、小さいですが赤く見えるのはイオン。最寄りのスーパーは、そこか、中谷地交差点を北に行ったビックハウス。
後者がやや近いかもしれませんが、幸町のお年寄りには大変です。
その赤いイオンのずっーと手前に、JR南気仙沼駅が在り、気仙沼市街地への南の玄関口として、多くの乗降客で賑わっていました。
それが、大津波で、今では亡き、JR南気仙沼駅となってしまいました(>_<)
そのJRは、気仙沼線の鉄路を見捨てました。
国も、黒字会社には災害復旧といえども補助しないと、JR気仙沼線の鉄路を見捨てました。
震災以前は、気仙沼・仙台間を快速で2時短足らずで結んでいたのですが、現在その時間を実現するためには、倍額を支払って、遠回りの新幹線を利用しなければなりません。
高速バスでもまだまだ。
これが公共交通なのでしょうか??????????
おっと、ヨコミー眠くなってきたので端折りますm(_ _)m
奥の山の向こうは、今は市内となった旧・本吉町。
幸町住宅前の道のずーっと奥に、ちょっと凸凹の山が連なっていますが、右端の山が、5月か6月に紹介したツツジ山・徳仙丈山(とくせんじょうさん。711m)です。
丁度道が山に当たった辺りに、あちら側の駐車場からまっすぐ登り、小さなピークを3つ位越えた先に、徳仙丈山が在りました。
あのときの物語は、奥のギザギザ山での事でした(*^_^*)
その右側手前に半分しか見えていない山は、市民の森。
更に左側です。
中央やや左上辺りに、七十七銀行内ノ脇支店が在りました。セブンは真ん中辺か。
震災前は、沢山の建物が在りました。
道路も変わり、遠くの風景が無かったら、気仙沼と分かる人は居ないかも(>_<)
左右に走る道路は、左手の気仙沼魚市場へ続きます。
更に左側です。左手前の民家は、ちょっとした丘の上に在り、修理した跡は見えますが、以前の姿を残してます。
水は来たのでしょうけれど、周囲を囲む建物が、流れ来る大きな瓦礫から守ってくれたのでしょう。旧・河北ビルもここも町字は魚市場前。
写真左上に在る一番高い建物は、以前は歯科が入っていたはず。弁天町です。
右側の道路向かいは仲町二丁目。昔は映画館も在りました。
海は歯科の向こうから左手。
それにしても梅雨明け前だというのに、こんなに良い天気でした。
なのに、梅雨明け宣言が出たら、本当に梅雨に入ってしまった感じ....(>_<)
先ほど見えた2軒だけの仮設店舗です。
ファッションとハートフルグッズの店・マルコウさんと、鯛焼きの小野寺商店さんでした。
マルコウさんとは縁は無かったのですが、小野寺さんは内湾の汽船発着所に近い魚町二丁目でやっていました。
すぐ目の前が海なのですっかりと被災。
同じ二丁目の近くに出来た仮設店舗で、電気屋さん等何軒かと一緒に営業していましたが、復旧工事等で立ち退いていました。
時々でしたが、以前から美味しい鯛焼きを買っていたので、どこへ移ったのか気になっていました(^_^;)
ようやく見つけたので、明日にも回ってみます(^_^)v
でも、ちょっと準備が大変(>_<)
なにせ、黒い服装なので、どこかで着替えなくては.....(^_^;)
市内で大きく浸水した辺りに在った仮設商店街は、結構無くなりました。
300tもの船が打ち上げられた鹿折地区に在った仮設商店街や、内湾の紫市場、先ほどの魚町二丁目、市営駐車場近くの復興小町とか。
あっ、魚町一丁目のはどうなったんだろう??? 記憶は無いのですが、写真を探してみます(^_^;)
JR旧・松岩駅付近の仮設店舗・ココサカエルは、まだやっています。
因みに、「ここが栄えて欲しい」「店舗を建てて、ここに帰る」という願いから名付けられました。
どこでもお客さんが、観光客が少なくなったと聞きますが、仮設でつないできたお店が、すべて新しいお店に入れる(再建できる)訳では無いようです。
お客さんが減ったり、跡継ぎが居ないのに無理して借金して再建しても返済が大変とか。
ヨコミーの先輩のように、店も自宅も再建できないで亡くなった人も.....(>_<)
厳しい現実を前に、仮設店舗の主の悩みは尽きないのかもしれません。
まあ、何処の仮設店舗でも見掛けましたなら、是非のぞいて見て、お気に入りが有りましたなら、お買い求め願いますm(_ _)m
因みにヨコミー、明日は車内で着替え、鯛焼きを買うつもりです(^_^)v
たとえ(たとい)、お腹に脂肪が更に溜まろうとも(^_^;)
ここは気仙沼市本吉町風の丘。
8月2日に梅雨明け宣言が出されましたが、一向に天気は良くなる気配は無く.....。
逆に、梅雨明け宣言したら、天候が悪くなった感じ....(>_<)
下の写真は7月26日ですが、その辺りの方が天気は良かった感じ(^_^;)
今日8月6日までに、東北の梅雨明け宣言が取り消されたとは、まだ聞きません。
どーなってんだか(T_T)
風の丘は、風神さまは夏期休暇中のようで、ムシムシ、ムレムレで大変です(>_<)
最近、南気仙沼方面へ行く機会が多く、折角なので、気仙沼中央公民館等が入っている旧・河北ビルへ、カメラも持って入りました。
そしてすぐ3階のトイレへ、です(>_<)
あっ、男子トイレです。盗撮ではありません(^_^;)
確か3度目位なので、比較の写真を並べられれば良かったのですが、すみませんm(_ _)m
このブログの、最初の辺りにも有ったような.....(^_^;)
旧・河北ビルは、市役所から南東へ1.2km余りの所に在る、3階建ての建物。
1.2kmですが、間には気仙沼小学校や同中学校、気仙沼市民会館等が建つ小山が在り、普通は人も車も東に迂回します。
健脚な方は、市役所隣の隣にある郵便局前の交差点から小学校に登り、市民会館前の狭い道を進むと、ビルの真向かいに下りることが出来ます。
その降り口がオレンジ色の階段です。ここは、東日本大震災による大津波で壊れ、早めに復旧して頂きました。市民会館や小・中学校は右の丘の奥。
中央は幸町三丁目の災害公営住宅です。
中央から左側は、以前は多くの住宅や車の販売店、飲食街、ちょっとした商店、病院等が在りました。
震災後、ハイカラな、気仙沼としては今までに無い高層住宅が出来ました。
でも、スーパーは左の道をずーっと進んで橋を渡り、もう少し行って中谷地交差点から更に北や南へ行かねばなりません。
徒歩では大変。
路線バスは復活したかなぁ....。
あっ、先日、市役所のラジオ担当さんにお会いしたのですが、今はバスの担当と聞いてちょっとがっかりしていたのですが、そのとき聞いておけば良かった....(>_<)
この辺、結構盛土しています。一番低いのは中央下から右に行く道路で、それでも30cm程度は盛っています。
災害公営住宅付近は3mも盛ったかな。
更に左側です。
旧・河北ビルの南隣は小さな丘になっていて、そこを通る小径の端に手摺りが在ります。
1/25000の地図で見たら、オレンジの階段から続くような小径でした。ひょっとしたら赤線かもしれません。つまり、国有歩道(^_^;) うーん、昔はリヤカーや馬車も通っていたことでしょう(*^_^*)
左のプレハブは、2店舗だけの仮設商店。ここは後で。
ちょっと道路が変わったので、具体的な位置は自信ないですが、中央付近はマルキという食堂や、ミート米倉が在った辺り。
中央奥は災害公営住宅。右端は南郷に在った南気仙沼小学校(被災して廃校)の跡地に建てられた、南郷災害公営住宅3棟の内の1棟。写真右から左へ流れる大川の向こう岸。
真ん中と左は内ノ脇の災害公営住宅。川の手前、2棟です。
それらの電柱を隔てた左に、小さいですが赤く見えるのはイオン。最寄りのスーパーは、そこか、中谷地交差点を北に行ったビックハウス。
後者がやや近いかもしれませんが、幸町のお年寄りには大変です。
その赤いイオンのずっーと手前に、JR南気仙沼駅が在り、気仙沼市街地への南の玄関口として、多くの乗降客で賑わっていました。
それが、大津波で、今では亡き、JR南気仙沼駅となってしまいました(>_<)
そのJRは、気仙沼線の鉄路を見捨てました。
国も、黒字会社には災害復旧といえども補助しないと、JR気仙沼線の鉄路を見捨てました。
震災以前は、気仙沼・仙台間を快速で2時短足らずで結んでいたのですが、現在その時間を実現するためには、倍額を支払って、遠回りの新幹線を利用しなければなりません。
高速バスでもまだまだ。
これが公共交通なのでしょうか??????????
おっと、ヨコミー眠くなってきたので端折りますm(_ _)m
奥の山の向こうは、今は市内となった旧・本吉町。
幸町住宅前の道のずーっと奥に、ちょっと凸凹の山が連なっていますが、右端の山が、5月か6月に紹介したツツジ山・徳仙丈山(とくせんじょうさん。711m)です。
丁度道が山に当たった辺りに、あちら側の駐車場からまっすぐ登り、小さなピークを3つ位越えた先に、徳仙丈山が在りました。
あのときの物語は、奥のギザギザ山での事でした(*^_^*)
その右側手前に半分しか見えていない山は、市民の森。
更に左側です。
中央やや左上辺りに、七十七銀行内ノ脇支店が在りました。セブンは真ん中辺か。
震災前は、沢山の建物が在りました。
道路も変わり、遠くの風景が無かったら、気仙沼と分かる人は居ないかも(>_<)
左右に走る道路は、左手の気仙沼魚市場へ続きます。
更に左側です。左手前の民家は、ちょっとした丘の上に在り、修理した跡は見えますが、以前の姿を残してます。
水は来たのでしょうけれど、周囲を囲む建物が、流れ来る大きな瓦礫から守ってくれたのでしょう。旧・河北ビルもここも町字は魚市場前。
写真左上に在る一番高い建物は、以前は歯科が入っていたはず。弁天町です。
右側の道路向かいは仲町二丁目。昔は映画館も在りました。
海は歯科の向こうから左手。
それにしても梅雨明け前だというのに、こんなに良い天気でした。
なのに、梅雨明け宣言が出たら、本当に梅雨に入ってしまった感じ....(>_<)
先ほど見えた2軒だけの仮設店舗です。
ファッションとハートフルグッズの店・マルコウさんと、鯛焼きの小野寺商店さんでした。
マルコウさんとは縁は無かったのですが、小野寺さんは内湾の汽船発着所に近い魚町二丁目でやっていました。
すぐ目の前が海なのですっかりと被災。
同じ二丁目の近くに出来た仮設店舗で、電気屋さん等何軒かと一緒に営業していましたが、復旧工事等で立ち退いていました。
時々でしたが、以前から美味しい鯛焼きを買っていたので、どこへ移ったのか気になっていました(^_^;)
ようやく見つけたので、明日にも回ってみます(^_^)v
でも、ちょっと準備が大変(>_<)
なにせ、黒い服装なので、どこかで着替えなくては.....(^_^;)
市内で大きく浸水した辺りに在った仮設商店街は、結構無くなりました。
300tもの船が打ち上げられた鹿折地区に在った仮設商店街や、内湾の紫市場、先ほどの魚町二丁目、市営駐車場近くの復興小町とか。
あっ、魚町一丁目のはどうなったんだろう??? 記憶は無いのですが、写真を探してみます(^_^;)
JR旧・松岩駅付近の仮設店舗・ココサカエルは、まだやっています。
因みに、「ここが栄えて欲しい」「店舗を建てて、ここに帰る」という願いから名付けられました。
どこでもお客さんが、観光客が少なくなったと聞きますが、仮設でつないできたお店が、すべて新しいお店に入れる(再建できる)訳では無いようです。
お客さんが減ったり、跡継ぎが居ないのに無理して借金して再建しても返済が大変とか。
ヨコミーの先輩のように、店も自宅も再建できないで亡くなった人も.....(>_<)
厳しい現実を前に、仮設店舗の主の悩みは尽きないのかもしれません。
まあ、何処の仮設店舗でも見掛けましたなら、是非のぞいて見て、お気に入りが有りましたなら、お買い求め願いますm(_ _)m
因みにヨコミー、明日は車内で着替え、鯛焼きを買うつもりです(^_^)v
たとえ(たとい)、お腹に脂肪が更に溜まろうとも(^_^;)